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だから君はここにいるのか(舞台編)(50分2人)


缶の階公演・Recycle缶の階公演 上演台本
@ウイングフィールド[2014/12/15-12/16]
@船場サザンシアター[2014/12/13・14・27]@パシフィックシアター

作/久野那美

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*********************

登場人物 
ヒーローに見えない男(ヒーロー
缶コーヒーを持つ男(缶コーヒー




劇場。公演準備中の舞台。
調光卓や脚立、照明用のシートなどが雑然と置かれている。

男がひとりだけ舞台の上にいて、(缶コーヒーを持つ男。今はまだ持っていない。)照明機材を吊りこんだり、調光卓を操作して点灯チェックをしたり、コードや平台を運び込んだり、黙々と作業している。劇場内に、彼以外は誰もいない。やがて携帯電話が鳴る。

缶コーヒー (電話に出る)はい。あ。お疲れ様で、す。
え、あと一時間くらい?……はい…了解です。
えっと、種類とか…はあ。適当に?
わかりました。はーい。どうもー。

缶コーヒーを持つ男、電話をポケットにしまう。
上着を着て明かりを消し、劇場のドアから出て行く。

誰もいない(はずの)劇場。
スピーカーから雨の音。いつの間にか、舞台の上に薄く明かりが射している。別の男が舞台の上に現れる。(ヒーローに見えない男)

ヒーロー 真っ暗で何も見えないと思っていたけれど、
記憶の中のその光景にはうっすらと白い灯りが差している。
雲の切れ間から、月の光が落ちてくる。

誰かの声が聞こえた。
誰もそれにこたえなかった。
答えなくても、声が聞こえた。

誰かの話すことばを、別の誰かが聞いていた。
言葉は光らないから、何も見えなかった。
だけど聞こえた。

闇の中に埋もれてしまいそうになると、声が聞こえた。
誰かが話し続けていれば、闇は動いていた。

話すのなら、今ここにないもののことを話したかった。
今ここにないものの話ばかりしようと思った。

ヒーロー  おーい。
耳を澄ましてみる。が、誰も何もこたえない。
誰もどこにもいない。

ヒーロー  おーーーーーーい。

落雷。 と同時に真っ暗になる。

しばらく。
天井に吊られた照明機材に灯がともり、舞台の上だけが急に明るくなる。
さっきの緊張感はどこにもなく、雑然とした舞台の上に、男が一人。
ヒーローに見えない男が座り込んで、舞台上の調光卓をいじっている。
(彼が電源スイッチを入れたので接続されていた照明が点いたのだ。)

ヒーロー (明るくなったことに一瞬驚くが…。)…書き直すってどうなんだよ。
書いたのに削除するってどうなんだよ。実は登場しなくてもよかった登場人物ってなんなんだよ?登場しないほうがよかった登場人物って、なんなんだよ?(ぶつぶつ言っている)

ヒーロー「上演されなかった劇の登場人物は、霊になって劇場に漂う」って
ほんとなんだろうか?それは、上演されるまで成仏しないってことなんだろうか。

さっき出て行ったはずの缶コーヒーを持つ男が缶コーヒーをたくさん抱えて客席の通路にいる。ヒーローに見えない男を見て呆然としている。
実はもっと前に戻ってきていて、さっきのセリフを聞いていたのだ。
客席は暗いのでヒーローに見えない男はまだそれに気づかない。

缶コーヒー(思わず口をついて出てくる)「話すことはいくらでもあった。話すために話し続けた。
いるかもしれない誰かをいるかもしれないと思うために。いるかもしれない自分をいるかもしれないと思うために。」

ヒーローに見えない男、驚いて缶コーヒーを持つ男を見る。
しばらく、じっと見ている。缶コーヒーを持つ男は決まりが悪くて固まったまま動けずにいる…

ヒーロー 「 …あったらいいのにと思うものをあったのかもしれないと思うために
(おそるおそる、セリフを返してみる)」

二人 「満月だったんですね。今夜。だからこんなに明るいんですね・・・・・」

缶コーヒー なんで知ってるんです?
ヒーロー なんでって、俺の…。いや、君は…なんで?
缶コーヒー なんでって…自分の…台詞だったから。

缶コーヒーを持つ男、抱えていた缶を置いて舞台の上にあがる。

ヒーロー え…、
缶コーヒー (ヒーローに見えない男に近づいて話しかける)…これじゃ、意味分かんないですよね。
ヒーロー …
缶コーヒー 誰になんのために云ってるんだか。そもそもお前誰なんだって話ですよね。
ヒーロー
缶コーヒー いろいろね、想像はしますけど。
ヒーロー
缶コーヒー 僕の台詞です。(得意げに)
ヒーロー 僕の台詞?(詰問する)
缶コーヒー いや、(たじろぐ)台詞…だったんです。

ヒーロー あの…。それは、どういう…(詰め寄る)
缶コーヒー …ていうか、あなたは?ここでなにを?
ヒーロー …たしかに。これだけじゃなにもわからない。
缶コーヒー その台詞、僕が言うはずだったんです。僕の役がなくならなかったら。
ヒーロー なくなったの?君も?
缶コーヒー 君も?
ヒーロー(頷く)(頷く)
缶コーヒー えっと。それは…でも、あの台詞は…あれ?…正確に覚えてましたよね。
ヒーロー 覚えてたわけじゃない。覚えらんないよ。あんな、長い…
缶コーヒー 長くないっすよ。全然。
ヒーロー そう?
缶コーヒー 正確でした。一字、一句。(得意げに)
ヒーロー そう?
缶コーヒー あの…。話が見えないです
ヒーロー 見えないね。たしかに、これだけじゃね。
缶コーヒー どこの俳優さんですか?
ヒーロー 俺は俳優さんじゃない。
缶コーヒー いや、だってあなたの台詞って…
ヒーロー あれ、君の台詞なんでしょ?
缶コーヒー 僕の…というか…僕のだった…というか。えっと…あれ?…あなた、
ヒーロー 君は俳優なの?
缶コーヒー …………はい。

