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面倒くさい妻と別れられません。あるいはコミュ障の「カミングアウトの物語」について。

私の妻はとても面倒くさい。

妻は「ボクの彼女は発達障害」という本の主人公である「あお」でもあるのだけども、発達障害や精神障害があって日常生活でできることはそれほど多くないので、私の家事の量はかなり多いと思う。

元々買い物や料理はほぼ完全に私の仕事だったけど、てんかんが再発してからはどうしても薬の副作用で寝ている時間が長いためさらに家事が増えた。

時々パニックを起こして行方不明になって警察署から電話がかかってきたり、真冬の深夜に何時間も探し回った時もある。家の中で突然倒れることもあるし、何かバタバタするなと思ったらベッドと壁の隙間に挟まって動けなくなってたこともあった。

日々、アドベンチャーゲームが起きている感じで、一歩間違えたら「あなたの妻は死にました」というゲームエンドになってしまうような感じだ。

様々な問題が起きるたびに私の時間を削られるしストレスも溜まる。そういう時は本気で別れたいとか離婚したいとか思ってしまうんだけど、ADHDの忘れっぽさなのか、もともとそういう気質なのかは分からないんだけど、一度波が過ぎ去ってしまえば「まあ、仕方ないよな」と思うし、本当に妻が死ぬこととか別れることを考えるとそれだけで涙が出てしまう。いろんな意味で本当に「めんどくさい」やつである。

こういう話を他人に振ると「ご家族と同居したら」と心配される。私の方の実家は山形なので遠いので論外としても、妻の実家は都内にあるので同居しようと思えばできるし妻のご両親は同居を望んでいる節もある。だけども、私たちは二人で自立して暮らすということを出来る限り続けていたい。

ところで、私に対する妻の罵倒のバリエーションは本当に豊かだ。「Twitterで偉そうなことを書いている意識の低いおっさん」だの「Twitterをバズらせても財布はバズらせないおじさん」とか「見た目だけお父さん。中身はお子様」などと毎日のように新しい称号を開発してくる。

結婚したのが心が瀬戸内海のように広く冬の日本海のように平穏で渇水期のダムのように深い私でなければ「大島てる」に掲載される物件をまた一つ増やしていてもおかしくない。

その罵倒の中の一つに「人間が大好きなコミュ障」というものがある。私は聴覚障害があることもあってそれほどコミュニケーションが上手な人間ではない。ここ10年間で人工内耳をつけて聴力が成長して話すことにはそれほど不便もしなくなったけど、幼い頃から聞こえていて言葉によるコミュニケーションを当たり前としてる人に比べれば圧倒的に経験値が少ない。

同時にどういうわけか他人に対する好奇心がめちゃくちゃ強い。何か面白そうな人がいるなと思うと失礼だと思っていてもじっと見てしまうし、つい、話しかけてしまったりする。

話しかけてもそれほど滑舌が良くないし、焦ってしまうとどもってしまうので何を言ってるんだこいつは的な反応されることも少なくない。そもそも185㎝の巨体であまり人相が良くない男が話しかけてくるということ自体が緊急事態である。警戒して当然だ。

その都度恥ずかしい思いもするし「またやってしまった」と自分が嫌になるんだけども、それでも人に興味を持つということがどうしても辞められない。それを妻は分かっているので「人間が大好きなコミュ障」とはやし立てるわけだ。

そんなことを言う妻であるが、彼女もまた付き合うのがかなり難しい人間である。詳細は本を読んでほしいんだけど、こだわりの強さや融通の利かなさで困ることがかなり多い。また、一度「気に入らない」と思ってしまうとその思い込みを変えることは難しく、他人との関わりを簡単に断ってしまいやすい。だから、それほど「友人」と言えるものが多くはない。(と私は思っているが妻にしてみればどうかはわからない)

妻からしてみれば私だって時には敵に見えるだろうし、実際、私に対して怒った時は刃物が飛んでくることも珍しくない。最終的にはパニック起こしてぶっ倒れてあまり何も覚えてないということが起きる。また、私の様々な問題が無自覚に妻に負担を与えてるだろう。私だって無敵もなければ不器用な人間でしかない。そういう「コミュ障」どうしがどういうわけかひとつ屋根の下で生活しているというのが我が家なのだ。

