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【連載小説】「逆再生」 第1話

彼女は停止した。
黒々とした深い沼のような眼球を大きく見開いたまま、虚空を見つめている。
体は土の上に横たわり、手を横に広げ仰向けになっている。
生温い風が時折吹き抜け、彼女の髪と白いシャツを微かに揺らした。
先日の台風の余韻なのか、風は少し強い。
だが、風の音以外は何も聞こえない。
夕暮れ時の商店街のざわめきも、学校帰りの子供たちの声も何も聞こえない。
世界が切り取られたかのように、静寂に包まれていた。
耳をすますと、遠くで電車の通る音だけが聞こえた。

彼女の目線に合わせて空を向いてみる。
空が異常なほどに、赤く染まっていた。
カラスの群が遥か上空を飛び回る。
雨風に晒され朽ち果てたコンクリートの廃墟が、無口に佇みながら光と闇の鋭角なコントラストを作り出していた。

ふと見下ろすと、足下に赤黒いものが一筋流れて来ていた。
彼女の血だった。



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9月3日 18時29分 
小川直美

風の強い夕方でした。
明日から台風が来ると聞いたので、きっとその影響なのでしょう。
私と佑ちゃんは日暮里駅の真上に架かる長細い歩道橋を渡っていました。
橋の下は線路が何本も川のように通っていて、日暮里駅のホームが見えます。
学校や仕事場から帰ってくる人たちで駅前はとても賑わっています。
けれどこの歩道橋は意外と知られていないようで、こんな時間でもすれ違ったのは近所の人らしきおばあさん一人でした。
電飾賑やかなパチンコ屋や居酒屋が立ち並ぶ、アジア系外国人の多い駅前の通りを抜けて線路側の小道を入るとこの歩道橋に辿り着きます。そして線路の川を渡った先には谷中の墓地が静かに、ひんやりと佇んでいるのです。人気があまり無いのは多分それが理由なのでしょう。
私だって、一人だったらこんな日暮れ時に霊園の中を通るのはちょっとドキドキします。
佑ちゃんだってきっとそう思っているに違いありません。
だから二人で下校する時だけこの道を通るのです。お互いの家への近道でもあるし、墓地内を通るというリスクを背負ってでもこの橋の上からの日暮里の夕焼けを見るのがなにより好きだったのです。
でも、それは風の穏やかな日の話。

「うわー!風すっごいよー!」
私の前方で強風を全身に受けながら佑ちゃんは叫びました。
「しかもさっきから砂埃みたいなのが入って目が開けらんない…あ、そっか直美は眼鏡で防げてるんだね。私も眼鏡かけたいよー。」
「佑ちゃん大丈夫ー?今日ここ通るの失敗だったね。私が前歩こうか?」
「ううん。大丈夫。わたし頑張る。」
佑ちゃんは小さい背中に力を入れて、後ろに流されまいと一生懸命足を踏み締めながら歩き出しました。その姿は実に頼りなく、小リスの様な体は今にも風に乗ってどこかに飛んでいってしまいそうでした。
佑ちゃんは小学校の頃から「前へならえ」でいつも手を腰に置いているような背の低い女の子で、常に彼女より背の高かった私は、無意識に少しだけお姉さん気分になりがちでした。
同い年であり、私が彼女より優れていたわけでも無いというのに、今思えば身長差とはなんて酷なものなのでしょうか。
そのふわふわとした言動や小動物的な仕草も、身長と相成って年齢より幼い雰囲気を醸し出しているのかもしれません。だから小さいというコンプレックスに立ち向かいながら一生懸命前を歩いているその姿は、リスやハムスターが必死で車輪の中で回っているの見ているような微笑ましさを感じさせてしまうのでした。

「でもほら、見て!」
佑ちゃんは橋の真ん中で手すりに捕まりながら立ち止まり、谷中方面の空を指差しました。
「夕焼け。あんなにきれいな真っ赤だよ。」
見上げると、見たことも無いような鮮やかな茜色の空が広がっていました。
絵の具のチューブからそのまま出したような、混ざり気のない赤。
強い風に乗って流れる雲はまるで波の様です。墓地を囲む木々が赤の中に黒いシルエットを生み、生き物のように揺らめいていました。
それは映画の中の景色のような、夢みたいな光景でした。
「あ、台風だからだよ。台風が汚れた空気とかを吸い込んじゃうから、
台風の直前と直後の夕焼けは凄く鮮やかになるんだって。」
私はふと思い出して話しました。テレビか何かで聞いた覚えがあったのです。
「へえ、そうなんだ!じゃあ、台風が過ぎたらまたこんな夕焼けが見れるのかな?」
「見れるのかもね。見に来たいね。」
「じゃあその時はまた一緒にここ通って帰ろうよ。風、またすごいかも知れないけど。」
佑ちゃんはそう言って柔らかく笑って見せました。
私たちの下を電車が走り抜ける音がしました。

