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【連載小説】「逆再生」 第5話

 あの後、佑ちゃんの足の傷が突然直ったことについては、結局何も聞き出すことはできませんでした。彼女は怪我のことを何も知らないと言うのです。いつどこで転んだことさえも、何も覚えていないようでした。
 それ以外にも、直前の会話の内容を突然忘れて話が続かなくなったり、会話の途中で突然止まって黙りこんだりすることが何度かありました。
 私がそんな佑ちゃんを責められなかったのは、彼女は会話が途切れてしまった事に気付いたとき、必ず申し訳なさそうな顔をして私に謝っていたからです。「ごめんね、私またボーッとして何話してたか忘れちゃった。」そう言っていつも切なそうに笑うのでした。
 きっと凄く疲れているのでしょう。そう思うのが一番自然だと思いました。しかし、その考えとは矛盾するような事もあるのです。
 佑ちゃんは、授業中先生に当てられた問題をいとも簡単に、まるで見透かしているように答えました。そのうえ英語の抜き打ち小テストを予言し、休み時間に教科書を見ておくよう私に告げたのでした。まるで未来のことを知っていて過去のことを忘れていくような、奇妙な様子だったので
す。
 私は、佑ちゃんがだんだん分からなくなってきました。彼女であって彼女でないような、まるでドッペルゲンガーにでも会ったような不思議な違和感がずっと消えないのです。昨日の夕暮れの橋から、ずっと。

 放課後になっても強い雨と風は収まる様子が無く、私は傘の骨を壊さないように気をつけながら学校を出ました。薄暗く途切れ無く広がる厚い雲の天井は、時間の感覚を感じさせません。朝からずっと同じような景色だったように思えます。
 教室の掃除をしていた間に佑ちゃんの姿を見失ってから、彼女の姿を見つけられないまま駅まで辿り着いてしまいました。部活が無い日は、いつも一緒に帰っていたというのに。
 私と彼女の間に、何か目に見えない溝が出来てしまったのでしょうか。ずっと子供の頃から家が近くて、小学校から一緒で、遮るものなんか何もない間柄だと思っていたのだけれど。
 もし、彼女が何か悩みがあるのなら、力になりたい。同じ道を歩き、同じことを共有して笑い合いたい。それが私にとっての日常であり、大好きな時間だったからです。
 地面を叩き付ける雨は、溝に染み入るように冷たく降り続けていました。