長々と話してきたけどこのような「コミュ障」について話したのは、この記事を読んだせいだ。

この記事は「親密性」をテーマにしてるものなんだけど、「私たちはどうして付き合っているんだろう」というテーマともつながることだ。「コミュ障」の二人がお互い負担に思ってて、それでも何でか離れられずに10年以上付き合っている。これはどうしてなんだろう。

この記事の後半に以下のような言葉がある。

でも、その二者の関係がお互いに大事なら、嫌な思いをしたことで「何が起きているのか」を考えると思う。そこから「わかってほしい」という相手の気持ちが見えてくる。そういうことを繰り返していくんです。だから、嫌な思いをするのはいいことでもある。関係が深くなるってそういうことだと思います。

確かに振り返ってみれば、妻との付き合い方は「嫌なこと」ばっかりだった気がするし、だけどもその度に「今回の店はうるさかったから駄目だった。もっと静かな店に行けばよかった。」とか「こういう商品だったら音が大丈夫なんだ」という経験と積んでいって、こういう学びが積み重なって本を出すことができたし、今おこなっている仕事の大きな助けになっている。

でもそれ以上に、純粋な意味で「相手を理解することができた」という実感を得られるのが嬉しいのだ。他人には理解しにくいであろう自分のパートナーを自分の言葉で解釈して理解していく作業。その一つ一つに手応えを感じることに私は大きな喜びを見出すのだ。私にとって妻は謎であるから楽しいんだろう。

では、妻からしてみればというと私は「間違って廃品回収しちゃったから少し手直しして社会にリリースしようと思ったら思いの外回復しちゃったしめちゃくちゃ面白いから大好きになった」という代物らしい。彼女にとっても私とは「めんどくさい」ところからのスタートだからこそ面白い人間だったようだ。

この記事のキーワードに「カミングアウト」がある。振り返ってみれば私たちの10年は「カミングアウト」をずっと続けてた時期だった気がする。

このカミングアウトは普通の意味での自分の問題を相手に掲示することもあるんだけど、それと同時に「自分一人では語りえなかった言葉」を二人で言葉にしていくことで「自分自身に対してカミングアウトすること」もたくさんあった。

例えば身近なところだと、私自身が以前はかなり体臭がひどかったんだけど、それに気づかせてくれたのが妻の言動であって、それでは絶対自分自身に「カミングアウト」はできなかった。

妻自身も自分の「困りごと」が何から来てるのか分からなくて不安だところに私が言葉にすることで妻自身の曖昧な認識が「言葉にされて理解できる状態」になったということも多々ある。(その集大成が本になってしまったのだが)

もしこれがいわゆる「普通」のパートナーであったのならば、ここまで「カミングアウト」ができたかというと怪しい。コミュ障の私たちはお互いに簡単に伝えられない物をたくさん抱えてるからこそなんとかお互いの言葉を見つけようともがいてきて「カミングアウト」を続けてきた。

カミングアウトとは「ふたりの物語」を作り上げていく行為なのかもしれない。そして、その物語に書かれている言葉はきっとおそらく二人にしかわからないクレオール語で、他の人には全く意味不明かもしれない。私たちはこのクレオール語の生活を守るために二人で暮らしていくことを、それが難しい事でも選びたいんだと思う。

東畑先生は「僕は、そのカミングアウトしたあとの、いわば「ポスト・カミングアウト」とも言える時間を十分に生きていくことが大切だと思っています。」と語っているけど、私と妻の「ポスト・カミングアウト」は、コミュ障の「カミングアウトの物語」はこれからもまだまだ続いていく。

「面倒くさい」からこそとは深く関わろうと思えたし、コミュ障だからこそ語り得るカミングアウトがあった。だから、私は妻に「めんどくさくてありがとう」と感謝しながら、今日の晩御飯を作る。そして、体調が良かったら皿洗いくらいはして欲しいとお願いしよう。そのくらいの「カミングアウト」を食卓に持ち運ぼう。そこに、どんな物語が生まれるか、今の私はわからないけれども、それは決して悪いものではないはずだ。そのくらいは、信じてもいいだろう。それが10年間の積み重ねなのだから。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。