戦後日本の性売買

 本日3月8日はInternational Women's Day、国際女性デーである。それにかこつけ(IWDへの祝福と女性差別への抗議とを行動に移すために)、数年前にとある講義の発表用に作成したレジュメを編集し、記事を公開することにした。その講義は、学部生であれば学部や専攻の別なく受講できる、戦争をテーマとしたゼミ形式の授業で、受講生の発表が必須であった。そこでわたしが選択した題材が、RAAだったのである。
 記事のタイトルは「戦後日本の性売買」としているが、先に断っておくと、残念ながらそんな広範で重厚な内容ではない。長いくせにかなり未熟なものである。しかし本トピックについて殆ど知らないような方々にとっては、今後知識や思考を深めていく入口程度にはなるはずである。なお今回公開に際しておこなった編集は、フォーマットをnote仕様に変え、個人をあまりにもストレートに特定されうる情報などを書き換えた程度のものである。内容に誤りがあれば(残念ながらあるであろう)、遠慮なく指摘していただきたい。また至極当然のこととして、挙げている文献にあたる場合、語り方やそこで語られる内容についてはあなた自身で受容・判断してほしい。
 性売買はいまもなお日本において根深く残る問題である。広く性産業へ目を向ければ、最近も日本で性加害に遭った韓国のDJを加害の対象とした日本産アダルトビデオが発表された。本記事でとりあげる内容は80年ほど前の出来事ではあるが、過去や現在、未来の性売買を考えつづける際の一助となれば幸いである。


1.はじめに

 戦争に関して素人である私にできることはあるか。その問いへの答えは本講義の半ばを迎えてもなおみつからない。しかしそうであっても戦争について思考しつづけることはやはり重要であるし、同時に、戦争を知っていくことが必要不可欠となる。そこで本文章では、戦争における性差を知るためのひとつのアプローチとして、戦争が生んだ一側面といえる特殊慰安施設協会(以下、基本的にRAA)と(戦後の)売春(性売買)、またそれらが戦後日本においてどのように位置づけられてきたかへ焦点をあてて述べていく。

2.なぜRAAか

 「売春」という言葉と比べると、「特殊慰安施設協会」という言葉はひろく知られていないであろうと予想する。詳細は後述するが、「特殊慰安施設協会」とは日本がポツダム宣言を受諾してからものの数日のうちに設立された慰安婦 1制度であり、進駐軍に向けて日本政府と警察とが「用意」した、、、、、、、、、、、、、、、公的なものである。私は女性のおかれてきた(現在もおかれている)性的な奴隷状態に関心がありながら 2 、大学入学直後のとある講義で触れるまで、その存在を知らなかった。そのときの衝撃は忘れがたく、先述の私自身の関心とリンクして今回この題材を選ぶに至った。過去の出来事には、いま考えれば正気を疑いたくなるような事柄がいくらでも存在する。しかし知らなければその過去をいとも簡単になぞってしまう(過去とリンクしてしまう)恐怖があり、それは知っていても容易に起こりうることである。そして、ある立場にとっては「過去」のことであってもまた一方の立場にとってはそれが「過去」ではないということも、珍しくはない。そうしたことを努々忘れず講義で受けた衝撃のその先を考えることが、今回の目的である。
 本文章で扱う内容について、その軸はマイク・モラスキー著『占領の記憶/記憶の占領 戦後沖縄・日本とアメリカ』に依っている。上記講義において使用されたテクストであること、つまり私がRAAを知るきっかけとなったテクストであることがその主な理由である。

3.RAA――特殊慰安施設協会

〇RAAの成立

 命下り、戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せられる。命重く且大なり。しかも成功は難中の難たり。血気蒙昧の徒、我らが使命を汲む能わず、皮相の狭き見解に囚われて、誹謗迫害の挙に出ることなしとせず。然りといえども、我ら固より深く決するところあり。褒貶固より問うところにあらず。成敗自ら命あり。
 ただ同志結盟して信念の命ずるところに直往し、「昭和のお吉」幾千人かの人柱の上に、狂乱を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす。
 我らは断じて進駐軍に媚びるものに非ず、節を曲げ、心を売るものに非ず、止むべからざる儀禮を拂ひ、条約の一端の履行にも貢献し、社会の安寧に寄与し以て大にして之を言えば国体護持に挺身せんとするに他ならざることを重ねて直言し、以て声明となす。
昭和20年9月 特殊慰安施設協会

