自由にかけなくなるという恐怖について
4月から仕事が変わって、事務職から営業活動や商品紹介・プレスリリースを書いたりする仕事になった。以前に比べて仕事に対する充実感は恐ろしいほどに変わっている。
それに、物書きとしての仕事もしていて本の執筆を抱えていて、ここのところ、わりと「仕事」に関する文章ばかりを書いている気がする。
そして、同じ「書く」ことなら1円でも仕事になることのほうが良い。なので、かなり限界ギリギリまで仕事を入れている状態が続いている。
おかげでなんとか増大する医療費を賄えて家賃も遅れず支払い、ご飯のお金もそんなに心配しなくていい状態だ。
とはいえ、ここのところ、どうも書くのが「だるい」という現象が起きている。気が向かない、とか、あまり書いても面白くない、とか。書くもの書くもの、今ひとつ「気合が入っていない」というか最後まで集中して書き終えることが出来ない。
梅雨時で体調がよろしくない、というのもあるけども、最近は「好き勝手に書き散らかす」ということが出来てないこともあると思う。いろいろ締め切りが守れていない諸々もあってある程度の長文を出すくらいならこっちの原稿を書いてくれ、という声が聞こえそうだ。幻聴であるが、多分。
「求められる」ということはありがたいことなんだけれども、それは同時にずっと見られているということであって、どんなに楽しいものであってもいささか負担であるのは間違いないところだ。このちょっとした澱が積み重なって自由に文章の中を泳ぎ回れないのだ。
なので、たまには自由に文章を書いてみよう、と思ったのだけれども、今、驚くほど「書きたいこと」が見当たらない。
正確には最近読んだ漫画のこととか、新しく買ったスマホがめちゃくちゃいい、とか書きたいんだけど、「それ、面白くなるの?」とか「ネタとして成立するの?」とか自問自答してしまう。
自由に文章を書きたいのに、同時に外の眼を気にしてネタにしないと書く気が起きない!という矛盾。
まぁ、常にメタ的な視点を忘れないとも言えるかもしれないけど、なんかこう「違う」気がするのだ。こう、スーツを纏うのではなくて、素朴に、甚平の着心地のようなものが書きたいのだ。
まぁ、リアルな体型が甚平よりスーツが似合うというのはさておくにしても、「素直に書きたいこと」がスーッといでてこないのはまずい。好奇心だけが取り柄の私が世界に対する好奇心が薄れている証左だからだ。それはまごうこと無く恐怖である。
自由に書くセンスは自由に書くことでしか養えない。というわけで、数日間はリハビリで「好きなこと」を書く時間を無理矢理にでも設けたいと思う。
そのためにはツイッターの時間を少し削っていきたい。まぁ、これ、ツイッターで書いてるやつなんだけどね。ははは。では、また今度!
妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。