見出し画像

【連載小説】「逆再生」 第2話

9月5日 17時37分 
坂巻佑子

一陣の強い風が、鉄骨の隙間を抜けた。
風は生温く、錆びた鉄の臭いがした。空は不気味なほどに赤く、目の前のコンクリートの固まりに鈍く深い暗闇を作り出している。
ふいに塀の向こうで人の足音がしたので、私は身を潜めた。
ただの高校生がこんな廃墟にいたら怪しまれるのは当然だ。
人通りの少ない通り沿いなのでそこまで警戒し続ける必要は無いと思ったが、やはりこの時間帯は人が多いのかもしれない。私は足音が遠ざかるのを確認すると、手に持ったコンビニの袋を胸に抱えて静かに建物内に入った。

無音の建造物に私の足音が響く。雨の降った後のせいか、水滴が落ちる音が一定のリズムをゆっくりと刻んでいる。時間の感覚の無くなりそうな場所だった。
がらんとした空間に風が吹き抜ける。まだ風が強い。昨日の台風の余波なのだろう。
ここはマンションになる予定だったらしいが、マンションだと思わせるようなものは何もなかった。柱だけの殺風景な場所だ。どういう理由かは知らないが、建設途中で放置され廃墟となってしまったのだ。だから壁がまだ無い場所が多く、風がよく通る。
入り口には大きく「管理地」と書かれて工事用の柵が立っているが、裏口の方はほとんど管理が行き届いてなく、捨ててある椅子などに乗って塀を乗り越えれば簡単に侵入できる。
おかげでここは地元の子供たちの秘密基地や肝試しスポットになってしまっているのだった。
噂では映画やプロモーションビデオの撮影にもよく使われるらしく、たまに大きなカメラを持った集団が近くをうろついてるのを見かける。
私たちが今ここにいるのも、それに近い理由によるものだ。

「あ、佑ちゃん!お帰りー。」
階段を上って二階に行くと、直美が迎えてくれた。
直美は紺色のエプロンをして床に新聞紙を広げ、葉っぱや枝に白い絵の具で色を塗っていた。
「おぉ坂巻、わりーな!」
奥からビデオカメラと三脚を抱えて出てきたのは寺尾君だ。
ハリネズミのような短髪を汗で濡らしながら、小走りでこちらに寄ってきた。
「寺尾君、はいこれ、ガムテープ。あとDVテープっていうのはこれの事でいいの?」
「あ、そうそう!これ。これで大丈夫。ホントごめんなー!」
「いいよいいよ。暇だったし。あとお菓子も買ってきたよ。直美の好きなチョコのやつこれだっけ?」
「そう、それそれ!よく覚えてたね、佑ちゃん。ありがとうー。」
私はコンビニ袋から買い出しに頼まれた物とお菓子を取り出して二人に渡した。
「よっしゃ、これで撮影進みそうだな。あ、坂巻悪いけどそのテープ、ハッシーにも一個渡してきてくれねーかな。あいつも足りないかもしれない。」
「分かった。橋本君は今どこにいる?」
「多分上の階の撮影してんじゃないかな。」
寺尾君はDVテープとやらの封を開け、小型ビデオカメラに入れ替えながら上を指差した。
そして私に挨拶をしてから奥の部屋の撮影に戻っていった。
「直美、作業大変そう?」
私はチョコの包みを開けている直美に話しかけた。
「ううん、楽しいよ。今日風があるから涼しいしね。ほら見てこの椅子。いい感じになってきたと思わない?」
「わ、すごい。きれい。あの捨ててあった椅子とは思えないよ。」
直美の後ろにはきれいに白く塗られた椅子があり、白い枝や蔦が絡まっていた。
「さすが美術部だね。私だったらこんなにきれいにできない。」
「そ、そうかな。ただ白く塗っただけなんだけどなあ。」
直美は照れながら答えた。
美術部員である直美は、寺尾君たち映画研究部の撮影の美術スタッフとして特別に手伝っているのだ。学園祭に出す映画らしく、夏休みから企画を練って最近ようやく撮影が始まったらしい。
寺尾君と橋本君はこの廃マンションでの撮影担当なのだそうだ。
役者の必要なシーンはもう撮り終えていて、今撮っているのは人の出ない繋ぎシーンなのだと寺尾君が言っていた。高校規模とはいえ本格的な映画撮影は初めてらしく、寺尾君は意気揚々と撮影を進めていた。初めてのクラスの自己紹介で、映画監督になる夢を目を輝かせながら語った彼のことだ。かなり嬉しいのだろう。普段はちょっと間抜けな素振りが目立つ彼だが、今日は本物の映画監督のように堂々とした顔をしていた。
「じゃあ私、これ橋本君に届けてくる。」
直美に一声かけると、私は上の階への階段を上って行った。

