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Talk.01 女性活躍のこれまでとこれから【暮らすroom's交流会】

こんにちは!暮らすroom'sです。
2023年3月4日に松本市にて行われた暮らすroom's交流会のトーク1「女性活躍のこれまでとこれから」の様子をお届けします。


●登壇者
ファシリテーター:古後理栄(暮らすroom’s)
スピーカー:中島恵理氏(元長野県副知事)、秋葉芳江氏(長野県立大学教授)、青木孝子氏(好生館マナー研究所代表)


女性活躍に取り組んできた登壇者のみなさん

 古後:それでは、トーク1を始めます。素敵な会場で楽しくアットホームに進めたいと思います。まずは、自己紹介からお願いします。
 
中島:信州大学法学部の特任教授をしながら、暮らすroom’sを支援している長野県みらい基金でチーフプログラムオフィサーをしています。これまで環境省で20年ほど仕事をしながら、長野県で結婚したこともあり、東京での地域づくりと長野県での地域づくりに関わる二地域居住をしていました。長野県副知事をしていた時に知り合ったみなさんが、こうやって女性活躍の取り組みを作り上げていくことを大変嬉しく思っています。
 
青木:アルプス女性起業家会議会長と好生館マナー研究所代表をしています。マナーの講師として42年。小学生~80歳までの生徒さんがいます。企業はもちろんホテル・旅館やレストラン、私は薬剤師でもあるので医療関係の病院、介護施設などにも伺っています。いくつになっても、どんな職種でも人と人が関わるなかで相手を思いやるマナーが大事なのではないかと思って伝えています。

秋葉:長野市に2018年に開学した長野県立大学の教授をしており、18年から長野県民です。開学と当時に創立されたソーシャル・イノベーション創出センターのセンター長もしています。若者の起業支援、イノベーションを起こしていくための支援をしています。今日ここに来ている学生もおります。大学という立場を離れて個人の立場でお話をしていけたらと思います。


秋葉先生が作成された年表
男女共同参画/女性活躍推進に関するできごとを年表に整理したもの。これを見ながら、みなさんが振り返って情報を共有できるといいのかもしれません。

 古後:「女性活躍のこれまでとこれから」がテーマです。今日は活躍されている3名のパイオニアに、女性活躍についてどんな道のりで来たのかお聞きしていきます。


色々な働き方に挑戦し、職場の変化も感じてきた20年間

中島恵理氏

古後:私は2002年に就職しました。ちょうど男女雇用機会均等法改正・女性保護規定廃止・次世代育成支援対策推進法交付の時でした。私の職場はインテリア業界で女性が半分以上を占めていたのですが、女性の管理職は1名だけでした。その女性は活躍していて、キラキラしていて素晴らしいなと思っていたのですが、目指そうと思ったかといえば、「あそこまでなれるのかしら」という不安の方が大きくありました。

みなさんがキャリアをスタートする時はどんな気持ちでスタートされたのか?どんなキャリアを描いていたのでしょうか?

中島:環境に優しい世界を作りたくて環境省に就職しました。「仕事もしたいし結婚をして子育てもしたい。自分の暮らしと社会を良くする仕事の両方をしたい」と思っていたんです。公務員は9時ー17時と思われがちだけれど、国の仕事はブラックなんですね(笑)夜中まで仕事して、最終電車に間に合うかどうかという環境。官庁訪問での最終面談で「正直、女性は雇いたくないんだよね。女性は結婚すると辞めるし、君はどういうつもり?」と言われました。私は、環境省に入りたかったので、「結婚しても絶対辞めません」と言って入庁したんです。

そうして入ったら、本当に毎日夜中まで仕事をしていました。環境を良くするための環境行政の実態は、いかに他の役所を説得できるかという仕事でした。環境と経済が両立しないと言われている中で、企業に対して規制をかけることが中心でした。「何か違う」と感じていたので、現場に出て環境活動をするようになりました。霞が関の建物に閉じ籠もるのではなく現場に出たかった。だから自ら、現場でゴミ拾いや里山保全をしているNGOの方々などと繋がって、一緒に活動しました。当時役所はそういう繋がりを求めるメンバーはいなかったが、私にはその活動が楽しかったです。その中で、人と繋がりながら現場を体験している経験が、仕事に活かせるようになっていきました。

