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考えない日本の私 — さとり世代として

「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」

この有名な一節を村上龍が『希望の国のエクソダス』に書いたのは2000年のことですが、それから18年を経て、日本からは希望だけでなく「いろいろなもの」すらも失われてきているように感じられます。

それは主には経済の停滞が原因なのでしょう。もはや日本はGDP世界第2位の経済大国ではないですし、一人当たりGDPに至っては、2000年にルクセンブルクに次いで世界第2位だった日本は、2017年には25位まで転落しています。

かつてその技術と先進性で世界を席巻したエレクトロニクスの大企業は概ね輝きを失い、ルックイースト政策や『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の時代は遠い昔、今やどこが日本を見倣おうとするでしょうか?

しかし、この国の根本的な課題は、経済の停滞ではない、と思うのです。経済の停滞は、おそらく、日本が元々孕んでいた課題のひとつの現れに過ぎません。この国の根本的な課題は、日本人の思考停止です。

思考停止と全体主義

「和を以て貴しと為す」というのは非常に美しい言葉ですが、近代の日本人はこれを曲解して、「全体の調和のためなら個人は犠牲になっても良い」という意味に捉えています。

「全体」のために犠牲になる個人、というとまるで戦時中のようですが、結局のところ、日本は今でも戦時中の全体主義を引きずっているような側面があるように見えます。戦時中には「国体国家」が「全体」だったのが、現代では会社、学校、クラス、町内会、家庭、といった様々な組織に「全体」が変化しているだけです。あるいは、「世間」という漠然とした集合が「全体」になることもあります。

先ほど、「日本は今でも戦時中の全体主義を引きずっている」と書きましたが、正確には、「日本人は本質的に全体主義と相性が良い」のだと思います。

日本の教育課程では、理系科目を別にすれば、「論理」をほとんど扱いません。理系科目にしたところで、問いに「論理的に答える」手法を扱うだけで、「何かを論理的に考える」または「何かを論理的に主張する」といった手法は扱いません。

「どうしてこのような状況に陥ったのか」については、知識がないので議論することができませんが、現状の問題として、日本人は論理的な思考や主張の手法を(少なくとも中等教育まででは)あまり身に付けることができない、という事実があります。今これを書いている私も、ここまで読んでくださっている方には申し訳ないことですが、十分に論理的な文章を書けている自信がありません。

そのような、考える手法を知らず、そのために考えることをしない日本人は、「何も自分では考えなくて良い」全体主義ととても相性が良いように思うのです。

答えのない課題

全体主義は、目標と、そこに至る道のりがはっきりとしている時には機能するように思われます。明治維新以降、日本には常に目標がありました。それは例えばいち早く西欧に倣って近代化を達成することであり、国体を護持し領土を拡張することであり、焼け野原から復興することでした。

しかし、日本はここに来て、はっきりとした目標と道のりを失ってしまったのです。日本が掲げた目標は、どこかでは既に達成されていたか、あるいは達成の手法が外部から指示されたものだけでした。目標と、道のりがはっきりしていたわけです。

日本が「課題先進国」と形容されるようになったのはここ10年くらいのことかと思いますが、「課題先進国」となった日本は、課題を解決するといった目標は仮にあるにしても、それを達成する道のりを人類のまだ誰も発見できていない、という状態に陥ったのです。こういった局面で、考えない日本は非常に弱いと感じます。

思考停止と諦観

私は1998年に生まれました。1990年代に生まれた若者は「欲がない」ということで「さとり世代」と呼ばれることが多いようです。

しかし、私はさとり世代の本質は、「欲がない」ことではないように思います。私たちの世代だって、お金があったら遊びにも行くだろうし洋服も買うだろうし、少なくとも「消費生活」という面では、特段欲がない訳ではないと思います。見た目上の欲のなさは、世代の特徴というよりは、経済的な理由によるものです。

むしろ、さとり世代の特徴は、「最初からいろいろなことを受容して、諦めている」という部分にあるのではないかと思います。例えばまず私たちは「お金がないこと」を「そういうものだ」とただ受け入れているのです。だって生まれた時からほとんど常に日本経済は好転しないですから。

あるいは、校内暴力や学生運動といったムーブメントが再び起こらないのも、いろいろなものを「諦めて」いるからです。「学校はこういうものだ」とか「社会はこういうものだ」という風にただ受け入れて、不満があってもそれを変化させる方向にはエネルギーを使わず、受容し、諦めることにエネルギーを使っているのです。まさしく、ある意味で悟っているのです。

こうしたさとり世代の特徴は、「考えない日本」の極致のようなものだと思います。私たちは考え方を知らず、考えることをしない社会に生まれて育っています。何かを変えるためには、自分の頭で物事を考えなければいけないし、その能力は私たちにはない。ついでに言えば、何かを考えないと明日食べるものがないわけでもない。

成熟した先進国にあって、考えない私たちは、物事を「そうである」ものとして受け入れる外ない、ただ漫然と毎日を過ごす満足した豚です。

日本の本当の絶望

日本の本当の絶望は、少子高齢化とか人口減少とか経済の低迷などではありません。

本当の絶望は、誰も、そういった課題を解決する道のりを立てられず、仮に物事を考えられる誰かによって策が立てられたとしても、その実行を決断できる頭脳がないことです。

私は、このことに思い至る度に、すごく嫌な気持ちになるのですが、それと同時に「まあ日本の将来なんてこんなもんだろう」と諦めている自分も存在し、そしてカラオケにでも行ってこんなことはすぐに忘れてしまうのです。

(写真はChris 73[Wikimedia Commons]による)

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