ヒーロー ……つまり。
缶コーヒー
ヒーロー 君か。
缶コーヒー あの。
ヒーロー あれは、君の、台詞。
缶コーヒー はい。
ヒーロー 削除された、劇の、台詞。
缶コーヒー はい。
ヒーロー つまり、俺の、台詞。
缶コーヒー えーと、それは…?

缶コーヒーを持つ男、混乱している。
ヒーローに見えない男、納得している。

缶コーヒー !「空っぽの舞台には誰かいる」って聞いたことがある。
「上演されなかった劇の登場人物が霊になって劇場を漂う」って聞いたことがある……けど…その…つまり…そういうあれですか?
ヒーロー 霊…。
缶コーヒー …あれ都市伝説じゃなかったんだ…
ヒーロー やっぱりそうなんだ…。霊…ね。(ひとりで納得している)
缶コーヒー 登場人物の?
二人 霊…

缶コーヒーを持つ男は、思わぬ事態に興奮している。
ヒーローに見えない男は納得している。

缶コーヒー いや、でも…。上演されなかった以前に、完成もされてない台本なのに…
ヒーロー そうなんだ…
缶コーヒー で、ええっと…霊が、そこで、何を?
ヒーロー …何…を?
缶コーヒー いつからいるんですか?
ヒーロー いつから?
缶コーヒー 何してるんですか?
ヒーロー …何?
缶コーヒー いつまでいるんですか?
ヒーロー …いつ…
缶コーヒー 今までどこにいたんですか?
ヒーロー …
缶コーヒー 舞台の上には魔物が住んでいるとかいうあのひととは、また違うんですか?
ヒーロー そんな、いちどにいろいろ聞かれてもさあ、
缶コーヒー いや、聞くでしょ。
ヒーロー 聞かれることに何もこたえられないってすごい不安なんだよ。
缶コーヒー こたえられないんですか?
ヒーロー なんでこたえられると思うの?
缶コーヒー だって、あなたのことだから。
ヒーロー ひとのことなんて、どうでもいいじゃないか。
缶コーヒー  よくないですよ。僕の役だったんです。僕の役に…なるはずだったんです。
ヒーロー
缶コーヒー 主役だって。聞いてたんです。なのに、
ヒーロー …
缶コーヒー 台詞も、登場するシーンも、全部削除して書き直されて。
ヒーロー …
缶コーヒー 完成した台本には、ひとことも台詞がなかったんです。
ヒーロー …
缶コーヒー 役自体がなくなったんですよ!!!
ヒーロー …
缶コーヒー どこの誰なんだかもよくわからないうちにですよ。
ヒーロー  …
缶コーヒー で、つまり、あなたが、あの…ってことでしょ。

ヒーロー それはつまり、君があの…ってことだよね。
俳優も決まってたのに、俺、削除されたんだ…。
缶コーヒー あの…
ヒーロー どうして…。
缶コーヒー (困っている)
ヒーロー 何か知ってる?
缶コーヒー 何って?
ヒーロー 何って、何もかもだよ。俺の知らないこと全部。
俺の言うはずだった台詞はどうなった?
俺のするはずだった行動は?
俺の会うはずだったひとは?
俺の観るはずだったものは?

缶コーヒーを持つ男、しばらく考えている。が。

缶コーヒー うーん……答えてあげたいんですけど…、それは…、無理ですね。
ヒーロー ??
缶コーヒー あの劇は別に、「あなたが登場しない」劇じゃないっていうか。
ヒーロー ?!
缶コーヒー いや、登場しないんですよ、もちろん。
ヒーロー ?
缶コーヒー でも、あなたが登場しない世界って、あなたが登場しようがない世界なわけだから…
つまり、あなたが言うはずだった台詞とか、あなたが会うはずだったひととか、あなたが見るはずだったものとか、そういうのは、ない…っていうか…。 どうなったとかじゃなくて、ただ、普通に、ない…、ていうか。
ヒーロー じゃ、俺はどうすればいいんだ。
缶コーヒー どうもこうも。
ヒーロー
缶コーヒー それが、あなたがいない、ってことなんじゃないですかね。

