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Gift 11 〜 そして、愛は夢や幻想と同じ「本当は無いもの」に変わる

◎「ほしいもの」を尽きさせない思考の秀逸なからくり

じつは、私たちの寿命には、締め切りや年齢のようなはっきりとした区切りはありません。いうまでもなく、誰も自分の人生がいつ終わるかを知らないからです。平均はあくまで統計の数字であって、すべての人に当てはまるとは限りません。

すでに61歳の私にしても、100歳まで生きるのと、明日にそのときを迎えるのとでは40年もの開きがあります。残された時間があと1日なのか、それとも1万4600日なのかはまったく予想できないのです。

にもかかわらず「なぜ、人生はこれほどまでに短いんだ!」と嘆くとしたら、私はどのような期限を自分に見ているのでしょうか。また、大小や長短は比較する対象がなければ判断できません。だとしたら、何と比べて「短い」と感じているのでしょうか。

どれだけ真剣に考えても「みんなそう言っているし、とにかく短いんだよ!」くらいの乱暴な答えしか出てこないでしょう。じつは、ここに確かな理や根拠はないのだと思います。

たぶん、私たちはこれを、

「人生が十分に長いと思うと安心して怠けてしまう。短いと捉えておけば、油断せずに走り続けられる」

という自分や他の人への戒めとして使っているのです。

前話で、私は「何らかの理由で、無限に供給される時間の特徴を消そうとして、そのまわりに仮想の囲いを築いている」と書きました。ここにその理由があります。

私たちが望む未来の報酬は何もないところからは生まれません。最初に「これが必要!」と感じ、次に「それを手に入れたい!」と思い始めます。「必要は発明の母」というトーマス・エジソンの有名な格言があります。じつは「必要」は発明だけでなく「ほしいもの」の母でもあるということです。

さらに「必要」も単独では出てきません。それは私たちが、

「足りない!」

と感じたあとに現れます。

この一連の流れは、次のような三代の家系図で表せます。

「不足(祖母)→必要(母)→ほしいもの」

ここで、私の中に大きな疑問が浮かび上がってきます。

空のバケツに水を入れる作業と同じように、この図に従って「ほしいもの」を手に入れれば「必要」が満たされ、いつかかならず「不足」も埋まります。だとしたら、この行程には完了する瞬間がなければつじつまが合いません。

ところが、Gift 08で見てきたとおり、思考は際限なく未来の報酬を差し出してきます。それは、私の予想に反して「終わりがない」ことを意味します。なぜ、このようなおかしなことが起こるのでしょうか。

考えられる原因はひとつしかありません。私たちの中から「ほしいもの」が尽きないように、思考はその源泉である、

「不足も作り出している」

ということです。

先の家系図は、やりたいことや手に入れたいものを絶やさないための仕組みと見ることもできます。

ここでは「何が不足しているか?」はあまり重要ではありません。Gift 08で書いた焼き肉でも、旅行の荷物でも、前話の時間でも、とにかく「これでは足りない!」という感覚を抱きさえすれば、何らかの「必要」を経て「ほしいもの」が生まれます。

この秀逸なからくりを保ちたい思考は、区切りがなく、無限に供給される時間の特徴を認めたくありません。たとえ、人生の終わりが決まっていなくても、寿命という仮想の囲いに入れて「短い!」と感じてもらわなければ困るのです。

◎ 愛を使って手がけるものは自分と他の人へのギフトになる

こうしてみると「愛を使わずに動く辛さは未来の報酬で帳消しにできる」と考える第二の対策にとって、足りないという感覚は生命線のようなものだとわかります。

ここを超えてうるおったり満たされたりすると、私たちの頭には「ほしいもの」が浮かばなくなります。それでは、愛に換わるものとして、ようやく見つけた動く目的も失われてしまうのです。

当然、思考は「できるだけ自分をかわかしておかなくてはならない」と考えるでしょう。先の戒め「人生は短いと捉えておけば、油断せずに走り続けられる」も、この方針にぴたりと合致します。ほかにも「現状に満足してはいけない」「安易に自分を高く評価してはいけない」など、私たちに不足を感じさせようとする教訓は山ほどあります。

Gift 09で私は、愛から生まれる想いを発揮すると、

「動くたびに心が愛で満たされ、その満たされた心が別の想いを抱いてまた動きたくなる」

というしあわせな循環ができると書きました。

これを同じ三代の家系図になぞらえると、次のようになります。

「満たされた心(祖母)→愛(母)→想い」

先の「ほしいもの」が生まれる一族とは何もかもが異なっています。

両者の違いについては、言葉で説明するまでもなく、あなたの経験に聞けば納得できるはずです。自分自身に不足を見て、生活する環境や、信頼できる人々や、所有しているものが「足りない!」と感じる渇いた心は、愛を使うことができません。

愛は満たされた心からのみ発せられます。

より正確には、

「愛とは、潤い満たされた心のもうひとつの名前」

なのです。

その心は、自らを満たしているものを惜しみなく与えようとします。Gift 09で書いた「思い入れ」や「こだわり」とは、手がけている対象に創意や工夫や感性など、自分のもっている形のないものを与える行為にほかなりません。

同時に、動きながら、やりがいや手応えや「いいものを作れている!」という喜びを自分にも与えています。さらに、そうしてできあがった結果の多くは、それを受け取る人に贈られていきます。

だからといって、何かを失ったり奪われたりすることはありません。私たちの心を満たす形のないものは、どれだけ与えてもなくならないだけでなく、先のしあわせな循環によって、

「与えればあたえるほど増えていく」

からです。

真に学ぶことが好きな人は、自分が得た知識を「誰かに伝えたい!」と思うようになります。しかも、優れた教師がそうであるように、他の人に教えながら学んだ事柄に対する確信を強めていきます。

心から楽器を愛する人は、演奏を自分のためだけに隠しもっておこうとは考えません。腕がどうあれ、いつかかならず「誰かに聴かせたい!」と思うときがきます。もちろん、本番のステージに立つたびにその人の技術は磨かれていきます。

愛を使って手がけるものは、意図しなくても自分と他の人への、

「ギフト」

になるということです。

とても残念なことに、第二の対策によって、私たちの動く目的はギフトではなく「何かを得るため」に変わってしまいました。その瞬間に「与えれば増える」というしあわせな法則も信じられなくなります。これが「際限なく増え続ける報酬」が私たちにもたらす最後にして、最大の変化だと私は考えます。

前話で見てきたように、大切な時間を失う不安は私たちを愛から遠ざけ、寿命の短さへの激しい怒りは愛を粉々に砕きました。これだけならまだ、愛は距離を置いたり抗ったりする「るもの」と認められています。おそらく、その欠片かけらや影くらいは私たちの中に残っているでしょう。

けれども、不足が尽きないように満たされることを禁じられた心にとって、愛はもはや、夢や幻想と同じ「本当は無いもの」に見えてしまうのです。

これでようやく、Gift 06から6話にわたって続けてきた「けっして見過ごせない問題」の探索が終わりました。次話では、ここまでの流れを整理したうえで、解決に向けたしあわせな道筋に光を当てます。

(次章に続く……)

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