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障害者クラウドソーシングサービス「サニーバンク」に転職します。もしくは居場所がない人の悲哀について。

居場所がない

いつだって「居場所」がない。私は聴覚障害がある上にADHDだ。多弁で場をわきまえず話したがる。そのくせ聞こえないから人の話は全く聞いちゃいない。一方的に好き勝手話して適当に去っていく人間に好感を持ちたがる人は少ない。

また、私はどこからどうみても「清潔」ではありえない。しわくちゃのスーツを着ていて、よく梳かされてない髪に朝剃っても昼には青々とする髭。眉間に皺がよっていて人相はお世辞にもよろしくない。しかも、185cmの巨体を猫背にしてぬぼーっとしていて、なにかとブツブツ言っているオッサンだ。素直にいって、好意を抱き難い人物だと自認している。

自覚にしているならなんとかしろ、というご意見もっともだ。でも、リアルの場で好かれたいというモチベーションとADHDの自分が身だしなみをしっかりするエネルギーという計算をすると、「めんどくさい」というのが勝つ。しかし、めんどくさいといっていると居場所を失っていくのも事実だ。

リアルな場が一番間抜け

そもそも、リアルで人と会う、というのは私は向いていない。ネットでは意見をばんばんいうことができても、現実の場では聞こえない耳と吃音気味の口しか持ってない。必死に人の話を聞こうとして疲れるし、話すのだってつっかえつっかえで思うことの半分も話せない。すごくストレスがたまる。

しかも疲れてくるとADHDからくるソワソワや他動・衝動が強くなって態度も悪くなるし、衝動的にアレなことを口走ることも増える。全く度し難い。なので、最近はネットで仲のいい人ともリアルでは簡単に会わないことにしている。リアルの自分ほどみっともないのはいないからだ。

「場」というのはいつだって物理的だ。そして、障害者というのはたとえ発達障害であっても、物理的な制約が生じる。ネットでは感じなくていい不自由を存分に味わうのが「リアル」という場だ。人は「いい状態」の自分を見せたがるけど私にとっていい状態、とはPCに向かって一人キーボードをたたいている瞬間なのである。

ここにいる奴らとは違う

とはいえ、必要があってリアルの場、というところに出かけることはある。そのたびに「自分はここにいる奴らと違う・相容れない」という気分がわき上がる。聞こえないことへの劣等感、きっちり服を着こなせない恥ずかしさ、場に応じた話ができない悔しさ。

特に、お祭りはとても嫌いだ。ここで浮かれている「健康で健常な人たち」になれないんだ、という悲しさが際立つからだ。そして、こういう感情を外に出すこともできない。たんなる八つ当たりにしかならないし、それを表明したところで誰にどうにかできるものでもない、とこの35年間の人生で学んできたことだ。

職場がつらい

特に居場所がないのは職場だ。聴覚障害でADHDという問題を抱えている自分は、聞こえない上にいろんなケアレスミスを重ねる。自分ではどうにかしたいし、何とかがんばっても辛い割に成果は出ない。周りの人は優しくそれほど怒られることもないのだけども、羞恥心からどんどん消えたくなっていく。

その反面、ネットだけで完結する小金稼ぎは順調だ。ますます「リアル」に存在する、というだけでストレスを感じるようになってきて、今では立派な逆流性胃炎でいつも胸焼けと胃痛と嘔吐に悩まされている。もう「職場にいる」ということが苦痛であった。

そういうわけで「職場」にいることに限界を感じて、昨年はずっと在宅勤務の仕事を探していた。本を書いた実績やライティング能力は買われるのだけども、障害があるというと正社員(妻が転職にあたっての条件は社保完備なことだ)にするのは難しい、と断られ続けていた。差別、という気はないのだが、なかなか不条理を感じることは多かった。

転職します

そんな中、大変ありがたいことに障害者向けのクラウドソーシングサービス「サニーバンク」の運営に加わることになった。もちろん、ほぼ在宅勤務だし、問われるのはネットや文章で如何にサービスを成長させるか、ということだ(と思う)。

これまではある程度は「障害があるから」と甘えられていた面もあるんだけども、これからはハンデなしの実力でのガチンコ勝負になる、ということでもある。これはこれで辛いことも多いとは思うんだけども、「居場所がない」ということで胃を痛めることはなくなるはずだ。少なくとも納得した上で苦労を引き受けられそうだ。

障害者とは居場所を失う人

障害者とは「居場所を失いやすい人たち」でもある。そして、クラウドソーシングの可能性は「居場所」に限定されず仕事ができることだ。だから、障害者向けのクラウドソーシングサービスは私にとってはこの上ないベストマッチングで、将来性しかない、と本気で思っている。

実際、何人もの障害のある方と話したけど、通勤できない、外に出るのが難しい、生活リズムが安定しない・・・、だけど仕事はしたい、という人は大勢いた。そういう方々に是非サニーバンクを利用してもらいたいし、安定して仕事がある状態にできるように整備していきたい。

仕事という役割

もちろん、能力の問題もあれば、体調が安定しなくて納期が・・・という人もいる。そういう方にはサポートが必要だ。このあたりも考えていかなきゃいけないし、どうやっても普通の人と同じ額を稼ぐのは難しいかもしれない。

それでも「仕事」という「役割」があるとないでは人生の意味が大きく違ってくるだろう。だから、サニーバンクの仕事はある意味、障害のある方々の「居場所」ではなくて「役割」を作る仕事なのだろう。

「居場所」はリアルな制限があるけども、「役割」とはそこまで明確でもない。これまでの社会はどうしても「その場にいること」(居場所)と「役割」が密接していたけども、ネット時代ではこの二つをある程度分離できるはずだ。そして、その分離の先にこそ「多様性のある働き方」があるはずだ。「居場所」から「役割」へ。それがこの先の私の仕事の大きな「役割」になるかもしれない。

まぁ、居場所はあるんですけど

最後に。これだけ書いていてなんだが、私には居場所というものが一つだけある。妻のあおがいる自宅だ。あおもまた障害があってなかなか生きることが難しいが、私にとってはとても安心できる相手だ。

また、あおを助けることが私の人生の大きな「役割」になっているし、同時に私も大いに助けられている。普通の場所には居場所がないかもしれないけれども、小さな家の中でお互いの「役割」を感じながら生きていられる「居場所」があるのはとても幸せなことなのだろう。

居場所と役割のスパイラル

「居場所」をなくしても、「役割」があれば生きていける。「役割」があれば、普通ではないけども自分だけの「居場所」もできるかもしれない。そして、その「居場所」からまた新たな「役割」が生まれるかもしれない。そういうスパイラルを生み出せれば人間は自ずと生きていく意欲を取り戻せる。

サニーバンクがそのスパイラルの口火になる場にしていきたいなぁ、と夢想しつつ、この文を終える。

なお、この文は社長に見せていないので何か言われたら恥ずかしいので消すかもしれない。てへっ。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。