「なんか小腹減って来ちゃったな。」
橋の中心で空を眺めてボーッとしていると、佑ちゃんがそう呟きました。
本当に。つくづく場を和ませるのが得意な子です。
でも確かに昼休みから6時間以上過ぎていたので、私も少しお腹が減っていました。
「コロッケ買って行く?商店街の。」
「あそこの店のでしょ!ああ、クリームコロッケ今日はあるかなぁ?
そうだ聞いてよ直美~。私夏休みにあそこで一人でクリームコロッケほおばってたらね、3組の吉沢が」

その瞬間でした。

本日最大風速とも思える突風が、激しい風音を立てて私たちの間を吹き抜けたのです。
あまりの突然さと激しさに、私はよろめいて目を伏せ、橋の手すりに体をしがみつかせました。
そして、私でこんなになるのだから目の前の小動物はどうなってしまうのかと慌てて佑ちゃんの方を振り向きました。

それは予想外でした。
佑ちゃんは突風をものともせず、しっかりと足を地につけて立っていたのです。
さっきまで顔を後ろに向けて話しかけていた彼女は、今は私に完全に背を向けて赤い空をじっと見つめています。
「ゆ、佑ちゃんよく大丈夫だったね。私なんて危うく橋にぶつかる所だったよ…」
失態を見せた私をここぞとばかりからかってくるか、本気で心配してくるか、どっちかだろうと思っていました。
しかし彼女は無反応でした。
私の呼びかけなど聞こえないかのように、ずっと空を見つめ続けていました。
しばらく無言の空気が流れました。
風は少し穏やかになり、足の下の電車の発車メロディとアナウンスが小さく聞こえました。

「…佑ちゃん、さっきの話の続き聞きたいな。3組の吉沢がどうしたの?」
私は冷えきった妙な空気を元に戻すため、突風が吹く前の会話に戻そうとしました。
「…え?」
彼女はようやく反応を見せました。
「ほら、さっき喋ってたよね?クリームコロッケの話。吉沢くんに偶然会ったの?」
面白い話を私にするときは勢いが止まらない佑ちゃんに対して、このような話の誘導をするのは珍しいことでした。
「吉沢?」
「さっき話してたじゃない!」
沈黙。
「……。」
「…ごめん。分からない。」
彼女は私の方を振り向きもせず、そう答えました。
その声はいつものようにふわふわとした優しい調子ではなく、海に沈んでいくような仄暗く深い声でした。そしてまた、沈黙の時間が戻ってきました。
茜色に染まった雲だけが、私たちの頭上高く流れていくのでした。

常磐線の発車ベルが鳴り、電車が走り出し始めた時だったでしょうか。
空は相変わらず鮮やかな茜色でしたが、徐々に夜の闇の青紫色が侵食し始めた頃でした。
無言の空気を破ったのは、佑ちゃんの方でした。
ずっと空を見つめながら微動だにせずに立っていた彼女は、突然持っていた学生鞄の中を探り始めました。突然思い出したというよりは、ずっとこの時を待っていたように見えました。
そして、鞄の中から一枚の便箋を取り出し、封を開け始めました。便箋の中にはきれいに折り畳まれた一枚の手紙が入っていました。彼女はそれをためらうように間を置いてからゆっくりと開き、風に飛ばされないように支えながら、読み始めました。
佑ちゃんの後方に立つ私からは手紙の内容は読み取れませんでしたが、手紙のふちにプリントされた水彩調の魚の柄が見えました。私たちのような若い女子高生というよりは母親世代に好まれそうな落ち着いた柄でした。きっと親戚のおばさんあたりから貰った手紙じゃないかと勝手に推測しました。
そのように手紙の送り主への想像を思い巡らせていたせいで、その直後の彼女の行動に私は完全に不意を突かれてしまいました。
佑ちゃんがこっちを向いたのです。そして、ぽかんと口を開けた私の姿をじっと見つめました。
その大きな丸い瞳は深く黒々としていて、普段の彼女からは想像できないような強い意志を感じました。
そして彼女はゆっくりと微笑み、私に向かって口を開きました。
「直美。」
「あっ……な、何?」

「ありがとう。」

─────────────────────
続く

文・絵 宵町めめ(2008年)

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