ヒーローに見えない男、とても落胆している。

缶コーヒー 落ち込まないでください。
ヒーロー 落ち込んでるわけじゃない。前例がない状況で孤独に悩んでる。
缶コーヒー 誰の人生だって前例はないですよ。
ヒーロー …だって、最初は、俺、劇の中にいたんだよ。
缶コーヒー 知ってますよ。でも、今はいないんです。
ヒーロー 君はそれでいいのか?
缶コーヒー 良いも悪いも、いないものはどうしようもないじゃないですか。
ヒーロー 俺がいれば、きっと、もっと…
缶コーヒー 自分の台詞がない劇の中で何するんです?
ヒーロー …アドリブで対応する…とか。
缶コーヒー アドリブっていうのは俳優がすることであって、登場人物がすることじゃありません。
ヒーロー …考えたことある?自分が登場するはずだった世界から自分だけが削除されて、
そのまま何事もなかったかのように時間が流れて行く…。
缶コーヒー 考えたことはないですけど、でも…自分がいなくなった後の世界って、
そういうもんじゃないですか?
ヒーロー …
缶コーヒー この流れですごい言いにくいんですけど。
ヒーロー 何?
缶コーヒー そこ…。
ヒーロー ここ?
缶コーヒー あけてもらえませんか?
ヒーロー .....
缶コーヒー もうすぐトラックがきます。舞台のセットを運び込むんです。
いろいろあってちょっと遅れてますけど。あなたがずっとそこにいると、劇が上演できません。劇を劇にするには、いろいろと準備がいるんです。
ヒーロー そうか。ここに…。俺のいない世界を作るんだ…。
缶コーヒー そんな言い方しなくても。
ヒーロー 俺にとってはこの劇は何よりもそういう劇なんだよ。
缶コーヒー あの。
ヒーロー 何?
缶コーヒー 僕が言うのもどうかと思いますけど、でも、僕が言わないと誰も言うひとが
いないと思うので言いますけど。
ヒーロー ?
缶コーヒー あなたが登場しないまま、この劇が上演されることはもはや避けられないわけですから、
ここはもう、この劇のことは忘れて、あなたは新しくあなたの道を進んでいかれてはどうでしょうか。
ヒーロー 新しい道?どんな?
缶コーヒー たとえば、このまま…その、なんというか、演劇の精、みたいなものになってみるとか。
ヒーロー 演劇の精っていうのは、なってみようと思ったらなれるもんなの?
台本になくても?
缶コーヒー もう登場人物じゃないんですから、台本のことは考えなくていいと思います。
ヒーロー 登場人物だった頃は、台本のことなんか考えなかったよ。
登場人物は台本のことなんか考えないんだよ。誰が演じるとか、どこで上演されるとか、
台本に何て書いてあるとか、そもそもそれが劇なのかどうかさえ考えたことはない。
缶コーヒー …それはそうでしょうね。
ヒーロー でも、それも登場する世界があったればこそ、だ。
缶コーヒー …
ヒーロー 登場するところがなくなった今、俺は考えるよ。
自分の住んでるはずだった世界はどんな劇の中の世界だったんだろう?
その劇はどこでどんな風に上演されるはずだったんだろう?
自分の役は誰がどんな風に演じるはずだったんだろう?
缶コーヒー
ヒーロー 考えたこともないくらいあたり前のものって、今はもうないって言われたとき
から何よりもあたりまえじゃないものになるんだよ。そんなにもあたりまえじゃないもののことを考えないわけにはいかないんだよ。
缶コーヒー …そういうものですか。
ヒーロー 俺はね。
缶コーヒー なんかすいません。
ヒーロー いいよ。こういうことって、立場が違うとわからないもんだと思うよ。それに。
缶コーヒー ?
ヒーロー 俺、精じゃなくて霊なんじゃなかった?
缶コーヒー 霊と精って違うんですかね?
ヒーロー なんとなく、精のほうが、役に立ちそうな感じがするけど。
缶コーヒー そうかもしれません。選べるなら精のほうが。
ヒーロー 選べるの?
缶コーヒー さあ…でも、精、がまずいんなら、精みたいなもの…てことで…。
ヒーロー で、その、精、みたいなもの?になったら…何か変わる?
缶コーヒー とりあえず、自分の存在を肯定的に説明できるんじゃないかと。
ヒーロー 「登場人物じゃないです」
缶コーヒー「精です」
ヒーロー ……誰に説明するの?
缶コーヒー ここにいたら、また誰かに会うかもしれないじゃないですか。
僕はいいですよ。ある意味当事者ですから。あなたの事情も、納得できなくても理解は
できます。でも、このままじゃ、あなた、僕以外のほとんどのひとと無関係なわけで。
誰かに会ったとき、自分のことを、なんて説明するんです?
ヒーロー  …
缶コーヒー  登場人物ってだけでも胡散臭いのに、登場人物、でさえ、ないなんて。
複雑すぎてなにがなんだかわからないじゃないですか。そんなわけのわからないことをいきなり言われて信用できますか?
ヒーロー …でもさ、霊とか精とかって信じるかな。そっちのほうがわけわからなくないか?
缶コーヒー そんなことないです。
あなたがここにいるのは、流れからいくとそういうことだとしか考えられない。
僕はそう思いました。
ヒーロー …そうかな。
缶コーヒー ほら信じた。
ヒーロー …。
缶コーヒー 話し方次第でしょう。
ヒーロー さすが俳優って、言葉に説得力あるよね。
缶コーヒー …別に俳優だからじゃないと思いますけど。
ヒーロー そう?
缶コーヒー それに、特に説得力があるとも思いませんし。
ヒーロー そうかな?
缶コーヒー あなたが説得されすぎるんです。
ヒーロー …………
缶コーヒー あ…
ヒーロー どんな役だったの?俺?
缶コーヒー えっ僕も詳しいことは…
ヒーロー 詳しくなくていいよ。知ってることだけでいいよ。
缶コーヒー むしろ、僕が知りたいです。あなたがどんな登場人物だったのか。
ヒーロー  …
缶コーヒー 僕がやるはずだった役は、どんな役だったのか。
ヒーロー 俺にわかることなら話すよ。見てわかることならどこでも見てよ。
缶コーヒー ありがとうございます。でも、見てますけど特に…
ヒーロー だから教えてよ。
缶コーヒー …
ヒーロー ここは劇場で。これから劇が上演されて。俺は劇の登場人物で。
でもその劇には登場できない…ってそりゃ、わからないよ。俺だってわからない。じゃあ、なんで俺は今ここにいるんだよ?霊とか精でもいいよ。でも、そういうことになったのはいったいどういうわけなんだよ?
誰かに説明する以前に、自分で納得したいじゃない。何がどうなってこうなったのかがわかれば、その先にこれからのことも見えてくるような気がするじゃないか。
缶コーヒー …なるほど。わかりました。
ヒーロー どんな役だった?俺…
缶コーヒー  …(躊躇している)
ヒーロー 知ってることだけでいいよ。些細なことでもいいから…

