日暮れの校舎で会えたなら(1/n)

 秋の日は釣瓶落としって言うだろう。今日はまさにそれだった。まだ7月なのにさ。絶対時計は11月になっていた。11月7日午後4時24分。まったく嫌になりそうだ、これで今週三度目のジャンプだった。教室にはぼくら4人を除いて誰も残っていなくて、空は赤々と燃えている。あと三十分ほどで近所の小学校から新世界よりが流れ始めるだろう。ぼくはその時の様子を想像してみた。物哀しい雰囲気、ってやつだ。
「ははん、夏休みが全部すっ飛ばされたってわけだな」
 入出梨子はそう言って笑った。この狭い教室で、笑ってたのは彼女だけだ。いつもそうだった。この人は何かにつけて諧謔たっぷりの調子で笑うんだけど、しかし実を言うと概ねの人間に対しては平身低頭を貫いている。ただ、僕らに対してだけは、世界の何もかもを知ってる大隠者みたいに振る舞うってだけだ。根は小心者とみんな知っている。本人も含めて。
 それとこれはジャンプの影響だろう、肩を通り越すくらいあった黒髪がばっさり切られていて、少しだけ清潔感が増していた。けして彼女に恋心を抱くつもりはないけれど、それでも悲しい男のサガが言うには、そっちの方が少しばかり魅力的だと思えた。とはいえ女性的魅力なんてのは梨子の前では裸足で逃げ出すというものなんだ。顔はいいけど、顔がいいってだけで、たぶん彼女は自分のことを女だなんて思ってはいないんだろう。もちろん男だとも思っていないはずだ。だから彼女とか彼なんて呼び方も本当は不適切なんだろう、だから「この人」なんて呼ぶべきなんだ、本当は。そして僕も、少なくとも他の二人と同様にこの人のことは単に入出梨子として見ているにすぎない。
 そんなごちゃごちゃは隠して髪についてだけ尋ねると
「暑かったからちょうど切ろうと思ってたのさ。都合がいいよ、むしろ」
 なんて適当なことを言っていた。これから冬の寒さだってのに何が都合のいいものだろうか。僕のことはよそにしてまた彼女は笑った。しかしけして大きな声をたてて笑ったりはしない。リップクリームだけ塗った唇の端の方を少しだけ引き上げて、半ば引き攣るようにやる。ちょっぴり麻痺してるみたいにだ。もしこの人に、哀れなるかな男性的恋心を抱いてしまった不幸な者が居たとして、あの笑い方をみたら素敵にインスタントな失恋の気分を味わえるかもしれない。とはいえ自信はないな。恋なんてしてると、相手が飲みかけの空き缶を緑地に捨てるとこなんて目撃したって都合よく解釈するものだから。
 梨子のことは放っておいて、僕は、自分の椅子の背にかけてあったコート、僕らの高校は私服通学なんだ、黒いコートを見つけるとポケットの中をまさぐってみた。手袋の他には何も見つからなかったが、手袋もなかった時のことを考えれば少し得した気分にもなる。僕は基本的にマメな方ではないから、ジャンプの度に自分の準備不足で酷い目にあうんだ。酷い時には、名前さえ聞いたことのないような田舎駅に居るとこにジャンプして、しかも持ち金が300円しかなかったんだもの。おまけに携帯の電池は切れていて、頭上では三日月が笑っていた。ジャンプする直前までは冬だったから、だしぬけの蒸し暑さと蝉の声にも驚いた。たぶん傷心旅行かなにかだったんだろう。いや、普通の人はジャンプのために記録帳を持ち歩くんだろうけど、どうしてもめんどくさくてやってないものだから、もちろんその時にも無かったさ。そもそも記録帳をこまめにつけたってジャンプ先でも持ってるかなんてわからないんだし、やるだけ無駄な気がいつもしてしまう。なんにせよそんな状況、あんなのは傷心旅行より他に考えられないだろう。とはいえジャンプ直前の周囲には誰もいなかったから、もしも電話が使えれば梨子や誰かに事情を聞くこともできたかもしれない。けれど残念なのかどうなのか、途方にくれている間にまたジャンプがあって、結局わからずじまいに終わってしまった。で、とにかくそれくらい僕はものぐさなんだというだけだ。自分のことになると途端に何も責任を果たせなくなるたちらしい。
