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慶應大学講義『都市型ポップス概論』③④ 【フォーク・ソングと日本語】 (こたにな々)

●文学部 久保田万太郎記念講座【現代芸術 Ⅰ】

『都市型ポップス概論』 第三・四回目

----------------2018.04.27/05.02 慶應義塾大学 三田キャンパス

講師:藤井丈司 (音楽プロデューサー) ・ 牧村憲一 (音楽プロデューサー)


”1968・69年” この2年が70年代にどう影響を与えたか
—明るかった60年代が後半にどう様変わりしたか—

60年代半ばアメリカがベトナム戦争に本格的に介入した。

1950年代〜60年代

日本の米軍基地内ではジャズ・ハワイアン・カントリーや、ルンバ・マンボなどが演奏されており、アメリカからのミュージシャンに加え日本人のミュージシャンが雇われていた。米軍基地が縮小されるとそこで働いていた日本人の音楽家の仕事もなくなり、クラブ・ジャズ喫茶などに転出。開設されたTVで人気を得るミュージシャンも出た。

●日本テレビで始まった『シャボン玉ホリデー』で演奏する ハナ肇とクレイジーキャッツ。歌はザ・ピーナッツ。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=QMQnvIg9UJQ

バンドの中心はそれまでの管楽器からボーカルへと移り、ギターはリズム楽器という役割だった。

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参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=xkDc5pCBG00

王貞治出演の『リポビタンD』や前田美波里出演の資生堂CM、「Oh!モーレツ!」というキャッチコピーが印象的な丸善ガソリンのCMなど、1950年〜60年代の物価の確認と共に白黒の懐かしのCM集を流す中で、ひとつのキーになるCMが流された。

”モーレツからビューティフルへ”

1970年 富士ゼロックスのCMで一人の男性が ”BEAUTIFUL" というコピーを持ってカメラに向かって歩いてくる。そして最後に ”モーレツからビューティフルへ” というキャッチが入る目を引きつけるCM。

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=wzeThjaZFcI

この主張する男性は団塊のひとつ前の世代であり、フォーク・クルセダーズのメンバーでもあった加藤和彦である(1947年生まれ)。ビューティフルはヒッピー文化のスローガンであった。ヒッピー文化は1960年代にサンフランシスコで生まれ、既成の価値観を否定し自然回帰を唱えた。スティーブ・ジョブズもまたヒッピーであろうとしていた。

●特に団塊の前の世代はアメリカの音楽の影響を絶大に受けており、フォーク・ソングを日本に広め、フォークは新しい時代を切り開く音楽となる●

加藤和彦の他には、フォークの神様と呼ばれた岡林信康、フォークのプリンスと呼ばれた吉田拓郎が団塊前のその世代にあたる。

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アメリカのフォーク・リバイバルの影響

フォーク・ソングとは民謡や民族音楽など、伝承されてきたものを基盤にした音楽であり、60年代アメリカで起こったムーブメントはそれまで埋もれていたフォーク・ソングを発掘しようという、フォークソング・リバイバル運動だった。

キングストン・トリオ、PP&M、ジョン・バエズボブ・ディランなどの登場がアメリカの同世代達に火をつけ、日本も大きくその影響を受けた。

-ボブ・ディランとは何者か?

アメリカ音楽の伝統を継承。新たに詩的表現を生み出したとして、2016年にはノーベル文学賞も受賞している。

『subterranean homesick blues』 参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=MGxjIBEZvx0

しかしディランがニューポート・フォーク・フェスティバルでエレキギターを持った時には、会場からブーイングが起こったようにフォークとロックの間にはまだ深い川があった。

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東京と関西でのフォークの受け取り方の違い

東京ではキャンパスを舞台に ”カレッジ・フォーク” が台頭し、森山良子は和製ジョン・バエズと呼ばれ人気を得ており、ザ・ブロードサイド・フォーが『若者たち』をヒットさせていた。

関西では ”プロテスト・ソング” ボブ・ディランの影響が強く、自分で書き自分で歌う ”自作自演” にこだわり、高石友也、岡林信康に代表されるメッセージ性の強い社会的な歌を歌うミュージシャンが多かった。

●1968年『山谷ブルース』岡林信康 この曲は日雇い労働者の訴えを歌う

参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=2AMZVkzVryg

-フォーク・ソングの受け取り方の違いのひとつの要因としては、 ”米軍基地の存在” と在日米軍向けのラジオ 『FEN』 が流れる環境で ”あるか” ”ないか”というのがある。

当時、アメリカからの輸入盤レコードが入ってくるのは通常3ヶ月後。しかし基地にはすぐに入って来た。また、基地にいる軍人が要らなくなったレコードは銀座ハンターなど中古レコード屋へと売られた。『FEN』が聴けたのは米軍基地のある100km圏内であり、ラジオが聴けた者の中にはレコードを探しに行き、そしてコピーした。/米軍基地の存在しない関西圏では時間的に情報格差があり、遅れて楽曲が入ってくる分、その楽曲を分析し意味を考える役割の者が生まれ、受容の仕方に時間差による大きな違いがあった。