それから20年、役所も変わりました。夜中まで仕事をするのは変わりませんが、今は環境省も「地域SDGs」「地域循環共生圏」という概念で、地域の中に入り地域の関係者を繋げて地域のソーシャルイノベーションを興すような役所に変わろうとしている。国の職員が地域に積極的に出て人と人を繋げるような働き方が広がっています。

最初は男性中心で作られたブラックな職場も、色々な働き方を模索することで、20年という長い年月ですが、少しずつ変わっていくんだなと思った。色々な働き方に挑戦する女性が増えていくことで、多様な自分らしい生き方ができる職場になるのかと思います。

 
古後:男性が作った仕事の仕方、組織・ルールの中に女性として飛び込んだら違和感を感じられて、現場に飛び込んだことが改革に繋がったんですね。

中島:私自身のモットーは、自分が楽しく自分が無理しない。環境の仕事では、「サスティナビリティ」という概念を使うのですが、自分も持続可能でなければ社会も持続可能ではない。職場の中では夜遅くまで働くことでの成果が求められてきたけれど、そうすると自分が燃え尽きてしまう。それは、自分がサスティナビリティではない。自分が得意じゃないことを頑張るより、自分が楽しくて活かせるような仕事を作っていく姿勢が大切だと思います。

 
古後:私たちの暮らすroom’sの活動も、テーマも背景も地域も違う5団体が始めていますが、繋がりが重要という点でとても納得がいくものでした。この会場のつながりマーケットもそうで、多様な価値観の出店や活動があって、その繋がりが見えていて、中島さんの生きてきたことに重なりました。
 
中島:長野県との繋がりも、たまたま東京での活動で、長野県富士見町で有機農業をしている男性と知り合ったことから。自分が環境省でキャリア管理職になることだけを考えていたら、その繋がりは消えていたと思います。東京でバリバリ働くという選択肢もあったけれど、長野県の素晴らしい自然環境の中に来て、これからは中山間地こそが環境に優しく自分たちも幸せになれる社会を作っていけるのかもしれないと思い、一方でキャリアは続けられないかもしれないけれど、思い切って、長野県に住むことを決めました。

夫が野菜と子どもを育て、私が出稼ぎに東京に行き、現金収入を稼ぐという生活を20年間してきました。東京では、我が家のようにいわゆる固定的な性的役割分担が逆になっているケースはある。でも長野県に来て、私の体験談をすると、女性の方から返ってくる言葉は「いいね」だった。そこには「うらやましい」、「妬み」の気持ちもあったかもしれません。長野県の女性は、「自分がしたかった暮らしを捨てるという選択をした人が多かったのかな」とも思う。女性活躍という言葉に抵抗がある人も多い。仕事もしている、子育ても、家事も、介護も。女性はちゃんとしていて、男性は家庭では活躍していない。女性がしたい仕事を続けられなくて、辞めて、自分があまりやりたくない事をしているのかな。そうではなくて、男性も女性も自分らしい生き方を求めることができて、家庭のことや社会のことを共有できる長野県になるといいと思う。
 
古後:長野県ならではの価値観みたいなところには、私自身も苦労してきたことがあります。では、女性活躍とは何でしょう。長野県の女性は、家、学校、仕事など、同時並行でやっている人が多い。そういう人たちがきちんと認められる社会、お互いやっていることがお互いを受け入れられるような社会になるといいなと思いました。

ファーストキャリアでの課題感から起業へ


青木孝子氏


古後:青木さんはどういった思いで、社会に入っていったのでしょうか。 青木:私は、女性が多い薬剤師業界に入りました。女性特有の難しさもありました。でも自分で学んできたものを活かそうと頑張っていこうと思ってきました。昔は院内処方で次々と対応しなければならない忙しさでした。ある時、お薬の服用説明で、ベテラン薬剤師がご高齢の患者さんとのやりとりで、(薬剤師が専門用語を使ったため)、患者さんが理解できていない場面に遭遇しました。理解できるように説明できる余裕があれば良かったのですが、その時、新人の私には何も言えずに残念に思いました。

それが「嫌だな」と思って過ごしていました。そんな中、マナー講座に出会いました。私は名古屋市出身なので、花嫁修業としてお茶やお花などあらゆるものを習っていました。その一つに、「現代の作法」という講座があって、「資格がとれます」と書いてあり、これだと思いました。先々、医療関係者の人たちに、「人を大切にする」、「相手がわかるように思いやりをもって接する」ということを何とか伝えたい、それには資格が必要だと思ったのです。薬剤師を続けていましたが退職して、25歳の時に資格を取り、マナー講師として教えるようになりました。