 以上は『R・A・A協會沿革史』(1949)に掲載されている声明書であり、1945年8月28日に行われた「特殊慰安施設協会設立宣誓式」で会長の宮澤濱次郎組合長が読みあげた。特殊慰安施設協会(RAA:Recreation and Amusement Association)とは、1945年に誕生し、翌年には閉鎖された公的な性売買組織である。「進駐軍向けの慰安所の設置」を指示する内容は、ポツダム宣言受諾後まもない8月18日に、内務省橋本政実警保局長名で全国の知事宛てに流された。その内容を以下に引用する(労働省婦人少年局、1955:12-13)。

 外国軍駐屯地に於ては別記要領に依り之が慰安施設等設備の要あるも本件取り扱いに付いては極めて慎重を要するに付特に左記事項留意の上遺憾なきを期せられ度。

一 外国軍の駐屯地区及時季は目下豫想し得ざるところなれば必ず貴県に駐屯するが如きことなかるべきこと。
二 駐屯せる場合は急速に開設を要するものなるに付内部的には豫め手筈を定め置くこととし外部には絶対に之を漏洩せざること。
三 本件実施に当たりて日本人の保護を趣旨とするものなることを理解せしめ地方民をして誤解を生ぜしめざること。
(別記)
外国駐屯軍慰安施設等整備要領
一 外国駐屯軍に対する営業行為は一定の区域を限定して従来の取締標準にかかわらず之を許可するものとす。
二 前項の区域は警察署長に於いてこれを設定するものとし日本人の施設利用は之を禁ずるものとす。
三 警察署長は左の営業に付ては積極的に指導を行い設備の急速充実を図るものとする。
性的慰安施設
飲食施設
娯楽場
四 営業に必要なる婦女子は芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者等を優先的に之を充足するものとす。

 ここからは、警察署長が中心となって進駐軍のための慰安施設をととのえたこと、かつその急速な開設はあくまでも秘密裏に行うよう要請していることが読みとれる。また、その趣旨は日本人の保護であるから、国民に誤解されることのないよう理解させるようにとも記している。
 東久邇宮内閣の当時、政府は天皇を頂点に据える国体の護持を最重要事項としており、そのために進駐軍との衝突を避ける必要があった。東久邇宮や近衛文麿ら政府中枢は、占領地で日本軍が女性に暴行を加えてきたことを認識しており、その経験則もあってか進駐軍も日本で同様のふるまいを当然するだろうと考えていた。それによる国民の反感が進駐軍との衝突に向かうことを避けるため、日本が占領地で行ってきたことと同様に、進駐軍向けの慰安施設を用意しようとしたのである(村上、2022)。
 東京に進駐軍用慰安所を作るように指示をしたのは、当時副総理格だった近衛文麿と言われている。近衛は、警視総監である坂信弥に東京への設置指示を出し、坂が動いた。8月21日には東京料理飲食業組合、芸妓屋同盟会東京支部連合会、東京待合業組合連合会、東京都貸座敷組合、東京接待業組合連合会、東京慰安所連合会、東京練技場組合連盟の7団体が警視庁から正式に指示を受け、8月23日にRAAが設立された。RAAの目論見書には、指導委員会として内務省、外務省、大蔵省、運輸省、東京都、警視庁の関与が記される。事務所は銀座「幸楽」であった。

〇その対象

 RAAの運営には女性が必要不可欠である。女性を集めるために、当時さまざまな広告が掲載された。「幸楽」の前には、「新日本女性に告ぐ 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。ダンサーおよび女事務員募集。年齢18歳以上25歳まで。宿舎、被服、食糧全部支給」(村上、2022:48)という内容の大看板が出されたという。また、9月3日からは毎日新聞や読売報知に女子従業員募集の広告が出された。図1には「急告 特別女子従業員募集 衣食住及高給支給 前借ニモ應ズ 地方ヨリノ應募者ニハ旅費支給ス」と記されているが、具体的な職務への言及はない。RAA情報課係長だった橋本嘉夫によれば、1日平均で300人を超える女性が本部にやってきたという(橋本、1958)。戦後の人々の暮らしや性別による格差を考えれば、実態がわからずとも衣食住に困ることなくさらには高給まで得られるという職業広告に望みをかけるのはある意味当然であろう。また、こうした新規応募者だけでなく「熟練した売春婦」も強く必要とされた。しかし当時1万3000人程度いたという「娼婦」の多くは疎開をしていたため、RAAは「お国のため」に彼女たちを招集した。
 RAAによる最初の慰安施設は大森海岸駅(品川区)からほど近い「小町園」である。ここは花街に続く料亭のひとつであり、所有者の拒否によって警視庁が斡旋し、RAAが借りあげたという。開業日ははっきりとしておらず、8月28日前後である。畳敷きの大部屋を布や屏風で仕切るのみで、30人 3ほどの女性が送りこまれ、1人が1日に20~30人を超える進駐軍兵士を対応した。

