邯鄲夢

われわれはわれわれにとって可能な空間の内部にあることに充足している。にもかかわらず時間については、われわれにとって可能な時間の内部にあることに充足しない。この遊星とその周辺とが人類の空間であり私の生活圏が私の生きる場所であるように、この有限な人類史が人類の時間であり私の数十年が私の生きる時間であることに、どんな必然的な悲劇も存在しないはずなのだ。

僕は、大人になれない/備忘録
aiko ばいばーーい 歌詞考察
インサイド・アウトサイダー
愛とは
どこ?
『愛とは』沈思黙考/断想
からっぽ
怒りの構造
サガンの言葉/雑記
自販機
没頭
言葉
屍の再発明
aiko あたしたち 歌詞考察

これまで書いたnoteにもあるように、虚無に対する接し方をたくさん考えてきた。視点を変えたり、近くで観察してみたり、遠ざけたり。長くなるが、前提の内容としてのお話になるので目を通してからこの先を読んで欲しい。もし読み終えてくれるひとがいるとしたら、何か感じ取ってもらえればそれ以上に嬉しいことはない。


邯鄲夢
人間が車を運転していて交通事故を起こしそうになるとき、「障害物を避けようと見つめることで無意識のうちに寄ってしまう」らしい。何よりも虚無を意識しないこと、忘れて知らないでいることが、最も虚無から離れられる方法であろう。
他人と比較をせず、目の前にあるご飯を食べられて、一緒にご飯を食べている相手が笑顔でいれば、「たとえ傍(はた)から見て貧しく不幸せに見えて」も、傍から見た人間の主観なんてものはその程度でしかなく、不幸せな人間よりかは幸せだという不幸せな頭に囚えられた不幸者でいるのであって、お腹が満たされ笑いいま眠りにつけるだけで幸せで一杯になれるような、他人より恵まれているなんて発想すらも生まれない環境にいられるならば、本人にとってはそこがどの世界よりも最も幸せであるに違いない。

しばらく時間について考えていた。上の引用文は、真木悠介 著『時間の比較社会学』にあった文章である。いま私の認識している空間において、自分はこの空間しか見えないのかとは思ったことがないし、そもそもこの発想すら持てる人物はいるのか疑ってしまう投げかけに思えた。
しかし、普遍的に「人生」と括られる数十年においては、「元気なうちに思い残したことをしておけばよかった」とよく聞くように、人生は後悔が残るものである場合が多いと先人が言っている場面を見かけたことがある。きっと、終わりを迎えるときには、まだ生きていたかったと満足は出来ないものなのだろう。

個人の死生観について語るつもりはないが、自分はビジネス書を読んで「終わりをイメージ」することを覚えた。これは身勝手な拡大解釈による弊害ではあるが、もちろん仕事をすすめる上では闇雲に手探りこなすよりも、完成形に向かってぼんやりと向かうのが効率が良い。
すべての物事に言えるが、ある物事の本質部分はそれぞれ立体球形をしていて、多角・多面的に視点を変えて見ることによって具体性が上がり、角がなくなっていずれ無限多面体となり滑らかな立体球形となる。個人の主観なんてものはいつも、物事の一面しか見られない狭小なものでしかない。知識の豊富さや繊細さは、疑問や矛盾による多面体に引っかかりがなくなることと言えるように思う。多様性、多方面の具体性や進化といった『屍の再発明(教育思想)』の話に繋がる。

終わりをイメージする、もしかしたら極端なあまりに笑われるかもしれないが、ひとり暮らしを始めた当初は「2年後の更新で部屋を引き渡すから最小限のもので生活をしよう」と意気込んでいた。ミニマリズム・ミニマリストの考え方に共感して実践に移したまではいいが、「本当にやりたいことにノータイムで着手するための身軽さ」ではいられなくなった歪んだミニマリズム思想に囚われただけであった。これでは「自分が本当にやりたいことはやがて死を受け入れることのようではないか」、と。100年近くも暇つぶしをするのか、と。
だが決して悪いだけのものではなかった。メリットについては検索すればいくらでも出てくるのでここでは割愛させてもらう。
ちなみにではあるが、なんだかんだで部屋は更新したし、馬鹿みたいに贅沢なチェアを買って過ごしている。

いまの社会の流行として、より効率的に、より合理的に進めていって、最後に最大限の利益をいかに享受するかという考え方が主流であるように思うが、じゃあいまはどうなるの?我慢?なんて最悪の思考に至る。たしかにひとつの方法として間違いであるとは言い切れないが、人生にまで終わりをイメージしながら生きるように当てはめて窮屈な時間を過ごしていると、やがて来る死を想像して虚しくなってゆくのも無理はない。この視点からくる虚無感については納得させられた。
失って悲しいものがあるとそれぞれが実感しているように、死が必然的に悲しさを伴うとは今更言うまでもないだろう。しかし、悲しみは悲劇ではない。このあたりはセネカ著『人生の短さについて』を参考にされたい。