缶コーヒー(できるだけさりげなく言い逃げようとする)……ヒーローの役でした。
ヒーロー …何の役?
缶コーヒー ヒーロー(目を合わせずに)
ヒーロー ヒーロー?ってあの?
缶コーヒー あの。(と言ってはみたものの…)どの? 知らないんですか?ああ。そうか。
ヒーロー …どんな?
缶コーヒー …さあ。
ヒーロー なんのための?
缶コーヒー …さあ。
ヒーロー 誰のための?
缶コーヒー 詳しいことは…素性がわかるようなことはほとんどなにも書かれてなかったんです。
ヒーロー …嘘つけ。じゃあ、なんでヒーローだってわかるんだよ。
缶コーヒー 台本を読んだからです。
ヒーロー 完成してないんだろ?読んでも何もわからないだろ?
缶コーヒー そうですけど、劇の台本には、本編の前に「登場人物」の一覧があるんです。
ヒーロー …
缶コーヒー それから、登場人物が何かしたり話したりするときには、必ずその言葉や行動の上に
それがどの登場人物のものなのかがわかるように示されます。
ヒーロー ふうん。
缶コーヒー 書いてあったんですよ。
ヒーロー ヒーローって?
缶コーヒー ヒーローって。
ヒーロー それだけ?
缶コーヒー 劇では、台本に書いてあれば、そういうことになるんです。
ヒーロー 素晴らしい。
缶コーヒー そういうことになるだけですよ。無理がなくなるわけじゃないですよ。
ヒーロー つまり無理があったと。俺の場合。
缶コーヒー 無理っていうか、だって、ヒーローですよ。
そりゃ、登場人物、ヒーローって書かれたら登場しますよ。でも、舞台で変身とかって無理あるに決まってるじゃないですか。演劇は特撮できないんですよ。
ヒーロー 変身しなければいいじゃないか。
缶コーヒー しないんですか?変身。最後まで?一度も?
ヒーロー このままじゃヒーローに見えない?
缶コーヒー …見えませんね。
ヒーロー  それは…先入観だ。
缶コーヒー ヒーローをヒーローに見せるのはだいたい先入観です。
ヒーロー  …そんなことは…
缶コーヒー 問答無用で「ヒーロー」というからには誰が見てもわかるヒーローらしさが
いると思うんです。
ヒーロー だから変身するの?
缶コーヒー わかりやすいじゃないですか。
ヒーロー でも、「ヒーロー」って書いてあるんだろ?俺がなにか言うたびに。
ならそれでいいじゃないか。わかりやすい。
缶コーヒー 台本には書いてあります。でも、俳優は台本読みますけど、
登場人物は台本読まないじゃないですか。…読まないですよね?
ヒーロー 読まない。見たこともない。
缶コーヒー ね。
ヒーロー あれ?ちょっと待って。じゃあさ、俺がヒーローだってことは、誰が知ってるわけ?
缶コーヒー だから、さっきも云いましたけど、登場人物の皆さんにはわからないんです。
あなただって知らなかったでしょ?もちろん、観客も誰も知りません。
ヒーロー じゃあ、「登場人物の名前」は、誰のために書いてあるわけ?
缶コーヒー …俳優ですかね?
ヒーロー じゃあ…俺がヒーローだってことを知ってるのは…
缶コーヒー 俳優だけでしょうね。
ヒーロー (混乱している)
缶コーヒー なにか?
ヒーロー 劇の中のことを、どうして劇の中にいる俺達が知らなくて、
劇の外にいる君たちが知ってるわけ?なんのために?
缶コーヒー 劇ってそういうものなんですよ。
ヒーロー どうして?
缶コーヒー そんなのひとことでは説明できません。
劇の中にいるとわからないけど、劇の外にいれば簡単にわかることって、けっこういろいろあるんです。
ヒーロー ?いろいろって何?
缶コーヒー …いろいろ……うーんと、ん、…タイトルとか。
ヒーロー タイトル?
缶コーヒー えっと、劇のタイトル…というのは、つまり、あなたが登場するはずだった、
世界の名前です。
ヒーロー せかいのなまええ?
缶コーヒー あなたは登場人物だったから考えたこともないと思いますけど、
あなたが登場する…はずだった、世界には、名前がついてるんです。
ヒーロー  …なんのために??
缶コーヒー  …呼ぶためです。名前って大事ですよ。
名前をつけることで、初めて、他のものと区別されて、独立した存在として、認められるんです。
ヒーロー それはわかるけど…でも… 思いつかないだろ世界に名前をつけるなんて。
缶コーヒー タイトルは大切です。観客がいちばん最初に劇に出会うのは劇のタイトルなんですから。
ヒーロー 世界の名前にどんなタイトルがふさわしいかってどうやって決めるの?
缶コーヒー そこが作者の腕の見せ所です。
劇の内容を的確に表す、わかりやすくて覚えやすいことばを劇のタイトルに選ぶんです。
ヒーロー  世界を的確に表す、わかりやすくて覚えやすい言葉…ね…。
なんかぴんとこないんだよね。というか抵抗がある。それは、俺が劇をつくったことがないからかな。そして、最初は登場人物だったから?…ん?ちょっと待って。
缶コーヒー なんですか?
ヒーロー あれ?他のと区別するため…に名前をつける?世界の名前?タイトル?…
てことは、世界がほかにもあるってこと?えー?!それは変だろう。
缶コーヒー ほら。それが登場人物的発想なんです。
ヒーロー  ???
缶コーヒー 世界はひとつしかないと思ってる。
ヒーロー 世界は、ひとつだろう。
缶コーヒー それは、あなたが登場人物だから。
ヒーロー  ?
缶コーヒー 劇を見てるひとにはひとつ
じゃない。
かけがえのないたったひとつの世界が、劇の数だけあるんです。劇の数だけ、主人公がいるんですよ。
ヒーロー  ……
缶コーヒー  タイトルも登場人物の名前も、劇を見ているひとのために必要なんです。
登場人物のみなさんには関係ないんです。(ふと天井を見てあわてる)

