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宇野亜喜良は、時代が作った。(文:こたにな々)


デザインのひきだし  Presents

「アノニマスデザイン史・第九夜 / デザインの迂回路」

ゲスト:宇野亜喜良 × 佐藤亜沙美

ホスト:佐藤直樹・上條桂子 声の出演:宇川直宏

DOMMUNE ---------------- 2017.10.30 19:00-21:00 

—1950年代、デザインをし始めた頃は周りに
「君のデザインはセンチメンタルだ」
「それでは日本は変わらないよ」と言われていた。(宇野亜喜良)

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—印刷で何ができるか。

◆1960年に入社した「日本デザインセンター」時代にアルバイトとして、婦人雑誌『新婦人』の表紙デザインを宇野亜喜良がカメラマンと共に1961年から4年間担当した。

書き下ろした絵を表紙に使用したり、

写真と絵を合成したものを作った。当時アナログでやるには手間と工夫が必要で、境目が目立たないように被写体をわざとぼかして写真を撮り、それに合うように絵を描き、版元の方で合わせる手法をとった。

印刷に関して「当時オフセット印刷は信頼がなく復元度が良くないとされており、凸版印刷の方が人気がある時代だった」という宇野さんの発言もあり、印刷で「版で何ができるか」という挑戦を繰り返していた。

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—亀倉雄策が日本のグラフィックデザイナーに社会性を持たせてくれた。


1965年『明治ロンド』宇野亜喜良が手がけたパッケージ

◆1964年に横尾忠則と共に『スタジオ・イルフィル』を立ち上げたが仕事が全くなかった時期に亀倉雄策がくれた仕事。亀倉さんが自らすればいいのにも関わらず、亀倉さんを含む、宇野さん・田中一光の3人のコンペをわざわざして仕事をふってくれた。しかし商品はあまり売れなかった。

—宇川直宏 「亀倉さんがアールデコの影響を受けていたのに対して、宇野さんはアールヌーヴォーへの影響を感じる。後にアールデコとアールヌーヴォーが融合されたサイケデリックな時代がやってくるが、そこにもしかしたら亀倉さんは入っていく事が出来なかったんじゃないかと思うんです」
—宇野亜喜良 「才能を見てくれていたのではないかなとは思います」

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◆亀倉雄策という人はデザイナーだけと仲良くするという考えの人ではなく、ジャン・コクトーのパーティーに紛れ込んだり、宇野さん達をヌーヴェルヴァーグの人達に会わせてくれたりするような人だった。

—宇野亜喜良 「亀倉さんがある意味、日本のグラフィックデザイナーに社会性を持たせてくれたと思います」

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◆その後、宇野亜喜良は1966年と68年に化粧品ブランド『マックスファクター』広告デザインを担当した。

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ーもう横尾忠則業ですよね。


◆1962年に横尾忠則と二人で作った初めての絵本『海の小娘』(文:梶祐輔)は二人で「2色で刷ろう」と決めた。

赤インクと青インクで各々の絵が刷られており、ひとつの話が真ん中でクロスする。付属の赤色と青色のセロファンをかけると一方の絵が消える仕様の絵本となった。

(参考画像:http://www.kuwano-trading.com/さんより)

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◆1964年に共に立ち上げた「スタジオ・インフィル」としての仕事は全くなく翌年には解散しているが、個々には仕事が入ってくるような状況だった。

1975年に横尾忠則が装丁・挿絵を描いた小説『絵草紙 うろつき夜太』(文:柴田錬三郎)を見ながら、今ではとても出来ないようなお金の掛け方と実験的なデザインを「プリンティングディレクターは横尾忠則の為に発生した」とその才能を宇野さんは称した。

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挿絵を描く為に俳優を呼び(田村正和の弟・田村亮)、衣装を着せて、写真に撮ってから描く手間のかけようと、

グラデーションもパーセンテージで指定しないと出て来ないような時代に、この大胆なインク使いと革新的なデザイン、そして迫力のある挿絵で構成された伝説の奇書として振り返った。(こちらは佐藤亜沙美さんの私物の初版本で、古書店で凄い値が付いている物)

—宇川直宏 「横尾さんの画家宣言(1982年)についてはどうですか」
—宇野亜喜良 「何をしても画家と言い切れる、横尾忠則業ですよね」

◆横尾さんについて「自分に対して暗示をかけやすい人であり、病に対しても敏感で自分で病気を作ってる」という怪我や病気の思い込みエピソードを談笑してくれた。

—宇川直宏 「近年デザインの仕事もしてるじゃないですかと横尾さんに言ったら、画家宣言はしたけどグラフィックデザイナー廃業宣言はしてないと言われました(笑)」

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—グラフィックデザイナー世代間の話。


この日のもう一人のゲストである、1982年生まれのデザイナー佐藤亜沙美の作品を紹介。佐藤さんは、宇野さんや横尾さんらのデザインにとても刺激され影響を受けていると語った。

シンガーソングライター柴田聡子のライヴアルバム『SOUVENIR』では、ライヴ盤という事を大事にする為にBOXとライナーノーツを青焼き印刷し、経年劣化でだんだん印刷が消え文字が読めなくなるという仕様になっている。

1968年生まれの宇川さんはその後の話で、宇野亜喜良・横尾忠則・田名網敬一を”グラフィックデザイナー第一世代”と表し、自分の世代を”DTP第一世代”とした上で、

—宇川直宏 「自分達は最初からデザインソフトが導入されてる所から始まって、マニュアルが師匠で全然美意識じゃなかった。自分の世代はパッケージがまだ売れていたので、師匠の祖父江(慎)さんが本で色々遊んでたのをCDで遊んだのが自分達世代」

そして「今の世代はパッケージが売れないから印刷を遊ぶことが難しい、限られた予算の中で工夫している」とした。

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—宇野亜喜良は時代が作った。




”あまり(自分の)分析をしない”ことです。(宇野亜喜良)

宇野亜喜良 イラストレーター・グラフィックデザイナー1934年名古屋生まれ/1952年名古屋市立工芸高等学校図案科卒業/1955年カルピス食品工業広告課入社(1957年退社)/1960年日本デザインセンター入社/1964年横尾忠則・原田維夫とスタジオ・イルフィル設立(1965年解散)/1966年フリーになり、東京イラストレーターズ・クラブ設立/現在、東京イラストレーターズ・ソサエティ会員


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●あとがき●

この日のDOMMUNE は「アノニマスデザイン史」として宇野亜喜良氏が”グラフィックデザイナー”としての側面をお話してくださった貴重な夜でした。

こちらは、大興奮でPC前で視聴した1リスナーとしてのレポートです。

書いたのは放送2時間分の一部である事、誤認・聞き取りの間違い等がございましたら、お知らせ頂けますと幸いです。

この日のお話は来年2月発売の「デザインのひきだし」にて掲載されるそうですので発売を楽しみに待ちたいと思います。

最後に、毎回素敵な夜を用意してくださるDOMMUNEというイカしたメディアと宇川直宏さんに感謝を込めて!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

文:こたにな々  ライター 兵庫県出身・東京都在住 
https://twitter.com/HiPlease7

◆HP:https://kotaninana.wixsite.com/kurashino-no-nana

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