くらげの毒抜き日記 Vol.3 「サッカーで感じた愛国心とその狂気」ってお話

【はじめに】
この記事はブログにかくまでもなく、とはいえツイートで流しちゃうのももったいない頭の中のもやもをはき出す毒舌日記です。おもしろいと思ったら100円恵んでいただけると泣きます。

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6月28日深夜24時40分、私はテレビから目を背けた。ワールドカップの日本-ポーランド戦終盤だ。今、日本中で賛否両論を巻き起こしている「10分間のパス回し」だ。その最中、私はあまりにいたたまれなくなった。これ以上見ていたらなぜか泣きそうだったのだ。

私はサッカーファンではない。今回のワールドカップに出場している選手の名前もあまり知らない。ただなんとなく盛り上がっているだけのミーハーとも呼べない代物だ。だからこそ、ロシアのサッカーフィールドに立っていたのは「選手」というより「日本の代表」だった。

だから、あの「みっともない」戦い方は情けなかった。日本人の代表として何をしているのか、という怒りがあった。あそこまで無様な姿をさらすなら、いっそ決勝リーグに進まなくていいから、負けていいからすっきり攻めてくれ。こんな形での決勝トーナメント進出なぞ求めていない!

同時に「無様であってもブーイングにさらされても確実に決勝トーナメントに進みたい」という日本代表の痛ましいまでの決意も感じた。選手たちはあの10分間、人生で味わったことがない汚辱にまみれていただろう。決勝トーナメント進出決定後の選手たちの険しかった顔がそれを物語っていた。

フジテレビの中継が終わり、私はテレビを消した。そして麦茶を飲み干して一息つき、今見たものを咀嚼する。どう表現していいかわからない粘ついたなにかがこみあげてくる。それがサッカー云々のなにかではないことがすでに気がついていた。これは「戦争」の問題なのだ。

この試合を私はサッカーファンとしてではなく、戦時中に戦争に赴いた若い兵士たちの戦いっぷりを称える銃後の人たちの気持ちで見ていた。国際スポーツとは戦争と類似しているというが、少なくとも昨日の私のテレビを見る私には「愛国心」にあふれていたのだ。

私の好きな小説のひとつは「皇国の守護者」という仮想戦記ファンタジーだ。この本に徹底して流れているのは戦争のリアルズムとヒロイズムの否定である。その中に「死して無能な護国の鬼となるより 、生きて姑息な弱兵と誹られるほうが好みだ」という一節がある。

この「どんなみっともなくても生きていたほうが華々しく死ぬより良い」という思想は普段なら「そうだね!命は大事だね!」と諸手を上げて賛同する。しかし、あの10分間に私が願っていたのは全く逆の、「辱めを受けるべからず」の精神からくる散華だった。

普段はあまり意識しないが、やはり私はどうしようもなく日本人であり「愛国心」に不足しない人間なのだな、と自嘲したくなった。そして、この気持ちは特攻隊で若者の命を無駄に散らし、沖縄を犠牲にし、戦艦大和を乗組員ごと海に沈めた「狂気」と陸続きなものなのだ。

人を狂わす「愛国心」はこんなにも身近なのかと戦慄を覚えた。そして、この感情は私だけが感じたものではないだろう。そして、同時に日本人だけが感じているものでもないだろう。人の生死など縁遠いたかがサッカーの試合でこれだ。ましてや戦争が起きたら・・・。わたしは愛国者になるだろう。

そして、それに対抗するすべを、私は持ち得ない。とてもとても恐ろしい話だ。しかし、このことをサッカーで気づけてよかった。この先の日本で、愛国者になる機会はなんどもあるだろう。願わくば、それが戦争でないことを祈るばかりである。今回はこのくらいで。では。

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妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。