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言葉

言葉の不自由さについて思案する。

例えば、同じ言語であっても上手く伝わらない場合がある。話し方の抑揚だったり、言い回しだったり、または長話であるほど伝えたい本質部分が薄れてしまうからであろう。一体何が言いたいんだろう、と思う。
受け取り側の目線に立つと、相手の表現から自分の言語に落とし込むまでに、解体して再構築するまでの理解を挟む必要がある。そのやり取りには「この理解で間違いはないですか?」の確認作業が必要となる。
何かを伝える為には、教える側が教わる側と同じ視線の高さまで“降りて”、または聞く側が話す側の目線まで“降りて”、初めて言葉のキャッチボールが成り立つ。

このnote自体もそうであるが、なにかそのひとの表現したい“本質”の部分を語るとして、読み手であるあなたの中にある言葉でなければ理解はされないから、やはり同じ内容のお話を色んな形で表現しなければ伝わらないと思う。変わらず同じ話を違う表現にしてみたり、芋づる式で“本質の周辺の説明”を語っていることが多い。
そもそも、何より、同じ単語自体を同じ意味で使っているとも限らない。事実として、伝えたい側も聞く側も、相手の目線に“合わせる”必要があると言える。
このとき理解が出来ない相手が馬鹿だという感情になってしまう場合があるかもしれないが、もちろん誰もが同じ人生を歩んでいる訳ではないし、もちろん同じ体験をしたところで同じ感情が生まれる訳ではないだろう。結果に至るまでの通る道だって違うだろうし、たとえ同じ結果になっても方法は異なってくるのはほぼ違いないだろう。あまりに当たり前すぎてもう言いたいことも解っていただけるかとは思うが、その違いを馬鹿だと揶揄するのはあまりに早計で、そういう方法もあるがこっちが良いと呼べるのであれば、馬鹿だと揶揄する必要もなくなってくる。ひとつしか知らずに他を間違いだと言うか、たくさんあるやり方の中からベターを選べるかの違いがある。新たな方法の為の空白としておける選択肢を、新しい方法の為の空席を残せる余裕さに私自身は相手の賢さを感じることができる。

色々な本を読んでいて、本に限らず芸術などもそうであるが、何かを考えた先に自分で導き出した答えが名著と呼ばれる本に書いてあったり、古くからの著書に残されてたりすると嬉しくなる一方、やっと著者と同じ目線に立てただけか!みたいな途方も無い広がりを感じて何も言えなくなることがある。noteを書いてみて思ったが、毎回全てを出して書ききっている訳ではなく、言葉を選んだり、重要ではないことを省いて表現する場合がある。いつだって「語弊を恐れずに」言っているが、言葉の齟齬無く伝えるのはこちらの技術力も、読み手の不明瞭さも相まってあまりに難しいと気付いた。同じ目線に立てたところで書き手は省略をしているのではないか、さらなる拡がりがあるのではないか、と思案してしまう。話に抽象さを加えることで、相手の考える余白(読み手への空席)を与え、読物にさらなる拡がりを残すことが出来るだろう。もちろん小説などの筆者以外に誰の手も加えられない完成しきった静謐な世界観を否定するつもりもない。それにもまた魅力がある。ただ、考えることや、表現として、相手の中にある言葉でしか正確に表現することが出来ないという前提条件が存在しているのである。だからこそ本質を伝える為には、同じ話を違う表現で続ける必要がある、と言える。

さらに言えばこの現象は自分自身にも当てはまると感じることがあって、自分の考える思想をもっと理解してやりたいが、まだ自分の知らない言葉でないと上手く精密に表現しきれない、繊細な感情を持っているのを感じている。しかしこの感覚を表現しようと求めてみると何を思案していたのか理解出来なくことがある。追うほどに離れていってしまう。そんな断片の、微妙にハマりきらないピースが散り散りと転がっている。これを表現する言葉を知っている誰かを借りて、やっといつか表現出来るようになって欲しいと願う。このとき、誰かに染まって何も感じなくなってしまったり、それだと決めつけてしまうと、自分が自分を辞めてしまったらいなくなってしまっても構わないと思えてならない。あなたも含め、そのひとの感想や感情や感覚をそのひとが感じて初めて、そのひとなのであって、そのひとの内に発生した“それ”はあなただけにしか奪えないガラス玉である。落とさないように磨き続けてみて欲しい。
自分は手よりも先に頭が働いてしまってまず全体の道筋を立ててからでないと動けない。(一長一短なのでどちらが良い悪いの話ではない。)そのとき考えた問題が自分の中でだけで解決される程度の問題であるとき、答えまで行き着いてしまうことがある。もう試すだけの段階になったときの表現をしたとき自信過剰だと揶揄されることがあるが、答えに自信がないから試そうとしているだけであって、出来る方法の範囲内でしか動けない人間、もっと言えば、失敗を恐れて必ず成功する方法しかやる度胸が無いのに、その方法がまるで1番正しく、かつそれしか答えがないと言えるような人間に挑戦を止められる筋合いはない。軽トラで200km/hを出すより、スポーツカーに乗ったほうがよっぽど“楽に”到達出来るだろう。他人の空席も用意せず、その程度で「理解が足りない」なんて言えるほど「あなたは自信がある」んだねと解釈するのは至極自然なことなのではないか。だから「馬鹿ばかりだ」と思う。設計図を踏み躙られ、船は壊され、出航が出来ないといった以前のnoteと同じ内容を違う表現に書いてみたがどうだろうか。それとも、『チーズはどこへ消えた?』と表現するほうが上手く伝わるだろうか。

さて、ここまで全て喩え話ではあるがそんなふうに、稀にガラス玉の形を変えてきたり、割ったりしようとする人間がいるとする。他人の「あなたはこういうひとだ」というニュアンスを含む意見すべてに対して、嫌だと感じたりそんなつもりはなかったと思う時点で、なりたい自分や本来の自分自身の輪郭がぼんやりと見えてくるのではないか。「指の先を見るのではなく、指を差す先を見る」方法として“ひとつの私の解答”とさせて欲しい。いくつかのnoteを積み上げてみて、やっと「本質のあたり」を「指差す」ことが出来たように思う。濁った水に溶けた輝き続ける透明のガラス玉を掬い上げて、胸の奥底にしまっておくとしよう。

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