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屍の再発明

いち理想論者として、生意気ながら、個人的な教育思想について語ってみようと思う。それから自分自身の仕事との向き合い方の一部であるとも言ってきたい。
いまだ桃源郷を夢見る馬鹿な若造の戯言になります。

まず語り手の立場経歴を説明させて欲しい。仕事をしていて、もちろん最初に教わる立場、ありがたいことに教える立場、実践として自立した立場、そして再び教わらなければならない立場、といった割と稀有な経験を積んできた。さまざまな教育者を見てきて、また教育する側に立ってみて、教育のあるべき姿や、個人的に抱く幻想を話してみたいと思う。

いきなり過激な主張で恐縮ではあるが、教える/教わるという絶対的な上下関係はあまりにも無意味だと言いたい。親と子、先生と生徒という構図には、まるで教える側が上で、教わる側が下である、といった心理的なヒエラルキーが発生してしまう。前回のnote『言葉』でも語ったが、まずは同じ目線で話が出来る状態を構築することが大前提で、心理的安全性の形成が何よりも優先されるべきである。
言うまでもないが、上下関係はなくとも、いち社会人としての礼儀は絶対的に必要にはなる。これを構築するには、教える側(便宜上、立場が上にある人間と表現する)が上下関係の壁をぶち壊すところでしかおそらく方法はない。

教わる側は、教わる内容自体を経験をしていないから出来ないのは当たり前で、さらに言えば得意分野や専門分野が違うのは当たり前で、「まず経験を積め」や「勉強をしろ」といった話は、教える側が教えるのを放棄しているのとなんら変わりないのではないか。
教える側本人が5年かかって習得した技術のコツを教えるのにわざわざ5年かける必要はない。
そして、技術も見ずに“経験年数だけはいつまでも下であり続ける存在"に安心を覚えるほどの仕事なんてしたくないと思う。

単純作業における妥協点への踏破は実際のところそれほど難しくもない。というか、単純作業にそれほど差なんてものは生まれないほどに単純化されているようにすら感じる。
もし、単純作業がまだ難しいのであれば、難しいことをいつまで難しい方法でやっているんだ、もっと簡単に楽に妥協点へと辿り着ける方法はあるのではないかと模索する段階であって、まだ未経験者に教えられるものではないと思ってしまう。
そんな単純作業を教える立場にある人間の目線に立ってみると、頭で理解しなくとも慣れたら出来る技術と、頭で理解して応用が出来る技術があまりに混同しているように感じる。ゆえに難しいことを難しい方法でやっているとも気づきにくいのだろうと思う。

それから、教える立場は教わる側が何をどこまで理解していて、どこが足りていないか、落とし込みや解釈に間違いは無いかを見ることも挙げられる。知識という武器をいくらたくさん持っていても、どこに使うかがわからなければ持ち腐れていってしまう。長所はもちろん、短所ですらも武器にすることが出来れば、教育者としてこれ以上の成功はないだろう。その武器を活かすことが出来るという話は、個性を活かす話へと繋がってくる。

技術を教えるプロセスとして、これさえ出来ればイレギュラーにも対応出来るやりかたが必ず存在していて、本質(コツ)を抽出する一点にあるように感じる。葉を教えるのではなく、幹を見せることで葉も自然と成就させられるだろう。
しかし実際、先人にもなぜ出来ているのかはわからないが慣れと経験で出来てしまっている技術も存在する。
いまに生きる教育者が担うべき仕事は、後者に自分らと同じ時間をかけて教えることではなく、それがなぜ出来ないのか、またはなぜ出来てしまっているのか、といった先人が残したなぜを問い続けることだと思う。
そして、妥協点よりさらにレベルの高いものを作ってみる作業自体をそのまま個人的な遊びにすら出来てしまうだろう。
教える側が5年かけて習得した技術を1年で教えることが出来れば、教わる側は4年分多くの"なぜ"を問い続けることが出来るようになる。その作業及び構図こそが、多岐にわたる進化の具体性を上げていく方法に直結している。

わずかながら教える立場を経験出来たのは仕事をする上でとても大きなものになったし、きっと至らない点ばかりではあっただろうが、後悔することは何も残っていない。それほどまでに自分自身の立場の保守やプライドもなく、いち早く教えた相手を"なぜ"とと問わせられるように、自分自身と同じ目線にまで引き上げることが出来た…、と思っておきたい。

もちろん、物事を進める上では先人の知恵があってはじめて後者がそこに辿り着けるのは重々理解しているつもりではあるし、正直、素直に感謝する以外に出来ることは何もないとも思っている。その感謝を伝える手段のひとつには、先人の到達点より一歩でも先に進められることであり、さらには自分らが倒れた跡をヒントに、そのまた後者がまだ見ぬ先へ辿り着かせる道筋を立ててやるのが、いまに生きる教わる側が担うべき仕事であると言える。


物事の進化/深化/洗練において、人間ひとりだけではあまりにも時間が足りない。
そうは思うが、たまたま流れ着く先がいつも恵まれた環境であるようにも感じている。師を超えて初めて、「教えていただき、ありがとうございました。」と言えると思う。そしていずれ大きくなった後者を見て、潔く、安心して倒れられるようになりたいと思う。後輩の武器が輝ける舞台を作って、やっと静かに眠ることが出来るだろう。

そんな理想の世界があったら、いいな


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