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くらげ×寺島ヒロ 発達障害あるある対談 第105回 「身内の葬儀から考える『自分はここにいていいんだろうか?』ってことがわからないよ!」ってお話

〔く〕 こんばんは。くらげです。

〔寺〕 こんばんは。寺島です。今回はずいぶん早い招集ですね。

〔く〕 昏睡状態が続いていた祖母が永眠いたしまして、これから葬儀のために帰省するんですね。その前にささっと済ませておこうと思いまして。

〔寺〕 え、それはご愁傷様です。ご身内の葬儀は何かと大変ですが、出不精のくらげさんにとっては葬儀に行くだけでも一仕事ですね。頑張ってくださいね。

〔く〕 喪主は母の実家なので、実家としてはそれほど負担があるわけではないのですが、それでも身内が亡くなるのは大事ですからね・・・。

〔寺〕 あおさんも葬儀に行くのですか?

〔く〕 数日の泊まりになりますし、体力的・精神的に難しかろう、ということで自分だけです。こういうとき、身内が障害に理解があると助かります。

〔寺〕 そうですね、「ヨメなんだから来るべき」みたいなのは、もう良いかなという雰囲気でもありますよね。

〔く〕 しかし、葬儀というのはよくわからないしきたりやルールがあってそれに適応するのがちょっと苦しいことがありますねぇ。

〔寺〕 セレモニーとはそういうものですから(笑)

〔く〕 まぁ、そのあたりは「セレモニーとはそういうものだ」と納得せざるを得ないんですが、問題はほぼ見知らぬ親戚と過ごす時間をどう耐えるか、というのが・・・。

〔寺〕 くらげさん、人見知りというわけではないですよね。

〔く〕 人見知りではないんですが、なんかこう、「葬儀の中のプロトコル」としての親戚つきあいってどんな言動が望ましいのか、と考えるとフリーズしてしまいます。

〔寺〕 発達障害者はプロトコルを考えすぎて逆にしんどくなる人が多い気がします。「気持ち」で理解しにくいから頭を使って考えなければいけないんですが、それで気疲れするという部分がありますよね。気というか脳疲労?

〔く〕 そうなんですよね。もちろん、祖母が亡くなって悲しくないわけでもないし、冥福を祈る気持ちも当然あるのですが、それが「葬儀」という中でどう振る舞うか、という問題に組み込まれるととたん難しくなる。

〔寺〕 でも、それは「普通の人」でもそうですよ。よくドラマとかで葬儀が終わった後に泣くって描写があるじゃないですか。あれ、葬儀中は行儀よく振る舞わねばという意識が勝っていて、フッとそれが切れた時に悲しさが襲って来るという表現だと思うんですが、それだけ手順をこなさねばならぬという強制力が強いという事だと思います。

〔く〕 そうなると葬儀って何のためにあるんでしょうね?

〔寺〕 コミュニティの方に「いなくなりました」という事を告示するためですよね。今のような「お葬式」が行われる理由としては、よくなされる説明ですと亡くなった方の身内が忙しく働くことで心を落ち着ける時間を稼ぐためとか。

〔く〕 まぁ、我々が考えると「ご冥福を祈るため」という非常に根本的な話が出てこないこと甚だしい(笑)

〔寺〕 ご冥福を祈るだけならどこでもできますから(笑)プロトコルといえば、知り合いや職場の人が「どこかにいく/何かをする」という空気になったときって、どうすればいいかわからなくないですか?

〔く〕 それ、親戚の集まりでもよくわからんやつだ。

〔寺〕 こういう面倒な案件になると、私は判で押したように「私は一人でやることがあるので一緒に行かないです」とその場で言ってしまうのですが、社会性の無いことを自覚した上での防衛策として「私は絵を描く人」というキャラを使っていたのだなと気づいたのです。最近。

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妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。