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秋の日を生きる力の回復。あるいは夏の時代を終わらすために。

今年もいささか過剰に暑かった夏が終わり、 空気にひんやりとしたものが入ってきた。気がつけば、会社に勤めていた時に定時だった時間には夕焼けが広がっていたりする。夜になれば鈴虫の鳴き声が聞こえ、十五夜が透き通ったような白い光で空を照らす。こんな時は、全てが終わりに落ちていくような悲しさを理由もなく感じことがある。

今の時代、人間は常に夏を生きることを求められてる気がする。明るくて活動的で、元気で朗らかで、どこまでも抜けるような青い空が広がっている中を駆け抜けるような、そういう生活を求められてる気がしてならない。

もちろん、夏を精一杯に生きることは人生にとって大事なことだろうけど、一方で秋の夕方に感じるような悲しみを隠していける事を良しとしていないか。夏があれば必ずその終わりも来るのだが、いつまでも夏を感じていようとしていないか。その幻想の夏に我々は何を見てるのだろうか。

夕焼けを背にした悲しさは、人の急ぐ足を立ち止まらせて、振り向かせてしまうような力に満ちている。その振り返った時に見えてしまう景色は赤く金色で、まるで何かが燃えるようだ。その炎に対峙する時、私たちは何か神秘的なものを絶えず感じずにはいられない。そこに映る影を、人類は長い間、語り、絵に書き、石を削り、文字にして伝えてきたのではないだろうか。

今日この日を、悲しみの中に生きた人たちよ。その悲しみと語りあおう。それこそが、この夏しかないような社会に疲弊した我々を正気に戻す道なのだ。人は、喜びではなく悲しみの中にこそ、本当に語るべきものが眠っている。秋の日の長い長い影の中に、私たちに語られない物語が隠れている。

その物語の歌を、長い夜に奏でる。雲は静かにどこまでも流れていく。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。