「一緒にすっ跳んできたのは僕と、梨子、あと誰?」
 その場にはあと二人いた。けれど必ずしも二人が一緒にジャンプに巻き込まれたということはない。僕らは例の盟約を交わしていたから、いつだって同じ場所にいるとは限らないんだ。だから、たまたま放課後の教室に集まって駄弁っていたところに僕と梨子だけがジャンプしてきたという事もありえる。
「ねえ、どう?」
 寒咲はぼけっと本を読んでいた。いつものように。ジャンプ前に彼女の読んでいたのと同じものを。それはなにも亀のような遅読ということじゃなく、あれが彼女の絶対時計なんだ。いつも同じ本を読んでいて、読み終えるとまた頭から読み返す。ジャンプがあれば、当然しおりの挟まったページがずれているだろうから、そこからジャンプの具合を判断するってわけらしい。でもそんなんじゃ今よりも前に飛んだのか後にぶっ飛ばされたのかわからんだろうと思うけど、彼女にとってはそれで構いはしないようだ。寒咲希という人にとっては、どこの誰が決めたとも知らない絶対時間の尺度よりも、愛読書の今どのあたりを読んでいるのかってことの方が信用できるのさ。変わってはいるけれど、べつにそんなに珍しいことじゃない。絶対時計さえ信じられないといってオリジナルの尺度を決めている人は自分で言い出さないだけで結構あるって話も聞く。この間も有名な芸能人が話していた。なんでもその人は、自室に一日おきで銀貨を積み上げているらしい。その量の多寡でジャンプの具合を測るんだそうだ。たしかに絶対時計ってのも時に信じられない気分になることはある。ただ僕の場合、自分自身の方が信用ならないものだからどうしようもない。絶対時計を信じるほうがましってだけなんだ。
 窓の側で夕焼けを眺めているのは藤原だ。藤原礼智。髪が梨子のと入れ替わったみたいに長くなっている。あいつ何があったんだろう? 
「レイジ、どうなんだよ」
「どうもこうも、跳ぶ前に一緒にいただろ。だから同じように跳ばされてきたし、希もそうだぜ。それとも緒川だけ別のとこからジャンプしてきたのかもしれないな?」
 人を馬鹿にしたような言い方だが、あいつは僕よりも身長が20センチも低いのだから、言わせたい放題言わせておくのがいい。つまり劣等感からよく僕に対して噛み付いてくるということを知っていれば、あの乱暴な口ぶりも全部が哀れに思えてくるのだから。とはいえそういう自分はあまり好きではないのだけど、嫌だと思う前にすっかり考え終えてしまうから手のうちようがない。
「跳ぶ前、たぶん僕は寝てたんじゃないか」
「ああ、知ってるよ。いつだってお前が寝てない授業なんてないじゃないか」
 そんなことはない、社会科の授業は起きている。あの授業は教室の移動があるのだけど、それで普段は一緒じゃない七瀬さんが横に来るから眠ることなんてとてもできそうにないんだ。彼女はいつだって学年のアイドルだから、僕じゃなくてもそうするだろう。とはいえ1学年に2クラス、15人ずつしかいないのだけど。
「どうせ起きていようがジャンプのせいで身につきはしないんだ。よく皆は正気で聞いていられると……」
「まあまあ、せっかく放課後を引き当てたんだからうだうだしてんのは辞めにしようじゃないか。レイジ、今日はどんな日だっけ?」
 僕の発言に割り込むようなことをするのは梨子しかいない。この人は、人の話を最後まで聞くなんてことは意地でもやらないのだから。それは急いでいるからするんじゃなくて、本当にただ話を遮りたいだけでやってるんだ。普段は自分の発言力なんてピラミッドの最底辺みたいな環境にいるから後輩を相手に発散しているんだろう、鬱憤を。まあ後輩といっても学年は同じで、ただ一年長くいるというだけにすぎない。本人は教員と喧嘩になって打ち負かしてしまったから留年になったと語るけど、実際のところは結核でほとんど授業に出られなかっただけだ。そんなことはみんな知ってるのに嘘をつくのが梨子という人で、教員と喧嘩だなんてしょうもないことに魅力を感じてそう言ってしまうのもあの人のあの人たる所以の一つだった。