缶コーヒーを持つ男、吊り忘れていた灯体を吊るために脚立に上る。
ヒーローに見えない男は考え込んでいる

缶コーヒー だけど、こうなってみれば、むしろ、「ヒーロー」でよかったのかもしれませんよ。
ヒーロー え?
缶コーヒー 知りたいんでしょ?
ヒーロー …。
缶コーヒー どんな登場人物だったのか。
ヒーロー  …
缶コーヒー 僕が知りたいと思ったように。
ヒーロー …
缶コーヒー 観客が、どんな登場人物が何をどんなふうにするのかを知りたくて劇を見るように。
ヒーロー
缶コーヒー 「田中弘」とかって役名だったら手掛りなさすぎて手の施しようがなかったですよ。
ヒーロー ……どんな田中弘なんだっ!?なんの田中弘なんだっ?!誰のための田中弘なんだ?!
って悩むこともなかったと思うけど。
缶コーヒー  …

缶コーヒーを持つ男、黙々と作業を続けてる。

ヒーロー (しかし諦めない)で、どんなヒーローだったの?俺。
缶コーヒー (呆れて)だから、そういうことがわかるほどあなたの台詞は書かれてなかったんです。
ヒーロー  …。
缶コーヒー いろいろ想像はしました。
この台詞はどんな場面で、誰に何を伝えるための台詞なんだろう?ここからどんな風になって、どんな風に誰と闘って…
ヒーロー 俺、闘うの?
缶コーヒー 闘うでしょう。ヒーローですよ。
ヒーロー うん。でも闘わない…気がする。なんか、抵抗がある。
缶コーヒー そうなんですか?
ヒーロー …うん。
缶コーヒー 闘えないんですか?
ヒーロー いや、闘えるんだと思うよ。闘わないんだから。
缶コーヒー そんなヒーローがいますか?
ヒーロー だって…。闘ってる場面があった?
缶コーヒー …ないですけど。
ヒーロー ほら。
缶コーヒー それは、書かれてあった部分にないだけで、きっと……。
うーん。いや、でも、本人が言ってるんだからそうなんですかね。聞いてみないとわからないことってありますからね。
ヒーロー 聞いて聞いて。本人だから。
缶コーヒー 誰を救うはずだったんですか?
ヒーロー え?…救うの?
缶コーヒー 救うでしょう。ヒーローですよ。
ヒーロー いや…それは…うーん。わからないけどでもそれには抵抗がない。…から、救うのかな。
誰を?
缶コーヒー 「たったひとりでもいい。そのひとりは誰でもいい。
彼が救わなければ誰にも救われることのなかった誰かを救えるとしたら、それは立派なヒーローの仕事だ。」(派手なアクションで見得を切る)
ヒーロー …?
缶コーヒー って台詞がありましたよね。
ヒーロー 俺の台詞?
缶コーヒー そうです。
ヒーロー あれ…自分のことだったのか。誰に説明してたんだろ。
缶コーヒー 誰にともなく。つまり、みんなに。
ヒーロー ん??
缶コーヒー どこまで把握してるんですか?自分の劇のこと。
ヒーロー 自分の言うはずだった台詞は知ってると思う。
缶コーヒー 他の登場人物のことは?
ヒーロー うーん。
缶コーヒー 自分が言われた台詞も?
ヒーロー いや、それは…、結局云われなかったわけだし。
缶コーヒー そうか。
ヒーロー 完成してないってことは、上演されてないわけだから、その劇の中では実は何も起こっ
てないわけで、誰かに何か言われたとか、誰かに会ったとか、なにもかも未経験なんだよ。
缶コーヒー なるほど。
ヒーロー どういう意味だろ?
缶コーヒー 何がですか?
缶コーヒー 「たったひとりでもいい。そのひとりは誰でもいい。
彼が救わなければ誰にも救われることのなかった誰かを救えるとしたら、それは立派なヒーローの仕事だ。」(自分自身に言い聞かせるように)
缶コーヒー …そういうふうに言うんだ…
ヒーロー 何?
缶コーヒー や…、そのまんまの意味じゃないですか?
ヒーロー 俺、たったひとりの誰かを救うはずだったの?
缶コーヒー
ヒーロー たったひとりしか救わなかったの?

