障害者の精神的な成熟と知のバリアフリーについての関係性について

ちょうど別なところで、精神的な成熟が話題になってたんだけど、障害者って精神的に成熟するのが結構難しいと思ってて、それはなんでかというと「健常者の立場」になりにくいからなんだよね。前にも書いたんだけど、健常者は障害者の経験ができるけど、障害者は健常者の立場になれない。

よく、障害者は健常者の知らない体験をするから精神的に成熟しているとか強いとかいうけど、あれはだいたいデタラメで(笑)だって自分の状態しか経験してないんだもの。そういう視点からしたら「障害者がいろんな立場を経験できるか」というとそうでもないと思う。

逆に、いろんなことを学んだり経験したりするコストが障害者に比べたら著しく低い「健常者」ってもののほうがよほど「いろんな立場」を肉体的な意味でも社会的な意味でも経験できる。だから、障害者の精神的な成熟は比較論では結構難しくなるんだろうな、というあまり救いのない話。

とはいえ、障害があると健常者が出来ない経験に日々遭遇するので、健常者が持ちえない見識というのを持つことはできるのが事実だし、そこからいろいろ独自の視点を得ていくのはできますね。ただ、これは意識的にしないと結構難しい行為でもある。

肉体的にも社会的にも「いろんな立場」を経験しにくいマイノリティーはではどすうればいいか、というと、結局のところ知識と想像力であって、この2つを伸ばすには本を読め、そして感想文を書け、話せ。良質なインプットとアウトプットを積み重ねろ、という大変単純な答えになる。

折よくっていうか、ちょうどさっき新聞の素敵な広告があったんだけど(画像参照)、我々ボンクラが思いつく悩みや考えなんぞ、だれかが文にしてるわけで、それを学ぶことで健常者というものの像を作って、そこから自分を比較していくことはだいぶ高度な知的遊戯かと思われます。

まぁ、障害があると古典的名著にアクセスすることすら困難なんだけどな!そして理解するだけの教育を受けるのがめっちゃ難しいんだけどな!この時点で「学力」の問題が立ちはだかるんだぜ!という非常に苦虫を潰したくなる現実が横たわっているのですが!

でまぁ、私の友人の鈴木悠平さんがいまやってるクラファンなんだけど、これ、知のバリアフリーを実現したいってやつなんだよね。この課題はまさにこの「精神的な成熟」と同じ話なわけですよ。

私、このクラファンに応援文投げてるんですけど、この中で「学べない弊害」については触れなかったんだけど、今回書いててやっぱり「知のバリアフリー」って大事だな!となっているところです。

といわけで、このクラファンですが明日で最終日となります。明日の20時から24時まで最後のお願いのライブをするのですが、そのライブに私も出演します。よろしくお願いいたします!




妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。