「さあねえ。11月7日か。こんな祝日でもない端数の日なんておぼえてないっすよ。俺じゃなくたって誰もおぼえちゃいないですって」
「うん、じゃあ、希は?」
 水を向けられて、寒咲が本から目を上げた。古典的な仕草でずれ落ちた眼鏡の位置を直す。彼女は、分類上は女子高校生科文学少女目になるのだが、その頭はいつだって金に近い栗色に染められていて、右耳にはシルバーのピアスが煌めいている。本のタイトルは、いつもブックカバーがかけてあって誰も見たことがない。
 それで、彼女は二回か三回うなずくと、やっぱりもう一回うなずいた。たぶん自分の記憶を確認してるのだろう。
「このページと、この夕暮れの放課後。覚えてるよ。梨子が商店街の福引に3千円を投資して大量のポケットティッシュを抱えて変えることになった日だ」
 どちらかと言えば、彼女の口調は断言する感じだった。ただ、僕らはちょっと「あー」といった反応を隠しきれなかったことは間違いない。「記憶違い」ってやつは誰にでも起こりうるものだし、そんなことをいちいち責め立てるような奴はいない。いたとして、相当に無茶苦茶なジャンプの後で苛立っていたとか、そんなところだと思う。ただいささか彼女の自信有り気な雰囲気で期待してしまったんだと思う。だから「今日は何の日だっけ」なんてことは聞くべきではないんだ、本当は。でも梨子はそういうことは憚らない人間だから。
 そうした僕らの反応を、なによりも敏感に感じ取ったのは寒咲本人だったことだろう。いくらこの四人には盟約があるといっても、普通なら一番感じたくないと願う最悪な体験の一つだ。誰だって経験がある、だからこそそのばつのわるさってものがよくわかる。「記憶違い」は本当に残酷だ。すくっと立てていた大地が音を立てて崩れようとする感覚、とでも言うのか。本当に、そんなことが起こらないよう に僕らは盟約を結んでいるのだけど、梨子の無責任さは酷いものだ。
 それで、僕らは寒咲が本を閉じるのを実に久しぶりに目にした。記憶の中では、久しぶりだ。ぎょっとした視線。無理もない。ある意味で、盟約のためにずっと隠されていた感覚なんだから。
「その、希、あまり気にしないほうがいい。私は私だ、それは変わらない」
 どの口が言うのか、元凶が喚いているが僕らは無視を決め込んだ。本当に存在を黙殺しようというんじゃないが、この人は調子に乗るとすぐこんな様になるので、時には厳しい対処も必要なんだ。

 ちょっと気まずい時間が流れて、不意に壊れた。11月7日午後5時ぴたり。もう外は夕暮れ時というんでもなさそうだ。近所の小学校が流す新世界よりが不似合いな穏やかさをもたらす。少し、肌寒いな。
「あんまり綺麗な夕暮れ時だったから、なにか大切な日だったような気がしたんだよ。忘れちゃいけない日だった気がした。夕焼けのあの赤色っていうのはそういう魔力があるんだな。すまない、希、本当に」
 だしぬけにまた梨子が言った。寒咲のため息。ここは手打ちということらしい。僕にできることはなにもない。精々、また梨子が不用意なことを言った時に先じて止めるようにするくらい。一方でこういう時にレイジはうまいもので、わざとらしい明るい声と共に立ち上がった。がたんたたんと椅子と机の踊る音。
「じゃ、ぶらぶらしに行きますか!」
 総員、異議なし。次のジャンプに呑まれる前に。僕らはまだまだ今日を生きていたいのだから。

(続く)


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