缶コーヒー …ヒーローの役って聞いた時、僕、ちょっとわくわくしました。
ヒーロー そうなの?いや、そうだよな。
缶コーヒー ヒーローって、説明もなく最初からヒーローって言われたらたしかにちょっと
引きますけど、引きましたけど、でも、やっぱり、なんか、ちょっとかっこいいなーと思って。
ヒーロー それはそうだろ。ヒーローなんだから。
缶コーヒー 「みんな誰かのヒーローだ!」とかいうのって、嫌なんですよね。
ヒーロー そう?なかなかうまいこというなって思うけど。
缶コーヒー 思いません。
ヒーロー そう…。
缶コーヒー …ヒーローは特別だからヒーローなんです。
ヒーロー …気持わかるけど、大勢いたほうが、大勢救われない?
缶コーヒー (いいえ。)
ヒーロー いや…だって…じゃあ…ヒーローって一人だけ?で、そのひとりが俺?
俺ひとりにできることって小さいよ。
缶コーヒー 小さくしないでください。
ヒーロー わざわざ小さくはしないけど、でも自ずと限界が…。たったひとりでもってさっき…
缶コーヒー ひとりでも救えるならヒーローですよ。僕もそう思いますよ。
ヒーロー それは…
缶コーヒー ヒーローは、特別だからヒーローなんです。
ヒーロー …はい。
缶コーヒー 特別じゃないヒーローなんて、ヒーローじゃありません。
ヒーロー それは言いすぎなんじゃ…
缶コーヒー いいえ。ここ、大切です。
ヒーロー …はい。

ヒーロー …飲んだら?(置かれたままの缶コーヒーに目を遣って)
缶コーヒー え?
ヒーロー あれだけしゃべったら喉乾くでしょ。
缶コーヒー いや。僕は特に…。
ヒーロー さすが俳優。
缶コーヒー 別に、俳優だからじゃないと思いますよ。
ヒーロー そう?
缶コーヒー のど渇いてるのはお互い様じゃないですか?よかったら、どうぞ。

缶コーヒーを持つ男、缶コーヒーを取りに行く。二本手に取り、ヒーローに見えない男に一本差し出す。

ヒーロー (差し出された缶をじっと見ている)
缶コーヒー 何か?
ヒーロー コーヒーは漢字で書けるのに、ヒーローって書けないよね。
缶コーヒー ???
ヒーロー 書けそうなんだけど、書けないよね。
缶コーヒー  …

ヒーローに見えない男はコーヒーを受け取らない。
仕方がないので、缶コーヒーを持つ男はずっと両手に一本ずつ持っている。
だから飲めない。

ヒーロー ねえ。俺が登場しないのは、どんな劇?(まだ訊く)
缶コーヒー どんなって…えっと、
ヒーロー 削除されたのは俺だけ?
缶コーヒー まあ。
ヒーロー じゃ、他のみなさんはそのままその劇に?
缶コーヒー はい。
ヒーロー ふうん。
缶コーヒー タイトルもそのままで。
ヒーロー 世界の名前ね。
缶コーヒー
ヒーロー で、どんな話?
缶コーヒー 小さな劇場の話です。 週末に子供向けのヒーローショーをやってる…。
ヒーロー ヒーローショー!!
缶コーヒー あ。でも、ヒーローショーのシーンは劇の中にはありません。
ヒーロー そうか。俺はそこに出るはずだったのか。
ヒーローショーのシーンがなくなったから削除されたのか…。
缶コーヒー 違います。
ヒーロー  …。
缶コーヒー ここみたいなちゃんとした建物じゃなくて、
屋根と床に安っぽいパネルがはってある貧弱なプレハブ小屋なんですけど、その劇場のこだわりは、毎回違う劇を上演してできるだけたくさんのヒーローを登場させることと、劇が上演されている間、客席を完全に真っ暗にすることなんです。
ヒーロー 劇が上演されている間、真っ暗になるってこと?
缶コーヒー 舞台の上は明るいですよ。もちろん。暗くするのは客席だけです。
ヒーロー 客席?
缶コーヒー (客席を指さす)
ヒーロー (客席の方向を見ている)

缶コーヒーを持つ男、不審そうな顔をする、が…

缶コーヒー (あ!…)劇を…見たことがないんですね。
ヒーロー ない。

缶コーヒー 劇場には、舞台と、客席があります。
ヒーロー …
缶コーヒー この劇場でいうと、僕たちが今立ってるところが舞台です。
ヒーロー …
缶コーヒー ここから向こうが客席です。
ヒーロー …
缶コーヒー 開場されたら、観客はそこの扉からはいってきて、あっち側に座るんです。
ヒーロー (ここは迅速に突っ込む)登場人物は?
缶コーヒー 登場人物は客席には座りません。
舞台の上にいるか、舞台にいないときはどこか遠くにいます。
ヒーロー ふうん。

