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人生ロスタイムと「言葉を紡ぐこと」について

信じられない…もしくは信じたくないのだけども、今、私は35歳である。

35年前はまだ「携帯電話」というものすらなかった。(ショルダーフォンの販売は34年前)。あのウィンドウズ95が販売されたのが小学5年の時だ。キーボードがないと長文が打てない人間だ。

まぁ、世の中の大半は実は私より年上だし、ネットで絡む人も年上の人が多く、いつまでも若いつもりでいたんだけど、ここのところ、白髪は増える、ヒゲがごま塩になる、筋トレをすると3日後に筋肉痛が来る、濃いラーメンを食べると腹を壊す、という衰えは確実に来ている。

そして、最近、またいろんな知り合いが出来てきてるんだけども、その大半が年下だ。老化が急速に進行して老眼気味になっている私とは比べ物にないほどスマホを使いこなせる健康な方々だ。そんな若い人たちに混じってなにかしてるオヂサンはまぁ言うな。言いたいことはわかる。

まぁ、なんだ。こう若い人に混じっていろいろさせてもらえるのは本当に嬉しいことだけども、同時に「そろそろ次の世代に渡せるものを準備しないとな」と本気で思うようになってきた。

私たち夫婦はやはり障害が重いのもあって子供を作ることは無理だ。妻は今33歳なんだけども「30過ぎて生きてるとは思わなかった」というし、私も35歳まで生きていられるとは正直思えなかった時期もある。アル中一歩直前まで行ったし毎日のように電車に飛び込もうと思ったこともある。だから、私達にとってもう人生はロスタイムみたいなもんだ。

なんやかんや言ってもメンタルに関する薬や睡眠導入剤などを多数飲んでいる私達がそれほど長生きできると思わないし、妻に至っては寒いくらいにエアコンが効いていない部屋から出ると頭痛がするくらいにてんかんの症状が重くなっている。

精神障害者の平均寿命は60歳前後と言われるし、海外の調査では発達障害、とりわけ妻のような高機能自閉症の場合は35歳以下で死ぬ人が多いというデータがある。そういう意味で、私達はもうロスタイムだと感じている。

明日明後日に死ぬ、ということはないだろうけども、今を生きる「体力」は将来の「時間」をガリガリ削ってなんとか維持できているものだ。できれば親の葬式を終えて、妻を看取ってから死にたいとは思っているけど、それ以上の寿命は望んじゃいない。

もちろん、積極的に死にたい、とは全く思ってはいない。むしろ、世の中に生まれてきた意味、ってのを探しているし、それを果たしてから逝きたい。だから、若い方々に伝えられるものを私自身が作り上げていきたいのだ。

では、私が伝えられるものってなんだろう、といえば、書くことくらいだ。どうすれば書くことができるか、というのは結構難しいらしく、若い方々に必要なライティングをして渡すとかなり喜ばれる。

書くという行為は、とても人間的な営みだと信じている。人間とはもはや純度の高い情報体と言っても過言ではない存在だから、言葉も使えば使うほど人間として純度が上がっていくはずだ。(人によっては絵だったり数字だったりするだろうけど)

なので、言葉が苦手という人に、言葉をどう紡げば良いのかを伝える手助けみたいなことができればいいな、と思っている。文章講座、みたいなもんでなくて、語ることに中に自然に紛れ込ませて。だから、私はもっと若い人たちと話していきたいな、と思うのだ。

元ちとせの「語り継ぐこと」という歌の中に、「語り継いで 伝えていくゆくこと」という言葉がある。私はこの言葉がたまらなく好きだ。伝えていくこととは生きること、生きた証を手渡すこと。

私の言葉だって、ちょっと年上の無数の誰かが教えてくれたものだ。それをちょっとだけ何かを付け加えて、年下の方々にそっと流す。それがつながって、この世界は編まれていく。だから、私は言葉を紡ぎ、言葉を産む方法を誰かに手渡していきたい。

まぁ、私自身がまだまだ未熟だし、出来ないことも多いけども。もっともっと、自分の言葉で自分の輪郭を固めて。もっともっと、他の人達の輪郭を作っていく。そしてその輪郭のきらめきを残して去っていく、そういう生き方をしたいと思うのだ。

まぁ、そのためには、いま多数ある仕事を終わらそう。言葉を使う仕事を終わらして、次の言葉へ向かうのだ。生きていこう。伝えていこう。言葉の船を編んでいこう。この世界に、糸を一つ作り出して。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。