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害ではない、老いた人々

老害、なんて言葉を聞くと、ああ日本はもうそういう国なのか。
と少々寂しく、どうしようもない虚しさを感じてしまいます。
みながみな、そうではない。わかっていても、独り歩きしていく言葉。
とげとげのウニのように、尖った切っ先だけがごろごろ転がっていくような気持ちです。
本当は、小さな子供を土間から突き落とすような老婆もいれば、夕暮れ時に一人で何してるの?、ちょっとこっちおいで話聞いてあげるから、と言ってくれる人もいたはずなのに。
今私達の周りにあるもののほとんどは、今や老いた人々が私達と同じ若い頃に作り上げてきたもののはずなのに。
うまく言葉にできませんね。
You Tubeで先日、「六十代からの団地暮らし」「八十歳のお一人様生活」といった動画を目にしました。他に、昔ながらの簡単にいえばおばあちゃんの知恵袋だったり、掃除方法であったり。
物語の中には、小洒落たミセスや気風の良い江戸っ子じいちゃんが出てくるのに。
バブルが弾け、人々が自由に生きることを選びだしてから、大家族や親子二代での生活なんて言葉はどんどん消えていきました。
残っていても、それは珍しいとされてテレビで放映までされる始末。
核家族が増え、お年寄りの話を聞くことがなくなった私達の今の生活は、どんどん「老い」とは分断されていくかのようです。
必ず来るもので、本当は目の前にあるのに、まるで目を背けるように。
私自身、六十半ばの実母がいるにも関わらず、母に聞けないこと、聞きたくないことをネットのお婆ちゃんに学んだりしています。
みんなきっと同じようなものなのではないかな、と最近、偏った考えかもしれませんが感じています。
聞ける相手がいない。老人と話す機会がない。話したくない。
けれど聞きたい。
そんな感情が、今の人にはあるのではないでしょうか。
先人に学びたいという欲求が私にはあります。
今七十、八十を迎えている人達はかつてどんな景色を見ていたのか。
今のように「ありのままでいい」なんて考え方が主流ではなかった時代、根性、努力、そして忍耐といった、今では敬遠どころか嫌悪すらされてしまうようなものを背負ってきた、背負わされてきた先人たちは、どんな心持ちで、どうやって、それらを切り抜けてきたのか。
そんなことを、老いた人々に私は聞きたいです。
今の貴方のままでいいんだよ、という言葉を最近良く聞きます。
けれどその度にもやもやした気持ちになるのです。
本当に今のままでいいのか?
そうではなくなりたいから、そんな文字をわざわざ目にして頭に入れているのではないのか。その方が楽だから。
だけど結局のところ、上に上り詰めるのは積み重ねてきた人間か、もしくはその積み重ねた年月を超える努力を成し遂げた人だと思うのです。
後者になりたくとも、自信がなかったり、結果がでなかった時の恐怖で「今のまま」を選んでしまう。
それは私も含めてです。(足掻いているつもりでも、ただ同じ場所で地団駄を踏み続けているように思えます)
そういったものと戦う方法というか、学ぶべき部分が、先人の中にある気がします。
堅実に仕事をしてお金を稼ぎ、家族を養うことを求められていた時代の人間が、なぜ、漫画家や小説家になることを選んだのか。
音楽を選んだ人も、逆に、夢を持ちながら堅実に、確実に今の日本を造りあげる礎となった「普通」と呼ばれた引退した企業戦士たちの中にも。
葛藤やプレッシャー、「鬱」なんて言葉がなかった頃のストレス病をいかにして乗り越えたのか。
……うーん、やっぱりうまく書けませんでしたね。
ただの戯言です。
さてまた原稿書いて、You Tube見て、話せないけれど尊敬すべき老いた人の話を聞いてきます。
それでは。

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