缶コーヒーを持つ男、にわかに声を張り上げて…

缶コーヒー「劇が上演されている間、客席の明りは消され、劇場のすべての灯は
登場人物の生きる世界だけを照らします。その場所をかけがえのない世界として生きる登場人物に敬意を表して。消えていた灯がもう一度灯ったとき、その世界はもうどこにもない。そこ以外のどこにもいないはずの登場⼈物も、そこにはもういない。そこでしか起こらなかったはずのできごとも、そこではもう起こらない。だからこそ、観客は、そのかけがえのない世界の成り行きを、息をのんで見守ります。」
ヒーロー …それも劇の台詞?
缶コーヒー はい。「だから、客席は、できるかぎり、真っ暗でなければならないんです。」
ヒーロー  ふうん。あれ?でも、さっき世界は劇の数だけあるんだって言わなかった?
缶コーヒー  よく覚えてますね。
ヒーロー 俺にとっては衝撃的な内容だったから。
缶コーヒー  そうでしょうね。
ヒーロー  どっちなんだ?
「かけがえのないひとつ」なのか「たくさんの中のひとつにすぎない」のか、
缶コーヒー どっちもです。
「もし、劇の中の世界が劇の外から見てもたったひとつのかけがえのない世界だったら、劇の中で起こらなかったことはどこの誰にも起こらないことになってしまう。それでは観客は安心して劇を楽しめません。そこで起こらなかったことは別のどこかで起こることかもしれない。誰かに起こったことは自分には起こらないことかもしれない。世界はこうだったかもしれないし、ああだったかもしれない、あるいはもっと別の何かかもしれない。」
ヒーロー  …
缶コーヒー 「灯が消えるのがその⼀度だけじゃないことを観客は知っています。
ヒーローに夢中になっている子供だって、劇が終われば劇場を出て行くし、また別の劇を見るために劇場へ来るんです。たったひとつの、かけがえのない世界が、劇の数だけあるのが、劇場なんです。」

ヒーロー …なるほど。
缶コーヒー さすが飲み込みが早いですね。
台本を読んだとき、僕は最初、意味がさっぱりわかりませんでした。
ヒーロー 意味のさっぱりわからない言葉をよく覚えられるね。
缶コーヒー 俳優なんで。
ヒーロー それにしてもさ…
缶コーヒー 僕の、台詞なんです。
ヒーロー え?
缶コーヒー 新しい台本では、僕の役はヒーローじゃなくてヒーローショーの監督なんです。

ヒーローに見えない男、あまりのショックに呆然としている。

缶コーヒー 俳優にとって、役は劇の数だけあるんです。
ヒーロー
缶コーヒー 今僕は、あなたの役を演じる俳優じゃありません。
ヒーロー
缶コーヒー あなたの目で見ていた世界を、今は別のひとの目で見ています。
ヒーロー
缶コーヒー ヒーローに比べたらぜんぜん…。無理矢理作ったような役なんですけどね。
…無理矢理作ったんでしょうね。
ヒーロー
缶コーヒー 黙っててすいません。
ヒーロー なんで…
缶コーヒー 言えなくて。
ヒーロー 言ってよ。
缶コーヒー 言えませんでした。

ヒーロー だから君はこの劇場にいるのか。
缶コーヒー あさってからの公演に出演するんです。今日は、ここでトラックが着くのを待ってます。
ヒーロー 要するに。削除されたのは俺だけってことか。

缶コーヒー それは…どうでしょう。
ヒーロー いいよ。
缶コーヒー いえ。そうじゃなくて。
ヒーロー 何?

缶コーヒーを持つ男、しばらく考え込んでいる。やがて。

缶コーヒー この劇には、俳優も観客も知らないけど登場人物は全員知っている人物が一人います。その人物は劇に登場しません。
ヒーロー ?
缶コーヒー この劇は、その人物に出会えなかったひとたちの物語なんです。
ヒーロー ?
缶コーヒー 劇の中に登場しない人物は台本にも上演パンフレットにも記録されませんから、
劇の外にいる僕たちには知る方法がありません。だけど、この物語は、その登場人物が劇に登場しないことで成り立っている。「誰もその姿を見ていない」ということの上に成り立っている。
ヒーロー それが、ヒーロー?
缶コーヒー 改訂されたほうの台本にはヒーローという登場人物はいません。
劇に登場しませんから、誰も彼をヒーローと呼ばない。闘わないし変身もしない。
ヒーロー それが…俺?
缶コーヒー わかりません。新しいほうの台本にはあなたの役は書かれていないし、
前の台本にあったあなたの台詞は削除されたり書き換えられたり別のひとの台詞になったりしています。新しい台本の中にあなたという登場人物は登場しないんです。
だけど…、あなたと話してると、なんていうか…
ヒーロー …なに?
缶コーヒー いえ。ん…
ヒーロー ヒーローに見えてくる?
缶コーヒー 見えませんね。
闘わない変身もしないそれどころか登場もしない。いたのかどうかもわからない。
そんなヒーローがいますか?
ヒーロー だからいないんだろ?
缶コーヒー そうです。いないんですよ!
ヒーロー …
缶コーヒー 俳優は、台詞のない、劇の中に登場しない人物を演じることができません。
ヒーロー …
缶コーヒー だから、僕はヒーローの役をはずされたんです。
ヒーロー …
缶コーヒー だけど…(何か考えこんでいる)

