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わたしという誰かの演劇_015

 わたしのいるところで、演劇がはじまる。

わたし  多摩川をずうっと下っていくと羽田空港に着きます、自転車を買っていちばん遠出したのってあのときかもしれない、その日わたしは多摩川沿いの道をひたすらクロスバイクで走りました、クロスバイクってロードバイクほど本格的ではない街乗り用の、でもタイヤも細くてサドルも硬くてかなり前傾姿勢にならないと乗れないっていう、そういう自転車なんですけど、よく晴れた春の日で、全然寒くもないしちょっと汗ばむくらいの陽気、多摩川の水面はほんとうにキラキラ輝いてて、河川敷のグラウンドで子供たちが野球をしているのなんか見ながら走ってたら、ここはもう天国なんじゃないかって思うくらい、風もちょうどいい心地で肌をなでていく、なんだろうほんと、うそみたいに気持ちよくて、わたし思ったんです、この風、この風を幸せのひとつにカウントするんならもうわたし、この先ずっと幸せだなって、自転車に乗りながら、なりたい自分になるとかなんとか、こういう自分こういう状況じゃなきゃ失敗で不幸でどうしようもない、そんなのどうでもいいなって、風をカウントしはじめたら世界はもう幸せだらけ、風をあつめて、何時間もかけてあつめて走って、途中ちょっと川を離れて神社の木陰で休憩したりなんかもしながら、川は海につながってるってほんとうなんだ、なんてあたりまえのことをあたりまえに思って辿り着いた見晴らしのいい空き地、フェンスの向こうは東京湾、わたしとおなじように自転車に乗ってきたひとたちが思い思いに海を眺めたり空を眺めたり、空港がすぐそこに見える、ジェット機が飛び立っていく、どこへ行くかはわかんないけど見送ってみる、夕方になる少しまえ、空と海の境目には夜の空気に入れ替わる予感がほんのり滲んで、なんだったんだろうあの日、あんなふうに思えた日があったんだな、風なんてあつめられないんですよわたしには、ジェットエンジンだって積んでないし、パンクも自分で直せないからあれより遠くへ行くのは怖いし、この先ずっと幸せだなんてそんなわけないのに、もうちょっとだけ進んでみよう、空港の敷地のギリギリまで走った、引き返そうと振り向いた西の方角はまだ明るかったけれど、気づけばすぐに背中は夜の空気をまといはじめる、ヘッドライトを灯す、テールライトは赤色が点滅する、車にひかれないように、ここにいるって知らせるために、天国に夜はないらしい、だったらここはどこなんだろう、Googleマップで最短距離の帰り道を調べる、知らない道をしばらく走ると知ってる道に出て、わたしは風を数えられない、ペダルを漕いで、夜のある国でわたしはひとり、

 また明日。

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