我が妻との闘争 番外編「旅立ちの日」

 長男ちゃんが高校を卒業し、就職難と言われるこのご時世で、なんとか学校からの推薦で就職が決まった。

 本人の努力もあっただろうが、嫁の強い意向で始めたスポーツで、中学時代に県代表の全国大会まで進出できたことが内申書に大きく響いたようである。

 ここでは詳しく書けないが、テレビコマーシャルでも目にする企業なので送り出す方としては、ひとまず一安心で夫婦揃って胸をなでおろしていた。

 入社式を終えたら半月の研修生活を経て、二人一組の寮生活になる。研修期間中は携帯電話も会社に預けるので、こちらには様子が全くわからない状態になる。そして外出するにも会社に届けを出さねばならず、そうなればこの家にも頻繁には帰ってこれないだろう。

 朝の十時、旅立ちの朝だ。私は一階のリビングで本を読んでいた。すると二階からパジャマ姿で長男ちゃんがおりてきた。いつの間にかデカくなって、身長はとっくに私を追い越している。

「おはよう。いよいよだな」

 目をこすりながら、まだ眠たげな様子で長男ちゃんがリビングに入ってきた。

「おはよう、あのさ、父さん」

「なんだ?」

「今までお世話になりました。ありがとう」

 急にそんな事を言われても、こちらは不意打ちの格好となり、まだ何の心の準備も出来ていないのに、本を両手で持ったまま、上手い返事を思いつくわけでもなく、ただ情けなく「あうあう」としか言えなかった。

「ホームシックになるかもしれないけど、頑張ってみる」

「お、おう。頑張れ。そしてな、寮生活になるだろう。その場合にな『相手が厭がることは絶対にするな』これを肝に銘じておけ」

「分かってるよ」

「例えばだ、お前が今レトルトカレーを温めた電子レンジ。あれ、今扉開けっ放しだな。これを相部屋の相手がだな『オマエさ、扉閉めろよ』って言われたとするよな」

「うんうん」

「お前は『なんでそんな事で怒るんだろう。俺はそんな小さいことで怒らないのに』って思うかもしれない。でもな、人はそれぞれ怒りスイッチやポイントが違うんだ。寝起きする部屋が一緒なら尚更だ。だから最初によく話してルールを決めておけ」

「分かった。なるほどな」

 長男ちゃんは何度も頷いて話を聞いていた。

「そしてな、他人には親切にしなさい。それから『四知』を知りなさい」

「何それ?」

「天知る、地知る、我知る、人知る。つまり人が見ていない所でも胸を張れる生き方をしなさいってことだ。まぁ詳しくはググれ」

 長男は笑いながらレトルトカレーを頬張った。

 先ほどから長男ちゃんのスマホが鳴っている。おそらく彼女からラインのメッセージが届いているのだろう。私が18歳の頃は、そんな彼女などいなかった。どんなことでも父親を越えていけ。それが一番の親孝行だ。

 机の上で私のiPhone6プラスが鳴り響く。午前中は仕事の嫁さんからの着信であった。

「なんだ? どうした? 仕事中じゃないのか?」

「今トイレからかけてる」

 嫁はドッキリテレビ番組のアイドル寝起きレポーターのような小声で電話をかけてきた。

「長男ちゃんは起きたか?」

「起きたよ、今カレー食べてる」

「カレーにチーズを乗せてやったか?」

「いいや、別にそんなことしなくてもええやないか」

「最後の食事くらい豪華にしたれやーっ!」

 さっきまでの小声がまるで無駄のような大声に切り替わった。隣で用を足している女性がいたとしたら、ひっくり返って足を和式便器に突っこむくらいの大声だ。

「トイレに誰か入ってきた。切るで。チーズ忘れんといてや」

 マシンガンの様に用件だけ一方的に言うと、電話はそこでプッツリと切れてしまった。

「お母さん何て?」

「お前のそのカレーに、チーズを乗せ忘れたおかげで母さんに怒られたよ」

「チーズなんて別にいいのに」

 長男は笑いながらではあったが、その目にはすこし寂しげなものが滲んでいた。チーズみたいな小さな心遣いでも、母親からの優しさが届いたのだろう。そうだ、お前は今日からこの家を出る。明日からはなんの庇護もなく社会の荒波に揉まれていかねばならない。こういう優しさを感じるのは『家族からだけ』ということも、これから気付いていくことだろう。

「お母さんは見送りは?」

「仕事昼で終わって一時に駅で合流だ。忘れ物はないか最後に確認をしとけ」

 それからは二人で最終確認だ。入れ忘れたものをスーツケースに詰め込んで、鏡の前で親子並んで立ち『ネクタイの早くて上手い結び方』を伝授してやった。

 背中にはリュック、片手にはボストンバッグ、そしてもう片方の手でスーツケースを転がしながら駅で切符を買う立派な背広姿の青年。まるでよその子のようだった。この前まで小さかったあの子が。時が流れるのは早い。