最初は、若いということで受け入れられない雰囲気もありましたが、回数を重ね、私の人柄などもわかってもらえるようになり、質問にも真摯に前向きに応えているうちに、気持ちが伝わりました。

その後、長野県に嫁ぎ、知り合いもいない土地で、どうやって仕事を繋げるか模索しました。名古屋市にあった文化センターの系列センターが松本市にあり、長野県でマナー講師の仕事が始まりました。相手に対し思いやりをもって接するということを一番大切に、にこやかな笑顔で毎日暮らせることを大事にしてきました。どなたでも知っていることかもしれませんが、知っていることと出来ることは違います。人から見られている気持ちも大事にして、行動をすることが大切だと日頃思っております。 

古後:「好生館マナー研究所」を起業してマナー講座養成をされているほか、もう一つ「アルプス女性企業家会議」の会長をされておられますね。
 
青木:こちらは、1996年に長野県の男女共同参画事業の一環として、県が立ち上げてくださったものです。2001年から自主運営をするようになり、「アルプス女性企業家会議」という名前で立ち上げました。異業種の多様なメンバーが参加されており、2005年から「信州なでしこマーケット」を運営しています。毎年2月に安曇野スイス村サンモリッツ大ホールで開催しており、2000人ほどのお客様がこられ、参加店舗は50件ほどです。私たちが仕掛けたものですが、こちらの会と同じで、そこに集う人たちが繋がることを大切にし、明日へ繋げてほしいと思っています。
 
古後:女性の企業家が集まったのですね。みなさんどのような思いで継続されているのでしょうか? 

青木:基本のポリシーは人間力を高めることです。毎月1回定例会を開いて、お互いに得意とするものを、みなさんに提供して学び合うことをしています。「信州なでしこマーケット」でも、企画から広報など、みんなが学び合って、それを自分の事業に活かしてもらう場にしています。その他にも、自分たちの感性を高め、仕事をうまく進めるために、大人のための絵本の読み聞かせや名刺交換の基本、挨拶の仕方、コミュニケーションの取り方など、基本的なこともみんなで学びあっています。

古後:人間力や感性など、一般的なキャリアの勝ち方、積み方とは違う価値感を感じました。

女性にまつわる制度の変遷のなかで働き続けてきた

 

秋葉芳江氏


古後:秋葉先生は、どんなキャリアを描いてきたのか、率直にお聞きしたいです。 

秋葉:この話をいただいて、改めてこのテーマを考えてみました。私は物事を相対的に見るのが好きなので、テーマがあるといつも年表を使って整理するんです。みなさんも自分のできごとを年表に当てはめてみるとおもしろいと思います。

私は、1967年「夫人に対する差別撤廃宣言」より前の生まれで、就職は「男女雇用機会均等法」以前でした。「本当に大変だったなあ」と思い出します。ただ、私は小さい頃から「自分は自分」と思っていて、「男だから、女だから」とか「女のくせに」という言葉が小さいながらに嫌いでした。

社会人の一歩目は、コンピューター産業のエンジニアとして就職しました。残業するのは当たり前でしたが、「男女雇用機会均等法」前だったので、チームの中にひとりだけいる女性の私には残業代をがつけられない。「理不尽じゃないですか?」と聞けば、「法律がそうなってるんだよ」と言われました。女性トイレがないとか、電話で「女ではダメだ上司を出せ」と言われるとか、セクハラも常習的でした。ただありがたいことに成長産業分野だったからか、2年目から責任を持たされ、性別関係なく、私には合っていました。

その後、1998年に独立しました。取引金融機関が代表者の性別を気にしていたことを覚えています。

(年表を見ながら)1985年の均等法は大きかったですね。その前1979年の「女子差別撤廃条約」が引き金で、これあっての均等法です。その後、何回か均等法は大きく改正され、1999年「女性保護規定」が撤廃され、対等に女性も残業できるし夜勤もできるようになりました。そんな時代とともに働いてきました。

先輩に一人、親に手伝ってもらい子育てしながら働く女性がおられて、大変そうだと思った記憶があります。あの当時は、保育制度も十分ではなかったので、「私の給料はすべて保育料につぎ込んでいるのよ」と先輩が話をしていたのを思い出します。

今は時代が変わってきました。今日のテーマ「女性活躍」という言葉が目立つようになったのは2015年の「女性活躍推進法」は大きいと思います。それまでは、こんなに明確に出てきていなかったように思います。

