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1976年のサモ・ハン(洪金寶)②

1975~76年は、台湾のアクション系娯楽映画にとってターニング・ポイントとなった年でもありました。
きっかけは、ブルース・リー登場以前から香港最大の映画会社ショウ・ブラザースで活躍していた往年の大スター、ジミー・ウォング(王羽)が企画した『片腕カンフー対空とぶギロチン』(76年)でした。

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香港のショウ・ブラザースで華々しいキャリアをスタートしながら、数々のスキャンダルや黒い交際からショウ・ブラザースを飛出し、当時新興だったゴールデン・ハーベストへ移るも不祥事は止まらず台湾映画界へ流れて行ったのです。スターとしては盛りを過ぎていたジミーが、文字通り最後の一花を咲かせるべく企画したのが、自身の代表作『片腕ドラゴン』(72年)の続編でした。そして1975年、その武術指導として当時ショウ・ブラザースでトップの地位を築いていたカンフー・武俠映画の巨匠チャン・チェ(張徹)監督とガッチリ手を結んでいたラウ・カーリョン(劉家良)に声を掛けたのです。
元々ジミー・ウォングは、ショウ・ブラザース入りした後チャン・チェ監督の下で『片腕必殺剣』(67年)に主演し、時代劇アクションスターとしての地位を確立するのですが、その撮影現場で若きジミーに殺陣を教え込んだのがラウ・カーリョンでした。ラウ・カーリョンを「師傅(しーふー。師匠、先生の意)」と呼び慕ったジミーは、その経験を活かし刀剣などの武器を使わず己の手足、つまり拳脚のみでを格闘する『吼えろ! ドラゴン 起て! ジャガー』(70年)を監督も兼ねて主演し、興行収入第1位を記録する大ヒットをやってのけます。当時としては画期的だったカンフー・アクションの原点ともなり、後年アメリカで大ヒットを飛ばす『キング・ボクサー大逆転』(72年)を始め各方面に大きな影響を与えました。そして何より、この映画をアメリカで観たブルース・リー(李小龍)の香港凱旋への契機を与えた1作というのは、ファンやマニアの間でよく知られたところです。

話が本題から脱線してしまいましたが、前述したようにジミーが声を掛けて来た時、ラウ・カーリョンもまた転機を迎えていたのです。
『片腕必殺剣』を撮ったチャン・チェ監督は、74年台湾に「長弓電影公司」という映画会社を設立しました。風光明媚でロケ地にも豊富な台湾は、カンフーや武俠映画を得意としたチャン・チェ監督にとっても格好の映画撮影の拠点であり、投資や税金対策でもありました。
チャン・チェ監督は、次回作『続・少林寺列伝』(74年)をこの「長弓電影公司」で制作するため台湾ロケでの武術指導の要としてラウ・カーリョンに声を掛けます。不馴れな土地での仕事で且つ同業の盟友だったタン・チャ(唐佳)も不在なため一時は躊躇しましたが、チャン・チェ監督が「台湾へ行ってくれたら監督デビューさせる」と告げた為、監督志望のラウ・カーリョンは台湾行きを承諾したのです。

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その後も台湾と香港のショウ・ブラザース・スタジオを往復しながら『嵐を呼ぶドラゴン』や『洪家拳対詠春拳』(共に74年)といったチャン・チェ監督作の武術指導を続けますが、一向に監督デビューの場を与えないチャン・チェ監督にラウ・カーリョンは不信感を募らせます。ジミーに声を掛けられたのはまさにそうした最中でした。前述の通りジミーは元々チャン・チェ監督作に主演してスターとなり、義理の親子関係を結ぶほど蜜月な状態にありましたが、ジミーが独立を計ってショウ・ブラザースを出奔した為映画界での育ての親といえるチャン・チェ監督とは絶縁状態にありました。双方を慮り、最初はジミーの申し出を固辞したラウ・カーリョンでしたが、高額なギャラの提示と既に撮影準備に入っていると聴かされ、ジミーが双方の間に入る形で一旦はチャン・チェ監督がラウ・カーリョンの貸出を許可します。
しかし、ジミーとラウ・カーリョンが撮影を開始した直後チャン・チェ監督は前言を翻し、「契約違反」とラウ・カーリョンに詰寄り「3日以内に台湾を出ないと訴える」と宣告します。板挟みになりながらも、突如として無情な暴言を吐き続けるチャン・チェ監督に愛想を尽かしたラウ・カーリョンは、台湾に残ってジミーと『片腕カンフー対空とぶギロチン』の撮影を続けます。アクションの要であるラウ・カーリョンを失ったチャン・チェ監督でしたが、撮影に集まった台湾の無名のスタントマンや武術指導家の手を借りて現地で撮影を続行します。彼らもまた尊敬する大監督に応えようと懸命にアクションの研究と実践に没頭します。やがてそのなかから『五毒拳』(78年)に主演する鹿峯や江生たちが発掘され、武術指導家からはロバート・タイ(戴徹)という逸材が台頭することになります。

そしてもうひとり、この年の台湾で主演デビューを飾った若きスター候補生がいました。ジャッキー・チェン(成龍)です。ゴールデン・ハーベストで気鋭の新進監督ジョン・ウー(吳宇森)と『カラテ愚連隊』(75年、武術指導のみ)や『秘龍拳/少林門』(76年)を撮ったもののいずれもお蔵入りの憂き目に遭い、失意のなか両親の住むオーストラリアへ渡っていましたが、後にマネージャーとなるウィリー・チェン(陳自強)から連絡を受け、ブルース・リー(李小龍)の主演作を撮ったベテラン監督ロー・ウェイ(羅維)のプロダクション専属となり、芸名を替え台湾で『レッド・ドラゴン ~新・怒りの鉄拳~』(76年)に主演しキャリアの再スタートを開始していました。

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このようにブルース・リーの急死のショックからようやく回復の兆しを見せ、まさに群雄割拠状態の台湾映画界にサモ・ハン(洪金寶)は足を踏み入れたのです。(つづく)

参照:「キネ旬ムック 香港アクション風雲録」(浦川とめ編著)第一部突撃インタビュー「ラウ・カーリョン(劉家良)」

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