 嫁さんは駅のロータリーで既に待っていた。目元は真っ赤で泣きはらしている。ハンカチで何度も涙を拭いていた。

「母さん、そんなに泣かなくても。兵庫支店勤務が決まってるのに、近くだよ」

 可能性としては関東支店や九州支店の配属もあったのだ。兵庫支店で嫁さんのこの涙だ。これが今日、九州行きの別れだったらどうなっていたことか。長男ちゃんのズボンにすがりついて、駅のロータリーでパンツがずり落ちるくらいに引っ張ったのではないだろうか。

「それじゃああと10分で電車が来るから。中に入るわ。今までどうもありがとう」

 嫁さんは大泣きで声が出ない。後ろから私の肩をつついてきた。子供に言葉をかけてやれ、という合図だ。

「まぁ寮生活だ。男を磨いてこい。一人前になるまで帰ってくるな」

 その言葉を言い終わらないうちに、私の左尻に激痛が走る。嫁のフライングニードロップが私の左ケツに炸裂したのだ。尋常ではない痛み。ケツ筋は『さけるチーズ』のように一部裂けてしまったのではなかろうか。

 振り返ると嫁が眉間にシワを寄せながら、声を出さずに口元だけを動かす。私に読唇術の技術はない。『は?』という顔をしながら、嫁さんの口元を見て必死に読み取った。

『なんちゅうことを言い出すんじゃボケ』

 と繰り返し口元を動かしているようであった。私は慌てて発言を撤回する。

「というのは建前で、ご飯を食べにいつでも帰ってこい」

 長男ちゃんは見慣れた我が家の風物詩である『喧嘩コント』を涙目で名残惜しそうに見つめながら、片手を上げ改札口へと歩いて行った。ハンカチを噛みしめる嫁さん。親指を立てる私。

 動き出した電車を夫婦二人で見送った。長男ちゃんは小学生のように窓際に立って、こちらに向かって手を振っていた。素直に育ってくれたものだ。

 家に帰って、嫁さんはよっぽど別れが寂しいのか、リビングに座って虚脱状態になっていた。私はそっとしておいた。

 掃除機をかけ出したのは夕方である。そして二階の部屋を掃除中、嫁さんが使われなくなった長男ちゃんの机の上に、置き手紙があることを発見して慌ててリビングにおりてきた。

 封筒には『大好きな家族へ』と書かれていた。私、嫁さん、長女ちゃん、次男ちゃんが頭を寄せて置き手紙を読む。

 お母さんへ、今まで塾の送迎やら美味しいお弁当をありがとう。口うるさかったけど、お母さんには感謝しています。

 お姉ちゃんへ、兄弟分け隔て無く接してくれてどうもありがとう。おやつの取り分がケチで腹が立ったけど、全部がいい思い出です。お姉ちゃんの友達作りの早さと上手さが羨ましかったな。会社で友達できるかなぁ。

 弟へ。最後まで喧嘩続きで悪かったな。口では嫌いじゃ、とよく怒鳴ったけど、お前のことを嫌いになったことは一度もありません。勉強は俺の方が出来たけど、運動神経抜群のお前に俺は嫉妬していたかもしれない。家のこと、よろしく頼むな。

 それからお父さん。お父さんには可愛がってもらいました。タンスの奥にお父さんが少ない小遣いから買ってくれたガオレンジャーの合体おもちゃ、まだ残っています。そしてよく開放倉庫に連れて行ってくれましたね。いつも家族の為に夜遅くまで働いてくれてありがとう。お父さんのような社会人を目指して頑張ります。

 思いがけない手紙の出現に家族一同で驚いた。夜中にこっそりと見つからないよう、便せんに書き綴ったのであろう。それを部屋の机に置いて旅立つ。嬉しいような照れくさいような。

 嫁さん、長女ちゃん、次男ちゃんは素直に感激を言葉にして、次々に家族ラインでメッセージを飛ばした。

「アンタ、なにボヤボヤしとるねん。あんな手紙もらって嬉しくないんか? なんで返事を送ってやらへんのじゃ」

 私は涙で少しぼやけた視界のまま、iPhoneを片手にメッセージを打つ。

「お前が部屋に残していったプレステ3とバーチャファイター5、あれ、お父さんが使うわな」

 母さんは「なんちゅう的外れな返事を書いとるんじゃ」と父さんに怒ったのだが、まぁ察してくれ。お前からの手紙を読んで泣きました。なんぞ、恥ずかしくてとても書けなかったのだ。

〜終劇〜

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呉エイジ

呉エイジセレクション

長年書き溜めた文章の中で、幾分出来の良いものを集めてみました。

コメント3件

泣けました。
有難うございます!ひびきさんの琵琶湖の怪談も楽しく読み始めたところです。どうぞよろしく。
こちらこそどうぞよろしくお願いいたします(^.^)
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