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[note]非公式note夏祭り

#非公式note夏祭り

参加してきました。


いろいろなヒトがいましたねー。

自分は、うすいよしきさんのツイッターから知って、参加しました。

この機会がなければ関わることがなかったであろう方々ばかりで、とてもおもしろかったです。

それも、自分のキャラクターが確立している必要があるものですから、そのおもしろさは圧倒的でした。


ここでの話題である、「バズるには」という目線ですが、自分は正直それ以前の立ち位置です。

自分はフォロワーさんがまだいないですし、それはこういう生身のつながりから少しづつできていくものだと思っています。

なので、自己紹介もクルマのアイコンに絞っていました。

視覚的情報に絞ったことで、このタグを経由して見ていただいた方は、顔とアカウントを一致していただけるかと思います。

エロデューサーの公演で私が「相手の視点と自分の視点の違いをどう分析するか」という質問をしたことも印象に残っているかもしれません。

つながりをもつその第一歩として、ありがたい限りでした。



自分がここに参加する目線を少し記していきます。

「異業種の人たちとのコミュニケーションの試行」


自分の視線として、「ハードウェアとソフトウェアの垣根は今後なくなっていくはずである」というものを持っています。

どちらにせよエンジニアで、モノを通じてコトをつくっていきますから。


そのために、これまでの自分の経歴を作ってきました。

その学習環境としては、機械の方が設備、費用、場所を要するので、大学はそちらに進みました。

その傍らで、ソフトウェアも・・・と思っていたのですが、それよりも広い視点で、留学での学習経験というものにシフトして、ソフトウェアは誰かの力を借りて進めて行こうという立ち位置が決まってきました。


そこで、人脈の形成が鍵になってきます。

そこで、機械系で門外漢の自分が、この場でどう振る舞うと周囲を巻き込んでいけそうか試行錯誤をしてみるというのが一つのタスクです。

もちろん、純粋にどんな人たちがいてどんな考えを持っているのかということへの興味というのが第一でした。この試行錯誤で彼らとどんな科学反応ができるか、とてもワクワクしていました。



そこで、得られたポイントが次です

見た目や第一印象で情報の取捨選択をすること。

自他の発信バランス、タイミングが重要だが、それを考えすぎると自縄自縛となること。

フォーカスすると異なっているように思っても、オーバービューでの基礎事項では変わらないこと。

自分の視線と相手の視線をすり合わせるには試行錯誤しかないこと。



ここからは自分の頭の中を整理です-------------------

情報過多のこの社会で、限られた時間を活用するには、一言目でふるいに掛けなければならないのも、道理です。

そこは考えていた通りでした。それも、エロデューサーの公演を聞いてさらに痛感しました。

彼は次のように述べていました。
「ツイッターの情報量の少なさは、コミュニケーションの肝を浮き彫りにする。そこでバズるには、一言目のキーワードで周囲の意識をキャッチアップする必要がある。情報の受け手の視点が重要である。どんどん恥をかいて経験したほうがいい」

まさにそのとおりだなぁ。

自分の当初の視点である、「コミュニケーションのノウハウ」で朧げに考えていたものが言語化できました。そして、自分には相手の視点への分析が不足していることの度合いもわかってきました。




「機械」、「自動車」、この単語でもう会話を閉ざしてしまう方々が少なからずいることを痛感しました。会話が興味のない対象に限定されてしまうからです。しかし、具体的にしない抽象的な会話では、相手によって成り立つか否か、そもそものところから左右されます。

これらは会話ではなく、自分しか喋らない時間になってしまうのです。一度こうなってしまうともう抜けるのは至難の業です。話題の転換も難しく、相手に取り付く島がないのですから。


しかし、その中で未知のものへ興味を持って、会話が成り立つようになる場合もありました。

そこでの鍵が先ほどのポイントの後半です。

フォーカスしてイメージを共有してからオーバービューの視点に変えるのです。具体的なモノを通じて、それらの一面を抽象的に捉えて各々の興味との共通点を見出すのです。

分析家で頭でっかちになっていますが、もっとフランクに。

なんでも面白がろうとしていると、一緒になにかできそうだなぁ



最後の項目です

自分が常識と思っていることこそ疑わなければならない、自分の思想の一つです。だから新しいものはどんどん取り込んで行く姿勢で上に記した経歴に至りました。その姿勢の人々はなんでも面白がる後者になっていきます。

そこのギャップに応じて行動する必要があるということです。

それは、悪く言えば、一種の自分への不信ということです。それも、ヒトによって持っている度合いが異なります。

自分が相手だったらどんな言葉がほしいか。相手軸になりすぎるのは良いことではない。そのバランスはそれぞれ違うし難しいことだが、社会の中で生きていくにはそのすり合わせが必要である。当然なことではあるが、正解はなく自己満足でしかできないことでもあると思う。


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