図1 新聞広告(村上、2022:50)

〇RAAの閉鎖

 日本の性売買の現場は性病に関する知識が殆どなく 4、遊郭においても予防の観点はなかったという。全国各地に慰安所が設けられた当時にあっては、性病は進駐軍の中で急速にひろがっていった。第8軍衛生報告をまとめた表1からは、その様子がうかがえる。

 こうした状況下で、9月22日にはGHQによって「公衆衛生対策に関する覚書」が出される。しかし、各軍の衛生隊による調査で日本の「娼婦」の性病率が梅毒50%、淋病75%という結果が出たことで、同日のうちに「日本国民は花柳病撲滅に特に努力すべし」という覚書が出ることとなった(ドウス、1979:108)。ペニシリンの用意や検診所の設置を行っても、再発が繰り返され、数は一向に減らなかった。また、アメリカ本国で日本における進駐軍の様子が報道され、非難が起こった。これらのことが背景となり、1946年1月21日にGHQは「日本における公娼廃止に関する件」という覚書を出した。
 しかし、警視庁はこれに先立つ1月12日に対策を出していた。その内容は、警察がこれまで認めていた公娼は廃業させるものの、「自分の意志で」性売買を行う私娼を雇った稼業継続は許容するというものである。結果として「公娼」は「私娼」となり、「娼妓」は「接待婦」となり、慰安施設は残った。性病は依然として蔓延し、いよいよ1946年3月にGHQはこのような施設への立ち入りを禁止し、東京憲兵兵隊司令官は「進駐軍の売淫窟立ち入り禁止に関する件」という通達を出した。こうして各地の占領軍慰安所にはOff Limits(オフ・リミット)の看板が掲げられ、閉鎖されることとなった。その後、RAAは1949年5月に解散した。

〇その後

 進駐軍での性病の蔓延やアメリカ国内の世論がRAA施設の閉鎖を導くが、そこにいた女性たちの多くはそのまま街娼(パンパン)や日本人相手の酌婦(接待婦)となった。また、慰安施設は殆どがそのまま赤線地帯として残り、特殊飲食店や特殊喫茶といった私娼宿が増えた。
 こうした公的な性売買制度によって「日本の貞操」は守られたのか。進駐軍兵士による最初の強姦事件は1945年8月30日に発生したという。9月1日には横須賀・横浜方面で11件の届け出があった。大半がグループで、ピストルを突きつけていた。有罪は珍しく、有罪となっても刑は軽いものであった。現在でも性犯罪には暗数が非常に多いことを考えると、こうした数字が実態を捉えているかについては考える余地がある。また、全国各地に慰安施設がととのえられてくると、慰安施設を狙った犯罪や慰安施設に関連した犯罪が増えてくる。11月8日には大森の見晴で当日の休業を知った進駐軍兵士たちによる乱暴と放火が起こり、また、京浜方面で進駐軍兵士による強奪が多発していたのは、大森のRAA施設に通うための資金集めだったといわれている。休業を知った帰りしなの強姦事件もあった(ドウス、1979:133)。
 「良家の子女の防波堤」として半ば詐欺的に、あるいは半ば強制的に集められた女性たちは、突如としてお役御免となった。そして進駐軍向けの公的な性売買制度が廃止されてからも、性売買の枠組みの中で、同じような手口で集められ、使われ続けている。