『没頭』でも語ったように、人生は思い出せる出来事、思いを馳せている・思いに耽っているときというのは、その「過去」に「いま立ち会っている」と言え、感情を揺さぶられて思い出せる出来事が多いほどに、縦軸としてレイヤが重なるほどに満たされた人生だったと後悔なく終わらせられるように思う。
『愛とは』で語った「精神がそれと同じ形になる」、無意識下に誰かがいるという話にも似通った部分があるが、過去にいる自分をいま再度体感しているような状態であると言える。

話は逸れるが、動物は「いま、その場」を生きていて、その場に発生した感情は人間とは比べ物にはならないくらい瞬間的に「潜在的な反応」と移り変わるだろう。なぜ怖いのか、なぜ懐いているのか、過去になにかがあったからだとは言いにくく、感情として残るものは人間にくらべて少ないように感じる。

近い話で言うと、子供に旅行をさせるのは記憶に残らずもったいないという意見を耳にしたことがある。でも記憶は連続性があって、「いま」これをしたから、「いまの過去(思い出)で何かに興味を持つ」ことは十分に考えられる。「1」に興味が持てなければ、「2」への連続性には興味は持てないし、「10」の関連性には気付けないし、「数字」を知ろうなんて考えにもならない。数珠繋がりに興味は拡散されていくだろう。だから決して記憶に残らないから無駄になってしまうようなことはない。いや、生きている実感を得るためには思い出が必要不可欠だとはっきり言い切れるだろう。

記憶が思い出として「いま」、「過去にいたその場所に」立ち帰れるのであれば、子供にも大人にも同じことを言えるし、人間として出来る人間らしい生き方であるように思う。
過去は、過ぎ去ってしまった時間というよりも、いつでも立ち返ることが可能な潜在する現在ある時間であって、過去と同時にいまを生きていると言えるだけの時間を過ごすほどに豊かだったと言えるように思う。
たとえば虚無感を覚えるときに口から出る言葉に「こんなことをやっていて無意味じゃないか」があるが、人生、ひとつの大きな大きなパズルの完成させるピースであって、いま無意味と感じるようなことであっても完成品を見たときには全体のバランスを支える重要なピースである可能性は「現時点では」捨てきれず、「まだ」分かるはずもない。
そして人生が無意味だなんて発想は、この完成したパズルはどこのピースにハマるんだろうかと探している状態であまりにナンセンスだと感じる。
一年後、いま無意味だと感じた出来事を思い出して数珠繋がりの何かに咲く種となっていると思うと、楽しくない時間も自分自身が自分を操縦して過ごせるのだと思う。

仕事をするときに終わりから思い描くと先述したが、この本は時間の捉え方からくる虚無感があるという視点を教えてくれた。そのなかでも個人的に印象に残った部分は以下の通りになる。

・虚無化してゆく不可逆性としての時間了解
・抽象的に無限化されてゆく時間関心

時間は始まってから終わりに向かっていつも一方通行で、直線的であって、いつか必ず終わると誰もが理解しているが、いま生きているこの瞬間がこれから過ごす時間のなかで最も若い時間を生きている実感はあまりないだろう。いまに注目すればするほどにやがて来るゴールは視界に入りにくくなってくる。ぼんやりとピントの合わない視界は「この快楽はいつまでも続く」という無意識下の発想に着地するし、終わり際に「もう終わってしまうのか」と後悔する原因にもなる。

この本を読んでひとつ疑問を持った。抽象的に無限化されてゆく時間関心、終わりを思い描くことの幅を決めること自体も難しい話だと感じた。
恐竜がいつの日か絶滅したように、個人の終わりを思い描けば虚無感になるし、人類史としての終わり、地球の終わり…。具体的に言えば、エコ活動なんかも本質的に言えば終わりを恐れた活動であろう。
なにかが始まりやがて終わる、この区間・幅を設定すること自体が始まりと終わりを決めることになる。物事はいつも破壊と創造の繰り返しではあるが、無限がひとつ、またひとつ、すでに有数であるので無限とは言えない。人生とは、ゴールは、一体どこにあるのだろうか。
人生を諦めた人間の言葉で「生まれ変わりたい」「やり直したい」といった話を散見する。たとえばすべてを忘れてそのひとがそのひとでなくなったとき、そこにいる人間は誰か。
答えは、いまそこらで新しく生まれてきた赤ちゃんと変わらないように思う。その赤ちゃんには赤ちゃんがこれから歩むであろう人生があって、そのひとにはそのひとなりの悩みが生まれ、苦しみ、笑い、怒ったり、泣いたりもする。そのように当たり前だがやり直したから上手くいくわけでもない。
ゴールは、いま目先よりも一歩先が幸せになるために生きている状態こそがゴールであり、また先に新しいゴールが見えてくる。もっと言ってしまえば、常に半身はゴールに入っているとも言えよう。

人生の目標なんていま分かるはずもなく、目の前の人間を幸せにしてやることで自分がいま幸せを感じられるのであればそれですでに人生のゴールで良い。
人生が、『人生とは』と語られるほど浅いものでは無いと思うし、そう言い切れるほど多面的に味わい尽くしてやろうとも思う。