 

古後:女性活躍というこの年表の中での言葉は、どちらかというと、働く現場での女性活躍というイメージですよね。
 
秋葉:そうですね、みなさんよかったらこの法律の1条、2条を読んでみて欲しいのですが、「男女の別を問わず」とか結構いいことが書いてあります。でも一番大きいのは「活躍推進法」よりも「均等法」です。これができたことで「男女共同参画」の政府機関もでき、いろいろなものが進んできたのかなと思います。

ただ明らかに労働力が足りないのです。2007年に人口はピークアウトしていますし、生産年齢人口は1995年にピークアウトしています。「働き手が足りなくてやばいぞ」というところで、この言葉(女性活躍)が出てきている。
 
古後:そうですね。労働力が足りない中で、「使えるものは使え」じゃないですが...。
 
秋葉:「高齢者も、子育て中のママもみんな働いてね」という感じがしますね。均等法より前は「働きたくても働けない」だった。均等法が出来てからは「働きたければまあまあ働け」。推進法ができてからは、「頼むからみんな働いてよ」になった。どこが主語なのかがずいぶん変わってきたなと感じます。私個人的には「私が働きたいと思えば私が働く」。いつも自分を主語に置きたいと思います。
 

今改めて、「女性活躍」を再定義する

古後:「女性活躍」と聞くと、キラキラした感じを受けるじゃないですか。でもその裏には、労働力確保みたいなことがあって。「自分が活躍したいな、これをやりたいな」ということと、制定された女性活躍の意味合いにズレみたいなものがある。今回、「女性活躍の再定義」がテーマなので、この言葉をみんなが使えるような意味になるといいなと思います。
 
秋葉:今の古後さんの投げかけと関連する本を紹介します。『男性中心企業の終焉』という本、とてもタイムリーなので紹介しておきます。活躍という定義が実はものすごくたくさんあるよね、ということを、力を抜いて考えることが素敵じゃないかなと思うんですよ。
 
あと2冊、持ってきたので紹介します。1冊目が、『Women ここにいる私』。世界中で色々な形で活躍している女性が写真とともに載っています。もうひとつは、アメリカでベストセラーになった『自分で「始めた」女たち』。色々なスタイルが載っています。活躍って色々な定義があるなぁとわかります。

 

古後理栄(暮らすroom’s)

古後:私自身「当たり前をなくしたい」と思いながら、それを言っていること自体が、当たり前に囚われていることに気づいた時がありました。秋葉先生が先ほど言ってくれた、自分が納得する活躍の仕方をみんなが持てるような世界を作っていけたらいいなと思いました。最後に、女性活躍のこれからへの思いを一言ずつお聞かせてください。

中島:私は組織で20年働いてきていたので、サラリーマン的な仕事から抜けるのが怖かったんですね。でも今は、SDGsフリーランスと名乗って働いています。フルタイムで働く仕事を辞めて、地域の子どもの居場所を作るNGOや大学の講師など、SDGsに絡む色々な仕事をして、結構生活できているんですよね。思うのは、自分らしい生き方も年代とともに色々なパターンがありえる。私は90歳まで何かしていきたいなと思っていますが、また、サラリーマン的に大きな組織に属してもいいし、フリーランスでしたいことをしてもいい。自分らしく楽しめることを追い求めて繋がっていけば、何とかなる。ずっと自分探しをしながら、自分らしく輝けて楽しめることをこれからみなさんと一緒に取り組んでいけたらと思います。
 
青木:私は名古屋市から来て、知り合いもほとんどいなくてやってきました。チャンスはたくさんあります。チャンスがないというのは、チャンスが見えていない。来たものはとにかく掴むということが大事だなと思いました。子どもも3人いますが、PTAの役員などもやりながら繋がっていって、それは今に活かされているなと思います。ですからみなさん、ぜひチャンスは掴んでください。そしてそのチャンスを活かしてください。そこに、ちょっとマナーを考えてもらって相手を思いやる気持ちを忘れずに繋がっていただきたいと思います。
 
秋葉:あえて今日の年表に2040年まで記載していて、最後に「?」を入れています。願わくば、私が小さい頃から感じてきたように「自分がアクションすると、明日は変えられる」という時空間にできたら、今日のイベントが素敵になるという期待を持っています。

古後:これにてトーク1を終了させていただきます。みなさん、ありがとうございました。
 


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