4.その後

〇街娼・酌婦・娼妓

 公的な、そして殆ど明確な性売買制度が禁止されてからも、性売買産業は落ちこむことなく栄えている。もちろん、「娼婦」はいなくならず、これまで「公娼」だった者の多くは「私娼」となった。ドウス(1979:168)によれば、「東京都内の売春婦2千余名中、公娼といわれる女たち、即ち廃娼令が当てはまる女が400弱」だったという。こうした「私娼」と呼ばれる人々は、街中で「客」をみつけたり、裏営業として性売買が行われる施設で生活したりしていた。街娼(パンパン)の存在は現在、RAA以上に知られているであろう。こうしたRAAなきその後の性売買について以下述べていく。

〇狩り込み(パンパン狩り)

 パンパンとは街娼を指し、「客」をみつけたあとは屋内・屋外問わずさまざまな場所が利用された。「狩り込み」は、こうした街娼を取り締まるためにアメリカ憲兵と日本警察とが行った摘発である。摘発後は、強制性病検診と強制治療とが実施される。
 先述の通り、「公娼」廃止後も「私娼」は残った。性病の蔓延も終わらず、こうした状況下で1946年5月28日には「公娼制度の廃止に関する指導取締の件」が通達された。本指令は「従来の公娼制度による貸座敷営業は勿論であるが、料理屋、飲食店、酌婦置屋営業等であつても、業主と従業婦との契約の内容が前借、年期等に依り従業婦の意志、身体の自由を拘束したり従業婦に売淫行為もなさしめたりするものである場合」(労働省婦人少年局、1955:22)には適用されるとした。第8軍報告によると、1946年6月の海軍・海兵隊性病罹病率は、横須賀方面艦隊(41.9%)、九州佐世保方面艦隊(57.4%)であった(ドウス、1979:220)。
 「売春に関する資料 ―改訂版―」の「私娼の取締竝びに発生の防止及び保護対策」にはその方針として「公娼廃止の趣旨に徹底して接客婦の自由を拘束する諸制限を徹底すると共に所謂『闇の女』の発生を防止する為次のような対策」を講ずる旨が記されている(労働省婦人少年局、1955:24)。貧困による「転落」を防ぐための生活保護や、家出や浮浪をする女性のうち「更生見込」みのある者に対する「自立更生」へ向けた種々の保護、「正しい男女間の交際指導」や性教育、そして「闇の女」の取り締まり強化である(ここでは特に女性警官を活用するように記されている)。中規模の狩り込み自体は既に3月末に行われていたようであるが、8月には全国一斉の狩り込みが初めて行われた。「一般女性」も否応なく巻きこむ狩り込みそのものの乱暴さや検診の横暴さについては多く言及されている。女性議員を中心として結成された「女性を守る会」の「共産党・柄沢とし子調べ、吉原病院に於ける不法検束者数」を表にまとめた。

 街娼へのこうした活動は、街娼を目障りとする、「集娼」制のもとにある「同業」の勢いも無関係ではない。

〇街娼の実態

 「公娼」が廃止されても「私娼」が減ったわけではないことは既に述べた通りである。そこで、竹中勝男らによる『街娼 実態とその手記』等をもとに、「街娼」として性売買を行った女性についてまとめる 5
●年齢
 総数200人のうち、15~18歳が23人(11.5%)、19~24歳が136人(68.0%)、25~29歳が26人(13.0%)、30~40歳以後が15人(7.5%)であった。最低が15歳(2人)で、平均年齢は22.5歳となった。年齢による分布を図2にまとめた。

図2 街娼200人の年齢分布(竹中ら、1949をもとに作成)

●出生順位
 女性が長女やひとりっ子であったか否かは、戦後混乱期の経済的重圧を考慮するととくに注目すべき点である。同じく総数200人のうち、長女が86人(43%)、ひとりっ子が37人(18.5%)、末女が31人(15.5%)、その他が46人(23.0%)となった。これを図3にまとめた。

図3 街娼200人の出生順位(竹中ら、1949をもとに作成)