ここのところ自己解剖というか、自我の再構築が出来ないかと探っていた。理屈寄りになっていると自覚していて、知識を取り入れるほど頭でっかちになって身動きが取れなくなっていく感覚があったからである。
当初の思惑としては「視覚にないものを見たい」という意識だった。意識にないものはたとえ存在していても関心が持てずに見落としている(だろう)=見えていない状態を嫌っての考えで、子どもや動物が歩くだけで目を輝かせるような無垢のバイアスを大人が実際に体感するのはもう難しいことだなと感じている。

2年後の部屋の更新を視野にいれていまを蔑ろにし、眼前に迫るとでも言いたげなほどまさにいまこの瞬間死を待って生きているような生活をしているくらいはいまに執着がないと語ってきたことからも分かるように、最近すごく不器用な出来事があった。凝り固まった頭を再構築するためにスーパーで「なんとなくいいな」と思ったものを手当たり次第カゴに入れてみたら、本日中にお召し上がりくださいのようなものだけで3日分くらい買い込んでしまった。やっと食べ切れたが、発想から実際に行動を起こしてみてあまりのちぐはぐさにはいつ思い出しても笑えてしまう体験となった。

再構築の話の続きとして、最近よくお話させてもらっている方が興味深いことをお話されていたので紹介させて欲しい。
もしここまで読んでくれているひとがいるのであれば、いま頭の中でサイコロを振ってみて欲しい。すると、何かの目が出る瞬間には何が出てほしいかを願っているだろう。
誰かの話を聞いたり、物語に触れて面白いと感じるときというのは常に意外性を孕んでいる。自分の意志で頭の中で振られたサイコロの目はいつも、自分の意志に沿った目しか出ない。何が出るかを願っている時点ですでに用意された目であるように、それくらい自分を再構築するのは難しい。確かに、興味のままに色々と触れてみるのは面白い。その点においては、子どもや動物を羨ましく思う。
子どもや動物の純粋な興味を見ていて思うが、そのひとが何かに対して興味を持った、"引っかかった"ときに、「なんで?」と聞いてしまうクセがあって、純粋な興味に対してはあまり良くないなと思っている。
気付いたら3日分の食料を買い込んでしまっていた意外性も、必死に食べきった不器用さも、クスリとしてしまうような出来事を含めて、「なんか面白そうだから」という理由だけで動機としては十分だし、大人が使ってみても別に問題はない。
理由のいるものいらないものがどちらもあるのは分かっているが、実際にサイコロを振るような選び方も実は面白かったりするんじゃないかと思う。
もちろん、大衆を相手にしていて、相手を納得させて動かす上では自分自身の意思決定という意味で理由は不可欠にはなる。本の選び方にしてもタイトルだけで適当に選んだり、棚の端から視界にいる人間の数だけ真ん中番目、のように買ってみると思いもよらぬ出会いがあるかもしれない。そんな「机の上で実際にサイコロを振るような」無作為なランダム性に魅力を感じている。それこそが見落としている自覚がないものを再発見するきっかけであって、自我の再構築に繋がると思う。
知らないものを知りたいというか、視野にないもの、無意識的淘汰が非常にもったいなく感じる。ポジティブな意味での未知への知識欲というか、そんな健全なギャンブルに挑戦する身軽さを持っていたいし、面白そうと感じられる鋭敏なアンテナでいたいなと思う。

その昔にひとが自然を見てうたを詠んだように、もしひとがひとと関わらなくなったら、いまの環境で湧き起こる感情のうちから無くなったり、逆に新しく生まれる感情はあるのだろうか。最初の幸せの感じ方の話に戻るが、他人との比較からくるもの、主に怒りに似た感情は対人からしか生まれないと思わないだろうか。一体誰が昼寝をする猫を見て怠け者だなんて思うだろうか。自然を見てうたを詠む時代には、実際にどんな感情を体験できたんだろう。いま、この瞬間だけに焦点を当てられたならどれだけ自分の内から楽しい感情が発生するのだろう。

長々とこのnoteを書いてみたが、没頭して楽しいと思える時間を過ごせた。それだけでもう十分だろう。いつかまた思い出すし、未来に読み返したときは再びいまに立ち戻ることが出来る。大きなパズルを完成させるためのピースになるかもしれない。それで、それだけで、良い。

われわれが、現時充足的(コンサマトリー)な時の充実を生きているときをふりかえってみると、それは必ず、具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された「自我」の牢獄が溶解しているときだ

視野にないものを全部見て、もしこの世のすべてを吸収できたとしても最後には「何も知らないほうがよかった」と思ってしまう気がする。そして、自己欺瞞に溢れ、自分の居心地の良い理屈だらけのユートピアに頭の天辺まで浸かりながら「これでいいのだ」と荒廃した現世に野垂れ死ぬだけ。最後まで、こんなはずじゃなかったと思うだろう。
それでも、自分の認識している空間においては自分が住みやすいようにしたい。そして、自分の目の前に現れた人間には幸せな時間を過ごしていて欲しいと願っている。

人生とは、



最近読んだ本。
森博嗣さんの『イデアの影』が面白かったです。

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