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初めは皆コピーしていた。 やがて日本語によるオリジナル曲作りに向かうー。

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オリジナル・フォーク・ソング作りの過程で

”作曲家・山田耕筰論” にぶち当たる。


童謡「赤とんぼ」をはじめ、数多くの楽曲を残し、日本初の管弦楽団をつくるなど日本において西洋音楽の普及に努めた 作曲家・山田耕筰

-彼には日本語詞での作曲をする際に決められたルールがあった。

基本的には日本の歌がアクセントに関して無関心であることを指摘、言葉と音の高低の一致を主張した。

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”歌を意訳してでも方法論を受け継ごう” という者と "精神は受け継いで変えてでも伝えよう”という者に分かれた。

日本語詞を作る際に ”詩人” を迎えようともしたが ”作詞” と ”作詩” の方法論は全く異なった為、困難をきたした。言葉の自由と音楽の自由では表現が違ったのだ。

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詩とフォーク・ソング

松岡正剛 (1944年生まれ) 

編集者。早稲田大学文学部 早稲田大学新聞会出身。父親の多額の借金により、大学を中退後、仕事を始める。高校生向けのタブロイド版フリーペーパー『ハイスクール・ジャーナル』を発行していた時期に編集活動を通じ、稲垣足穂・土方巽・寺山修司・唐十郎・横尾忠則・宇野亜喜良・谷川俊太郎をはじめ、クリエイティブな人々と親交を深めた。

フォーク・シンガー小室等に作詞家ではなく、詩人を紹介するなどしたキーパーソンでもある。二十代に大失恋した事をきっかけに松岡正剛自身が歌を制作、小室等に聴かせた事で、歌を気に入った小室等が歌い楽曲化もされている。

『比叡おろし』作詩・作曲:松岡正剛 編曲:冨田勲 歌:小室等

参照リンク(音源のみ):https://www.youtube.com/watch?v=4MmXxWhHuYk

その他、小室等は谷川俊太郎の現代詩にも曲を付けている。

●『あげます』作詩・谷川俊太郎 作曲:小室等 歌:小室等 ●

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『あげます』の唇から... 唇の動かし方

フランス・ヌーベルバーク界の巨匠 ジャン=リュック・ゴダールの監督作品より、オムニバス映画『愛すべき女・女たち』内での作品『未来展望』(1967年)

ゴダールが唇をテーマに作ったもので、劇中のヒロインであるアンドロイドの娼婦は美しい容姿を持つが朗読しか出来ない。そんな中、主人公の男と唇を動かし合わせる=キスをする事で、真実の愛をアンドロイドが知っていく

劇中では、それまで淡々と言葉を話していたアンドロイドが、男と唇を合わせるする瞬間だけハッとモノクロからカラーへと移る手法がなされている。この作品からは人々は言葉と生き方を分離出来ずにいるという事が分かる。

これまでのフォーク・ソングと繋げていうなら、米国から入ってくる音楽の模倣ではオリジナルを目指した質の高いフォーク・ソングは楽曲として完成せず、日本語詩を音に乗せる方法の模作が始まった。

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日本語詩の成功

山田耕筰の作曲法に縛られず、新しい手法で作曲を試みたのが、 松本隆というドラマー兼 ”詩人” が在籍するバンド『はっぴいえんど』であった。

松本隆の著書からは、「初めての仕事は日本語はリズムに乗らないという定説を覆す事だった」「かなりテクニカルな問題だった」という事と、

「何を歌うかではなく、どうやって歌うかが僕らの指向だった」という答えにも似た明確な方向性が記されていた。

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●おわりに●

世界の60年代の特徴 ”父を超える子どもたち”

 "戦争を知らない世代”

フォーク、ロック、ヒッピー・ムーブメント、学生運動、ヌーベルバーグ、演劇、現代詩...これらの発展の背景には  ”若者達が揃って新しいものをつくる”という時代が60年代に初めて訪れるという、自分達の世代が背負っているものを世の中へ発信する代弁者にならなければいけないという思いが生み出したものであった。

そして次週からついに70年代へと。

次回へ!!!!!https://note.mu/kurashi_no_nana/n/nf8f1667593c8

本文章は牧村さん及び藤井さんの許可と添削を経て掲載させて頂いています

●あとがき●

お読み頂きありがとうございました。前回からの米軍基地と日本の音楽の発展から続く、日本語詞という言葉を音に乗せる難しさと、はっぴぃえんどが何故ここまで凄いと語られるかの所以をあらためて知る事が出来ました。松本隆というリズムと日本語詞を操る詩人と、後の日本の音楽のこれからにも関わる大瀧詠一・細野晴臣、そしてめちゃくちゃ上手いギターリスト鈴木茂が揃ったスーパーグループが60年代の終わりに出現するなんて、なんだか出来すぎてると感じる程でした。この興奮は70年代へと続きます!

それにしても、ゴダールの映画を絡めてくる講義最高でした!さすがです!

文:暮らしのなな (ライター) 兵庫県出身・東京都在住  https://twitter.com/HiPlease7

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