●学歴
 総数200人の学歴の内訳は以下の通りとなる。
  尋常小学校中退 10人(5%)
       卒業 45人(22.5%) 計55人
  高等小学校中退 3人(1.5%)
       卒業 33人(16.5%) 計36人
  中等学校中退  33人(16.5%)
       卒業 62人(31%) 計95人
  専門学校中退  6人(3%)
       卒業 5人(2.5%) 計11人
  不明      1人(0.5%)
  不就学     2人(1%)
●動機
 竹中ら(1949)の調査では、200人に対し、「今のような生活に入つたわけ(動機)をくわしく、はつきりかいて下さい」という問いとともに11項目を自由選択させた。それぞれの項目は、「面白いからすきで」、「お金が欲しくて」、「失恋して」、「あこがれて」、「やけくそで」、「友達にまねて」、「だまされて」、「食べていけないから」、「家の人のすゝめで」、「他人のすゝめで」、「その他いろんな理由(自由記述)」である。
 その結果、「お金が欲しくて」と関連した答えが90人(40.5%)、「食べていけないから」と関連した答えが33~34人(16.5%)となった。これらには「あこがれて」、「やけくそで」、「面白いから」といった回答も結びついてはいるものの、生活困難を主な動機とする女性が半数を占めているのは確かである。また、「面白いからすきで」と答えた者は20人を超え、「あこがれて」のみを選んだ者が4人いた。「やけくそで」を選んだ者は24人、不明が33人となった。
●収入
 榎本(1949)は、200人の街娼への調査に加え、京都府立平安病院で392人の酌婦(1947年3月)と165人の街娼(同年6~11月)とに実施した無記名回答調査、平安病院検査室及び京都府予防課の資料とをまとめ、彼女たちの月収平均を出した(表3)。また、日本統計協会(1952)『日本国勢要覧』より1946年から1949年までの平均月給を、国税庁(2021)『民間給与実態統計調査』より2021年の平均月給 6を、表4としてまとめた。ここから、当時の街娼・酌婦の給与水準が推測できる。

榎本(1949)をもとに作成
日本統計協会(1952)、国税庁(2021)をもとに作成


●前職を辞めた理由
 竹中ら(1949)によれば、200人に前職を辞めた理由を尋ねると、有効回答数は職業に就いたことのある195人から得られた。その結果は、「収入が少ない」が63人(32.3%)と「不明」81人(41.5%)を除けば最も多く、次いで「くび」17人(8.7%)と、経済的な圧迫が感じられる。また、「仕事が面白くない」、「家族のすすめで」はそれぞれ5%程度となった。

〇世間の眼

 「街娼」たちへの世間の眼はどのようであったか。RAAや街娼についてこれまで述べてきたように、彼女たちの扱いは基本的人権を尊重するようなものではなかったし、「扱う側」と対等な「人間」ともされていなかった。世間の「街娼」及び「売春婦」への眼を、国立世論調査所による『売春に関する世論』を引用しながらまとめる。
 売春防止法に関連して行われた国立世論調査所による「売春に関する世論」では、街娼を法律で禁止する必要があると考えている割合が77%であるのに対して集娼の法律での禁止を70%が反対している。また、街娼を社会的に必要と考える割合が19%であるのに対し、集娼は70%が必要としている。道徳上害悪かどうかに関しては、街娼は58%が、集娼は35%が害悪とした。印象については、街娼に対して非同情的な割合は51%、集娼に対しては27%であった。なお、必要性については社会的・経済的地位、職業、性別、地域によって差があった。街娼を認める者は社会的・経済的地位の低い回答者に多く、集娼を認める者は商人や職人に多い。性別及び地域別の差については表5にまとめた。

 売春婦となった動機の推測は、東京を含む関東地方の回答者の6割程度が環境要因を考えており、個性を要因と考える割合は17%であった。売春婦は概して社会の犠牲者と捉えられていたのである。しかし、先述したように街娼・集娼それぞれへの感情には違いがある。
 国立世論調査所(発行年不明:5)によれば、この調査の結論は以下の通りである。パンパンのあくどい化粧や態度、ちぢれ髪、どぎつい洋装は、親しみもなく目障りで、街頭を闊歩するために嫌でも目につく。また道義の頽廃が問題視されており、一般の善良な子女の教育に対しても悪影響である。一方昔ながらの遊郭は秩序があり、人目にもつかない。それゆえ社会悪、無秩序、頽廃の意味を含む売春という言葉は、集娼ではなく、街娼にあてはまる。
 また、『街娼の社会学研究』(渡辺、1950:204-205)からは、「隣人としてもかまわない」職業として街娼は6.1%、娼妓は21.3%、芸者は43.1%、社交喫茶店女給は58.1%、ダンサーは59.2%という結果がわかる。なお、当時後者3つの中には性売買を行っている者が少なくなかった。最も強い反対感情を示す項目であった「できれば国外に追放すべきである」という質問に対しては、街娼は36.1%、娼妓・ダンサーはそれぞれ7.1%、芸者・社交喫茶店女給は0.8%であった。ここからも、世論の一端がうかがえる。

