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神様という優しい嘘。あるいは弱き人間への抱擁について。

私はとある小さな宗教団体の会員だ。父親と母親がそもそもそこの会員として出会ったので、否応もなく私は二世会員として生まれたわけだ。

それから紆余曲折あって、その団体から離れたり家庭内宗教戦争とかもあったわけだけども、結論としては現在の私は神様…というか大いなる存在と言うか、そういう超自然的なものを強く信仰している。(会員としては不真面目もいいところだが)

なぜ宗教を信じられるか、といえば話は簡単で、私がなんからの力で「救われた」という実感があるからだ。宗教をすれば「救われる」という期待ではなく、既に「救われている」という確信である。

私は聴覚障害があってADHDがあって、それらも問題から来る社会との軋轢で躁うつ病にもなった。現在はだいぶ体調も良くなったし、本も出せたし、結婚もしたけれど、それでも生活は楽ではないし、妻は結構重い病気で半ば寝たきりだ。一般的に見たら救われた、とはいい難い状態だけど、それでも私は救われていると信じている。

障害者に生まれて一番きつい事は「なぜ私が障害を持って生まれてきたのか」というどうにもならないことを問い続けてしまうことだ。「なぜ私なのか」という問いを発するとき、まるで暗闇の中を堕ちていくようだ。生まれてきた後悔。寄る辺なき孤立。まるで世界に一人だけ取り残されたような絶望感。「なぜ」「どうして」の繰り返しで心をすり減らしていく。

科学的に考えれば、一定の確率で遺伝子に不具合が出た、とかたまたま事故や病気になった、という説明はできる。だけど、科学は私の心を納得させるための知識ではないから、それが「なぜ私なのか」については一切教えてくれない。そしてもちろん、科学からすれば「なぜ私なのか」と問うこと自体に意味はないことだ。

しかし、それでも問い続ける。あまりにも理不尽であまりにも残酷であまりにも悲しい「障害を負った理由」をただただ意味がないと受容できるほど私は強くなかった。だから、宗教に立ち返って「あなたが生まれてきた意味はある」という教えに回帰した、というわけだ。(この回帰したプロセスはオカルト的な意味での神秘現象もあったけど、ここでは深く触れない)

とはいえ、「あなたが生まれてきた理由」は今の所はっきり見えているわけではない。たいして修行もしていない私がある日突然「私が生きている意味が見つかった!」となるほどうちの宗教は優しくなくて、日々の修行(心を見とる訓練が中心だ)や一般的な意味での仕事を積み重ねるしかない。

日々、不足や失敗しか無くて、やっぱり人生うまくいかないけど、それでも「障害を持っていること」に納得できている、というだけでやっぱり「救われている」と思う。

傍からみたらこれは妄執とも言えるのでもあろうけど、もし神がいると信じることができなかったら、今のような仕事はできなかっただろう。信仰とは、現実的に私がなんとか生きていくために持っているテクニックだ。

同時に、別に他の方が他の宗教を信じようと無宗教だろうと別に問題はない。それどころか、別に実際に神様がいなくても全然構わない。私に必要なのは「神はいる」という教えてくる教祖がいて教団があって、それを信じている私がいるということだけだ。

そこには私がこの世界に生まれてきた理由を「でっち上げてくれる」詐欺師と、その虚構を鵜呑みにしている狂人がいるだけかもしれないけど、それでも構いやしない。寄る辺なき真実の孤独より嘘の温かい抱擁のほうがよほどマシだ。

人間は客観的な事実だけでは生きてゆくことが出来るほど強くはない。弱いときほどそうだ。そして、私は生まれつき障害があるというどうしようもない業を抱いて生まれてきて、信仰に逃げなければ生きていなかったほどに弱い人間だ。私は神を信じずに生きられる人たちが本当に羨ましい。

宗教とは優しい嘘だ。そして、その嘘にのらなくてはいけない自分が情けなくもあるけど、嘘によってのみ真実の人生は歩んでいける。この矛盾をはらみながら、信仰の帆を張って、この人生の荒波に挑んでいこう。

北斗七星は雲の切れ目から、ちょっとだけど見えている。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。