 改札を通り階段を上ると、ホームは下校する学生でごった返していました。みんな服を濡らし、傘の水気を払っています。生温い風はかなりの湿度を持っていて、じわりと額に汗が滲み出ました。
 額を手で拭って前を見ると、ホームの一番奥に私の良く知っている小柄な女の子が見えました。
「佑ちゃん」私が声を発すると同時に電車の到着音が流れ、かき消されました。電車に乗り込む人の波で彼女の姿を見失ってしまったので、私は電車に乗って彼女が乗ったであろう車両へ移動しました。
 電車が動きだし、足が少しよろけました。一番後ろの車両を隅々まで見渡しても、佑ちゃんの姿はどこにも見つかりませんでした。電車は動きだし、駅のホームも見えなくなってしまったところで私はため息をついてドアにもたれ掛かりました。また、溝が深くなってしまったのでしょうか。
 虚ろな目で流れる風景を見ていると、私の肩に微かに手が触れました。驚いて目を開き振り向くと、そこには見覚えのある高校生が立っていました。
「あっ……て、寺尾君。」
「小川、電車で会うの珍しいなぁ。」
 寺尾君は湿気で膨張したボサボサの髪を掻きながら、笑いました。制服は私の何倍もびしょ濡れで、肌にぴったりシャツが張り付いていました。
「すごく濡れてるけど、大丈夫?」
「ああ、傘が途中で壊れちゃってさ、全然雨防げねえの。ほらこれ。」そう言って見せてくれたビニール傘は無惨に複雑骨折してしまっていました。
「そういえばさ」話題に詰まってすこし沈黙した後、寺尾君が口を開きました。
「坂巻は今日一緒じゃないの?いつも一緒に電車乗ってるの見かけるけど。」
「うん」私は少しうつむきながら答えました。「さっきホームで見つけたから追ったんだけど、電車の中にいなかったんだ。」
「あ、もしかしてあれじゃないか?反対回りの電車に乗ったとか。」
そう言われて私ははっとしました。そう言えば反対側にもちょうど電車が来ていたのです。東京を環状に走る山手線は、外回りと内回りという二種類の電車がぐるぐるとすれ違いながら回っているのです。
「そうか。そうかもね。あそこから日暮里までだったらどっちから回っても同じくらいの時間で着くし。」
いつも当然のように内回りに乗っていた癖で、こっちの電車しか目に入らなかったのかもしれません。でも、佑ちゃんだっていつも内回りに乗るのに。外回りは混むから嫌いだって言っていたのに。
「あ、あのさあ小川。話変わるんだけど、」
寺尾君が私の鬱々とした雰囲気をかき消すように、急に声高らかに話しはじめました。
「えっと……あ、明日なんだけどさ。明日の放課後って…空いてるかな。」
「えっ!? あ、あ、あ、空いてるけど……」
予想だにしなかった会話の展開に私は動揺し、うまく声が出せなくなりました。
「あ、いや! 別に変な誘いとかじゃ全然ないんだけど、えっとほら、映像部でさ、あの、ハッシー……橋本とかもいてさ、」
どうやら私以上に動揺しているらしい彼は、手を小刻みに右往左往させながら顔を真っ赤にさせました。それからゆっくり息を吐き、少し落ち着いて話始めました。
「映像部でさ、今文化祭に出す映像を撮ってるんだけどさ。小道具で椅子が一つ出てくるんだ。それがなんていうか普通の椅子じゃ駄目で、うーん、なんていうのかな。そこだけ違う次元みたいな雰囲気にしたいんだよ。」
落ち着いて語る寺尾君はさながら映画監督のように見えました。
「それで行き詰まっちゃってさ、俺らだけじゃどうにも出来そうにないんだ。だから美術部の小川の意見が聞きたいと思って。なんかもう色とか塗っちゃうぐらいでいいと思うんだよな。とりあえず明日資料見せるよ。」
「いいね。面白そう! 映画の美術さんって結構憧れてたんだ。」
私がそう答えて笑うと、彼の顔は急に電気をつけたように明るくなりました。
「本当か? よかった、助かるよ! あ、ちなみに場所なんだけどさ、谷中とかの割と近くに使われてないマンションあるの知ってる?」
「え、あの幽霊マンション!?」
私はそこをよく知っていました。近所では心霊スポット扱いされ、気味悪がられている場所でした。
「ちょっと恐いなあ。でも一度入ってみたい気もするけど……。」
「だ、大丈夫だよ。俺たち何回か撮影に行ったけど何もないってあそこは。いろんな人が撮影とかに使ってるらしいぜ? 俺と橋本もいるし。」
「そ、そうなんだ……。あ、じゃあさ」私は思い立って話出しました。
「佑ちゃ……坂巻さんも誘っていいかな?」
「坂巻? ああ、いいよ。人数多い方が、楽しいしな!」

 電車は朝とは違って順調に走り、日暮里駅の付近まで近付いてきました。その後私は寺尾君とお互いの部活動や進学などの話に花を咲かせました。男の子と話す機会があまりなかった為、最初は何をはなしたらいいのか分からなかったけど、寺尾君と進学の方面が一緒であることが分かると一気に話は弾みました。
「そっか、すごいね。今度の学祭の作品は寺尾君が監督なんだ。」
「いや、監督って言うほど大したもんじゃないんだけどな。でもやっと自分の作りたかった映像が作れるから結構わくわくしてるんだ。」
寺尾君は子供のように笑いました。
「橋本君がいつも撮ってるのも、学祭で使うやつなのかなあ。」
「いや、あれはなんか別の趣味でやってるものらしい。見せてくれたことないんだけどな。」
「橋本君は……ちょっと変わってるよね。気がつくといつも一人でビデオ回してて……。」
「ハッシーは変なやつだよ。映像部の連中以外と話してるの見たことないし、会話噛み合わないこと多いし。でもあいつ、あの若さでプロ並みの映像の知識と技術持っててさ。だから俺は頼りにしてるんだ。」
寺尾君のそういう人との隔てないつきあい方は、とても好感が持てました。
「そういえばさ、ハッシーの鞄の中にいつもさ……」
彼が話しはじめたところで、電車の液晶モニターに「日暮里駅」の表示が出てドアが開きました。
「あ!ごめん降りなきゃ。じゃ明日、楽しみにしてるね!」
私はそう言って慌てて別れを告げ、飛び下りました。寺尾君は少し照れながらも嬉しそうに手を振っていました。
 寺尾君と話すのがこんなに楽しいなんて。これを期にもっと話してみようと思いました。進路も似た傾向だし、受験の相談もできるかもしれません。