〇売春防止法の成立

 日本では、1956年に売春防止法が公布され、組織的な性売買が禁止された。廃娼運動は日本が女性・児童売買禁止条約を批准した1925年ごろにも起こっているが、性売買はなくならなかっただけでなく、条約が適用されない満州等へ向かった者が出た。彼女たちはその後、多くが「従軍慰安婦」となった。
 売春防止法成立の可決成立は1956年5月21日、施行は1957年4月(罰則を除く)となった。これまでも女性議員を中心として赤線を廃止する声や売春等処罰法案の提出(1947年第2回国会)があったものの、後者については厳格すぎるとして廃案となっている。その後も同様の法案が繰り返し提出されており、1956年、ついに売春防止法が成立した。
 売春防止法では、「自らの意思で金銭を対価に不特定多数と性交することを禁ずると同時にその相手となることも禁じている。(中略)また売春をあっせんしたものや騙して売春させたもの、また前貸しなどに罰則が課される」(村上、2022:191,192)。しかし、性売買の相手、つまり「買春者」についての罰則は存在しない。施行の1957年には売春汚職事件が発生した。
 売春防止法は2022年に66年ぶりに改正された。そして、女性の福祉増進と人権の尊重とを目的に含んだ新法案、「困難な問題を抱える女性への支援に関する法律」が2024年4月に施行される予定である。

5.コメント――公的あるいは黙認の性売買産業からみる構図

 RAAは「昭和のお吉」をして「女の防波堤」の役割を担わせた。声明書には「防波堤を築き、民族の純潔を」護るとある。これは、「貞操観念に欠ける」女性たちを犠牲にする代わりに「良家の婦女子」を外国人兵士の牙から守るということであり、日本の中産階級の女性をアメリカ占領軍から保護することを目的としていたのは明らかである(モラスキー、2006)。しかし、この目的を私は女性のためのものであるとは考えない。
 先述の通り、RAAの設置をめぐっては、海外で日本軍が行ってきた残虐な性加害を政治の中枢の者たちが意識していた。日本軍(男性)が行うならば進駐軍(男性)が行うのは至極当然、ということである。家庭、ひいては国家において、女性はあくまでも男性の従属物である(ここでの主語、主体は男性である)。従属物たる女性(母、妻、娘)が進駐軍に「犯」される事態は、日本の敗戦と進駐軍による「侵」犯とに重なり、日本国民(日本の男性)に屈辱や恐怖など、種々の思いを与える。戦争で(そのものだけでなく、「男らしさ」においても)負けたうえにさらに性的な征服においても負けるというのは耐えがたく、この思いは日本男性間のホモソーシャルな関係にも影を落とす。もちろん実際の性加害は「犯す」だの「侵す」だのの言葉遊びを楽しむ余裕はないのだが、男性による占領文学にはこうしたリンクがみられがちである(そうした文学作品においても、重要なのは多くは女性の被害ではなく装置としての侵犯行為である 7 )。ここから推測されるのは、「防波堤」が守るのは一億の国民でも女性でもなく、女性を(妻や娘として)所有する男性の、いわば「面子」であるということだ。男性は所有物の中から「餌」とできる部分を切り落とし、「侵犯」が精神的にドメスティックな領域へと及ぶことを避けようとしたのではないか。モラスキー(2006)も、RAAとそのレトリックがすべて男性による産物だったことについては丁寧に指摘している 8
 それでは日本男性にとって進駐軍男性はまるきり境界の彼方なのかというと、そういうわけでもないだろう。日本男性間だけでなく、日本男性と進駐軍男性との間にもホモソーシャルな関係はつくられていたのではないだろうか。両者に共通するのは「女性を買う・使う」ことへの社会としての抵抗のなさである。彼らは「女性を買う・使う」という経験を共有しているのである。だからこそ、戦後の混乱期に日本という国はわざわざ公的な性売買制度を急速に構築していったし、積極的に兵士たちを紹介していった。狩り込みも、日米「協力」のもと行われている。性売買女性を媒介として、日本男性は進駐軍男性とのホモソーシャルな関係を感じていたのであろうと考えている。1953年に出版された『日本の貞操――外国兵に犯された女性たちの手記』の煽情的な宣伝文句やいかがわしい文章、パンパンの独白『女の防波堤』(実際には男性が執筆した)のポルノ的な描写からは、こうした状況を享受・傍観できる立場の姿勢がにじみでているのではないか。
 竹中(1949)は「自殺者は自殺希望者なのであろうか。街娼は、もとから街娼を希望していた人々であろうか」と問い、「そうではない」と述べる。昨今も性売買女性について女性の「自由意志」を「考慮」されることがあるが、原因を女性に求める限り性売買も性被害(性加害)もなくならないと断言する。「街娼」となった人々の状況については、本文章で述べてきた通りである。問題は性売買の既得権益を手放さない層やその消費者、黙認する傍観者であり、戦後性売買産業についても原因は戦争(敗戦)や軍隊ではなく、女性を男性の所有物として「人間」の従属的地位におく家父長制に依るところが大きい。