長い間

ヒーロー あの…さ。つまり、結局、どんな話に書き直されたの?
缶コーヒー 知りたいですか?
ヒーロー 知りたい。教えて。

缶コーヒー 事故が、起きたんです。大きな事故でした。
真っ暗な中、動くことも、声を出すこともできずに助けを待つひとたちがいました。
どこに誰がいるのかわからない。
物音もしない。何も見えない。
薄れていく意識の中で、声を聞きました。
たくさんの誰かが、たくさんの誰かの声を聞きました。
けれど、たくさんあった声は次第に途切れていき、最後にはひとつだけになりました。その声は途切れませんでした。他の声が聞こえなくなっても、荒唐無稽な物語を延々といつまでも語り続けました。
最後まで声を出すことのできるひとがひとりだけいたんでしょう。
それが誰なのか誰にも分らなかったし、誰に向かって話してるのかも、何のために話しているのかもわかりませんでした。

ヒーロー (思わず口をついて出てくる)「真っ暗で何も見えないと思っていたけれど、
記憶の中のその光景にはうっすらと白い灯りが差している。
雲の切れ間から、月の光が落ちてくる。
誰かの声が聞こえた。
誰もそれにこたえなかった。
答えなくても、声が聞こえた。
誰かの話すことばを、別の誰かが聞いていた。
誰かが話し続けていれば、闇は動いていた。 話すことはいくらでもあった。話すために話し続けた。いるかもしれない誰かをいるかもしれないと思うために。
いるかもしれない自分をいるかもしれないと思うために。あったらいいのにと思うものをあったのかもしれないと思うために」
缶コーヒー 長い時間のあと、彼らは救出されました。
救出されたのは、話をきいていたほうのひとたちです。話していた男は助かったひとたちの中にはいませんでした。救助を待つ人たちが命をつなぐために創りだした幻聴だという人もいました。そうかもしれません。でも、みんなが聞いていた話が一致していたんです。 満月の夜にふらりと現れたヒーローの話です。
ヒーロー「満月だったんですね。今夜。だからこんなに明るいんですね」。
缶コーヒー 彼が助けなければ誰も助けることのできなかった、どこかの誰かを助けた、
世界にたったひとりの、ヒーローの話です。

缶コーヒー その男が最期にいったいなんのためにそんな物語を語り続けたのか…
もし彼が、声を出すのをやめていたら、何も聞こえてこなかったら、あの闇の中でみんな意識を保ち続けることができただろうか。でも、そんなことが、彼にわかっただろうか?彼らには男の声が聞こえたけれど、男には誰の声も聞こえなかったんです。話してるのはその男だけだったんですから。
   

缶コーヒー あの台詞、新しいほうの台本では少しだけ変わっています。そして、ヒーローではなく
別の人の台詞になっています。
ヒーロー …
缶コーヒー 「彼が救わなければ誰にも救われることのなかった誰かを救えるとしたら、それは立派なヒーローの仕事だ」
ヒーロー「たったひとりでもいい。そのひとりは誰でもいい」
缶コーヒー 「もちろん、彼自身でも」

缶コーヒーを持つ男、調光卓をいじって、新しい灯りをつける。
舞台の上のヒーローに見えない男のいる位置に照明があたる。
舞台の上?いや、そこは夜の海。雨が激しく降っている。
ヒーローに見えない男は語り始める。
缶コーヒーを持つ男は暗闇の中からその光景を見ている。

ヒーロー 真っ暗で何も見えないと思っていたけれど、
記憶の中のその光景には、うっすらと白い灯りが射している。
雲の切れ間から、月の光が落ちてくる。
缶コーヒー こんな満月の夜でした。いいえ。ほんとうは月のない夜でした。
ヒーロー 誰かの声が聞こえた。誰もそれにこたえなかった。
缶コーヒー 誰かの話す言葉を、別の誰かが聞いていました。
ヒーロー 闇の中に埋もれてしまいそうになると、声が聞こえた。
誰かが話し続けていれば、闇は動いていた…
缶コーヒー 伝えたかったからというより、残したかったからというより、
ただ、話すことができるから話していたのだと思います。人間は、言葉を話すことができるからです。誰がいるのかわからなくても、いるのかどうかもわからなくても、人間は、言葉を話すことができるからです。 やがて、声はひとつふたつと消えていき、何も聞こえなくなりました。そんな中、誰かが静かに話し始めました。
二人 「満月だったんですね。今夜。だからこんなに明るいんですね」

ヒーロー 話すのなら、今ここにないもののことを話したかった。
今ここにないものの話ばかりしようと思った。
缶コーヒー 物語は、途切れることなく明け方まで続きました。
ですから、記憶の中のその光景には大きな月が出ています。
誰もが月を見ていました。
真っ暗な闇の中、大きな月を見ていました。
それは、満月の夜でした。
こんな、満月の夜でした。

缶コーヒーを持つ男は頭の上の月を見ている。
ヒーローに見えない男もそれを見ている。

ふたり、月を見ている。
その月はきっと大きくてきっと丸い。

ヒーローに見えない男、缶コーヒーを持つ男の持つ缶コーヒーを受け取って持つ。
缶コーヒーを持つ男は何も言わない。

ヒーローに見えない男、缶を手に持って月明かりにかざしてみる。
缶は鈍く光る…はずだ。そんなに大きな月の光はきっととても明るいからだ。
缶を上下に何度も振る。中の液体がちゃぷちゃぷと音を立てる。

落雷。

ヒーローに見えない男は缶を持って舞台を降りていく。
劇場の扉を開けて外へ出る。

しばらく。

劇場の扉の外でがやがやと人の声がする。声は近づいてくる。
缶コーヒーを持つ男、我にかえって扉のほうを見る。
劇場の明りがつく。扉が音をたてて開かれる。

今からここに、新しい劇の世界をつくるのだ。

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