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洗わない理由▶︎チャーリー

横浜読書会KURIBOOKSの映画祭の司会を担当しています チャーリー です。

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あなた、毎日お風呂入ってます?入浴のルーティンはありますか?

30年以上前、札幌で大学生だった頃は銭湯通いだったので、風呂は2日に1回でした。(その月の生活費の残額次第でその間隔は柔軟になる。伸びる方向に。)

その頃のルーティンはまず洗い場で頭髪と身体を洗ってから、湯船に入るという流れ。夕方頃に銭湯に行くと客も少なく、広々としているので、大学の講義が終わって部屋に戻ったら、5時くらい、夕食の前に銭湯に行くというのもよくやりました。

ただ、注意事項もあります。900ー7=。即ち「特殊な自由業」の人たちは早い時間や、遅い深夜の時間に銭湯に来ることが多かったのです。なので、そっち方面の方々に遭遇することも多かったです。

ある時は湯舟に入ろうとする僕と入れ違いに上がった初老の男性の左肩に青い渦と花弁の「絵」があり、更に左腕は肘から先が無かったという事もありました。(「あっ!」と声が出そうになりました)

また別の時は、いつものように早い時間に銭湯に来て、早速頭と身体を洗っていると、その間に続々と「特殊な自由業」の人たちが入ってきた事がありました。
身体を洗い終わって、さて風呂に入ろうと思うと、その人たちが湯船のこちら側の縁にずらりと並んで腰かけています。こちらには背中を向けて座っている訳で、仏像画とか動物画とか花や嵐の自然画とか様々なタイプの壁画が湯船とこちらを隔てている状態でした。その(美術的)迫力を前にして、その壁を越える勇気がなく、結局その日は湯船に入らずに帰ったこともありました。

しかし、そういう人々も毎日風呂に入って身体を洗っているという事は、日本人は清潔好きな人が多いと言えるのでしょう。

しかし、この清潔さ、「衛生」についての考え方は人間の歴史の中で大きく変わってきました。

「図説 不潔の歴史」キャスリン・アシェンバーグ (“The Dirt On Clean  - An Unsanitized History” by Katherine Ashenburg)

そもそも昔の西洋人は汚かった。いや、彼らは汚いとは思っていなかったかもしれません。「不潔」というものの定義が異なるからです。

キリスト教徒は宗教的な教義の理由から身体を洗わなかったそうです。皮膚にある微細な孔から、害のあるものが侵入するため、入浴は身体に良くないとされていたためだそうです。
その身体の孔を塞ぐためには、身体を洗う事を避けて皮膚に垢を溜める必要がありました。その代わりに頻繁に着替えをするのが良いとされていたそうです。
入浴、洗顔、手洗いは異教徒の行いとまでされていた、、、。
たぶん、その時代であれば、僕が学生時代に銭湯で出会った自由業の人たちも、僕も等しく「異教徒」という烙印を押されて、業火に焼かれてしまっていたに違いありません。
しかも、その状態がが20世紀近くまで続いていたわけです。

これを無知と笑うのは容易いこと。当時はペストが流行し、それが水(下水)を媒介して広まったということを知っだからこそ、水に触れる事を恐れたのであり、あながち闇雲な迷信とは言えず、そこに論理的な理由はあったのです。

そして20世紀に入ると、全く逆の展開が始まります。衛生に対する意識は極端に高まりを見せ、19世紀までは気にされなかった体臭や口臭に敏感になり、アメリカではこれらを抑制する商品が沢山出てくるようになるわけです。

僕も10年ほど前からは熟年男性向けのボディソープ、つまりナントカ臭やらを抑制する石鹸を使うようになりました。

「不潔」とは時代によってその定義や、意識を大きく変えてきたものなのだということでしょうか。

僕の知るところでは、20世紀も終わりに近づいていた80年代後半、エイズ(AIDS)が爆発的に感染者を増やしました。同性愛者に感染者が多くみられた事から同性愛者だけが罹る病と思われ、同性愛者を差別したり、この病を同性愛に対する神罰と呼ぶ人もいました。入浴は勿論、キスや握手で感染するなどの誤解も生まれたりしました。
20世紀の終わりでも人は大きく変わってはいなかったのです。

そして、この4年間のコロナ禍。様々な迷走や、陰謀論まで、「不潔の歴史」は今も続いています。

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▶︎チャーリー

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