上の階に着くと、また無音の空間が広がった。
風が吹き渡る音だけが聞こえる。遠くでカラスの鳴き声がした。
頭の中で先ほどの直美や寺尾君との会話が繰り返される。自然な会話だったと思う。
急に胸が押し付けられるように苦しくなった。
私は寺尾君が探してたDVテープがどれなのか分かっている。
直美があのチョコを食べたがっていた事も分かっている。
白く塗った椅子が私が戻ってきた時ちょうど完成した事も分かっている。
すべて分かっているのだ。
分かっていながら、あたかも何も知らないかのように自然に会話をしたのだ。
いつものように楽しく会話をしたかったからだ。
橋本君がどこにいるのかももちろん分かっている。
私は胸を押さえながらコンクリートの回廊を歩いた。このマンションは上から見るとコの字形をしている。そのコの字の端から反対側の端まで向かった。

橋本君は一人、端の部屋で三階の窓を撮っていた。
その姿を見つけなれば誰もいないのかと勘違いしてしまうくらい、音を立てずにぬらりと立っていた。撮影中だからそうなのかと思われがちだが、彼は普段からそんな感じの人だ。
滅多に自分から話しかけてくることもなく、いつも一人でビデオカメラをいじっている。
そのおかげで映像のことに関しては高校生とは思えないほど詳しく、寺尾君は彼の事を頼りにしているようだった。
「……橋本君。これ寺尾君から渡してくれって。」
邪魔をしないように様子を伺ってから声をかけると、彼は首だけを少しこちら側に傾けた。
「もう買ってある。」
「そ、そっか。そうだよ…ね。じゃあ頑張って…。」
彼がそう返してくる事は分かっていた。足下の鞄を見ると、DVテープの束が入っているのが見える。さっきの二人と比べると、ちょっとぎこちない返事をしてしまったかもしれない。橋本君と喋る事に慣れていないのだ。
私が立ち去ると、彼はまた首の角度を戻して撮影作業を始めた。

このマンションにはコの字の端と端の二か所に階段がある。私が登ってきた階段、つまり直美達がいた場所が東の階段で、橋本君がいる側が西の階段である。敷地が思ったより広く、東端から西端まではなかなかの距離があるのだ。私はその西階段から二階に降りる事にした。
窓と壁以外はきれいに完成している東側と違って、西側は明らかに未完成といった様子だった。
コンクリートの間から鉄骨が見えてしまっている場所が多々あり、雨風が侵入するため劣化も早い。特にこの二階は三階からの雨漏りや日当たりの悪さも相成って、特に状態が悪いようだ。
カビの臭いが鼻についた。天井や壁を這う雨漏りのシミが、積もり積もった負の感情の具現のように見え、心が落ち着かなかった。窓になる場所と思われる四角い穴から強い西日が入っている。
空が血のように赤い。きれいだとは思えなかった。気持ち悪かった。
さっきまで遠くにいたカラスたちがマンションの周りを飛び交い始める。
私は二階へ下る階段の最後の一段を降りずに立っていた。
西側の二階の床は明らかに未完成で、途中から崩れ落ちている。
崩れた床から一階を覗くと、落ちたコンクリートで瓦礫の池が出来上がっていた。

私は知っていた。
ここから落ちて死ぬことを、知っていた。

─────────────────────
続く

文・絵 宵町めめ(2008年)

投げ銭、心と生活の糧になります。大歓迎です!!