6.おわりに

 以上、戦後の性売買産業を取り巻く流れをみることで、こうした産業そのもののレトリックを推測した。現在も「性売買は主体的な選択ならば問題ない」、「性産業を規制すれば性犯罪や表面化しない性売買が増加する」といった言説があるが、今回の内容からはこれらを否定する戦後の一側面を発見したと思う。日本は日本軍「慰安婦」の問題を抱えている。そのような他国への残虐極まる行為(人権の侵害)があったのだから、RAA等の公的性売買制度が急速発展したのも考えてみれば当然である(最悪の「当然」である)。これらは、地続きの問題としてみつめつづける必要があると私は考える。また、戦後の性売買女性や性加害を扱う女性作家による作品も併せてとりあげたいと考えていたが、力が及ばず叶わなかった。
 足りない部分も多い文章ではあるが、本文章が戦争について考える新たな糸口を少しでも提供できたならば幸いである。

1 現在「慰安婦」(正確には『従軍慰安婦』)の表記をめぐってはいくつかの立場があるが、本文章では進駐軍に関係した内容を多く扱う点も考慮し、単に「慰安婦」と表記する。
2 より正確にいえば、女性がおかれてきた(現在もおかれている)種々の問題への関心である。
3 ドウス(1979)は38人と記載している。
4 医者は性病を「娼婦」の職業病としてのみ考えていた。
5 竹中ら(1949)による資料は、1948年に京都社会福祉研究所が実施した大規模調査の結果となる。
6 1年を通じて勤務した給与所得者の平均年収を12で割った。
7 完全な余談であるが、ミステリにおいて軽率にとりあげられる「人間が描けていない問題」と密接な関わりがあると感じている。
8 モラスキー(2006:239)は、性売買で搾取された女性の苦悩を男性主体・男性執筆の手記等を通じて国民的経験として表象することが、「男性」の屈辱感を巧みに覆い隠すと論じる。

≪引用・参考文献≫

ドウス昌代(1979)敗者の贈物―国策慰安婦をめぐる占領下秘史―、講談社。
榎本貴志雄(1949)売春婦の社会衛生、街娼―実態とその手記―、有恒社。
橋本嘉夫(1958)百億円の売春市場、彩光新社。
小林大治郎・村瀬明(1971)国家売春命令物語、雄山閣。
国立世論調査所(不明)売春に関する世論、国立世論調査所。
国税庁長官官房企画課(2021)令和3年分民間給与実態統計調査―調査結果報告―。
Molasky,S.M.(1999)The American Occupation of Japan and Okinawa: Literature and Memory、鈴木直子(2006)占領の記憶/記憶の占領―戦後沖縄・日本とアメリカ―、青土社。
村上勝彦(2022)進駐軍向け特殊慰安所RAA、ちくま新書。
日本統計協会編(1952)日本国勢要覧、統計の友社。
労働省婦人少年局(1955)売春に関する資料―改訂版―、婦人関係資料シリーズ一般資料第31号。
신박,진영(2020)성매매: 상식의블랙흘、金富子監訳(2022)性売買のブラックホール―韓国の現場から当事者女性とともに打ち破る―、ころから。
住谷悦治・竹中勝男編(1949)街娼―実態とその手記―、有恒社。
渡辺洋二(1950)街娼の社会学的研究、鳳弘社。
R・A・A協會沿革史(1949)。

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