日が暮れはじめた谷中の空は、黄みがかった鼠色の雲に覆いつくされていました。まだ雨風は落ち着く様子がなかったので、いつもの近道の橋ではなく商店街へ続く坂を上っていくことにしました。
 台風に関わらず、夕方の商店街はいつものにぎわいを見せていました。街頭や商店の明かりが水たまりに反射し、キラキラ輝いています。私は美味しそうな匂いに食欲を刺激されてしまい、いつもの総菜屋で野菜コロッケを一つだけ購入しました。
 コロッケの包みを濡れないように鞄に入れ、私は大階段を上り家のある方角へ向かいました。寺や古い時計屋などが並ぶ路地を進むと、前方に赤い傘を差した女子学生が立っていました。傘で顔を確認できなかったけれど、遠くを見ながらじっと立ち尽くしてるように見えました。
 赤い傘の横を通り過ぎ、ちらりと顔を確認すると私は思わず声を上げてしまいました。
「佑ちゃん!? わ、びっくりした。」
佑ちゃんは眠そうな目でゆっくりこちらに顔を向けました。
「あれ、直美。」
「何してるの、こんなところで。」
「うん……ちょっとね。ほら、あそこ。」
彼女は住宅街の先を指差しました。
「幽霊マンションのこと?」
「そう。この霞がかった空だと、本当に幽霊みたいだなあと思ってね。」
「確かにそうだね……あ、そうだ。佑ちゃん、ちょっと話があるんだ。あそこの神社に行かない?」

 私と佑ちゃんの家のちょうど間くらいにある神社は、学校帰りの私たちの溜り場所でした。入り口は木々が多く鬱蒼としていて少し不気味ですが、奥まで進むと視界が開けて日暮里の駅と街が広く見渡せます。私たちは夕暮れ時のこの眺めが大好きで、いつも商店街やコンビニで何か買ってはここに寄り道していました。
 しかし今日の天気では見晴し台に行くのは不向きだったので、本殿の軒下で雨宿りすることにしました。鳥居をくぐり薄暗い境内に入ると、むせ返るような木と土の匂いがしました。風は口笛を鳴らし、生い茂る木々を大きく揺らしていました。

「そうそう、コロッケ買ったんだ。半分食べる?」私はコロッケの包みを開き、半分に割りました。
「いいの? ありがとう。」
佑ちゃんは嬉しそうに笑いましたが、その笑顔にも元気のなさが伺えました。コロッケはさくさくして暖かく、雨に濡れた体を温めてくれました。私たちはコロッケを食べながら、しばらく無言で神社の屋根を伝う雨粒を目で追っていました。私たちの食事を狙っているのか、木々の上空をカラスが何匹も飛び交って鳴いていました。
「あのね」私が先に口を開きました。
「明日の放課後、あの幽霊マンションで寺尾君達の撮影の手伝いをすることになったんだ。」
「うん。」佑ちゃんは屋根を見つめながら軽く頷きました。
「佑ちゃん、よかったら一緒に来ない?寺尾君も人数多い方が楽しいって言ってたし。」
暫しの沈黙がありました。
「……うん。行こうかな。誘ってくれてありがとうね。」
 彼女はこちらを振り向くと穏やかに笑いました。私は昨日の橋での光景が脳に過りました。「あ、でも疲れてるなら無理しなくてもいいよ。」
「? 別に疲れてないよ。」彼女は笑いました。
「疲れてるよ。今日だって昨日だってさ、なんかずっとボーッとしてて……話してたこととかすぐ……忘れちゃうし……」
私は心のもやもやした部分を吐き出し始めました。言うまいと思っていても、一度口に出すとどんどん飛び出してきます。
「今日も? 昨日もそうだったの?」
「昨日もそう。昨日のちょうど今ぐらいの時間からだよ。」
「そっか……つまりそこまでって事なのかな……」
佑ちゃんはか細い声で、そう呟きました。
「”そこまで”って何? ”そこから”では無いの? 佑ちゃん、なんか言ってることも変だよ。突然黙ったと思ったら全然違う事話始めるし……。さっきも急に黙って帰っちゃうし。あ、そうだ足の怪我どうしたの? 結構深そうな傷だったよね? なんで一瞬で直るの!? 変だよ! 訳分かんないよ!!」

 遠くで雷が落ちる音がしました。
私は体を火照らせながら、小刻みに息を吐き続けました。佑ちゃんは何かを決心したかのように大きな瞳を見開いて、真剣な眼差しでこちらを見つめていました。カラスの鳴き声はさらに騒がしくなっていました。
「……ごめん。ちょっと言い過ぎたね。今日ずっと引っかかってたからさ……」
私はそう言って大きく深呼吸をし、傘を開いて賽銭箱の方まで歩き心を落ち着かせようとしました。
「あのね、直美。」
彼女は低く地面から響くような声で、口を開きました。
「もし私が時間を”逆再生”してるって言ったら、信じる?」

─────────────────────
続く

文・絵 宵町めめ(2008年)

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