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父が笑った日

私の一番古い記憶は酔っぱらった父とこちらに向かって投げられる酒瓶、泣きながら私を抱きしめる母親である。

真冬の誕生日にベランダへ出されたこともある。
カーテンの隙間から見える自分の夕食が眩しかった。

父の機嫌はいつ変わるか分からず、旅行に連れて行ってくれる時もあれば(父親の行きたいところだが)作った食事を頭からかけられる事もあった。
学業は父にとって「くだらないこと」であり、大学から帰るとくだらないことで一家団欒に参加しないことを毎日詰められた。
一家団欒は机の下で家族と話題を探り合い、父の機嫌を取る時間だった。間違えれば食器が飛んでくる。

父親は私にとって脅威だった。
家庭はモラハラと暴力で支配された場所だった。
いつか復讐してやると憎み続けていた。


上京して5年ほど経った時、家族が東京へ来ることになった。
上京ぶりの再会である。

ちょうどファミリーセールに行った後だったので妹達に財布をプレゼントした。
妹達だけだと父の機嫌を損ねそうなので、自分用に買った財布を「コレも買ってきたんやけど…」と渡した。

「俺はついでか」「趣味が悪い」
何を言われるか分からず心拍数の上昇を感じた。


するとどうか。
父は笑ったのだ。
ニコニコしながら早速財布を使い始めた。

私は理解できなかった。
目の前で財布を捨てられるところまで想定していたのに、その予想は全く外れたのだ。
父が笑っている。
父が喜んでいる。

その後、何事もなく父の機嫌が良いまま解散となった。


帰宅後、私は泣いた。
今まで憎み続けてきたのはなんだったのか。
復讐を誓った相手が突然いなくなってしまったのだ。
すでに私の人生とアイデンティティは「恨み」になっていたのに、それが突然奪われてしまったのだ。
私の負のアイデンティティと怒りだけがそこに残された。

一方で、私は嬉しかった。
あの父が笑ってくれたのだ。
コレがずっと欲しかった。
しかし私の人生は奪われた。
敵役を失った主人公はこんな気持ちだろうか。

行き先を失った怒りは宙を浮いてすべて自分に返ってきてしまった。
あらゆるトラウマの責任が自分へのしかかってきた。

父が根本から変わったのかは分からない。
だが父が笑った日、私のアイデンティティは失われてしまった。


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