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シェアハウス子育て中の親が、30年前のシェアハウス子育ての映画を観てきた話②

先日、大井町の慶應義塾大学SFC研究所にて、多世代型シェアハウス研究会による、ドキュメンタリー映画「沈没家族」上映会に行きました。

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※「沈没家族」とは:いまから30年近く前に、共同子育てをしていたシェアハウス。また、そこで育った子供が監督した同名の映画。Wikipedia書籍映画公式ページ

私自身シェアハウスで子育てをしていることもあり、その視点からの感想です。

■住人に子育ての判断を任せてるところがある

作中で、大人にとって困ったことを子供がした時、住人が親に叱るかどうかの基準を訊くと、「母」から「どう思います?」と返ってくる場面がある。
住人いわく、子育ての判断を任せてるところがあると。
もちろん常に任せているわけではないけれど、子供のいない住人に子育ての価値基準の相談をするわけだ。

これ、ウチもそう。
というかこれ、子育てシェアハウスあるあるなんじゃないか。

子育ての細かい判断を相談するなんて、自信が足りないとか無責任だとかまた言われそうなところです。

でもそれは自信が無いからじゃなくて、
強いからこそ常識を疑えるんだと思うのだ。
「立ち止まって考えてみよう」という余裕がある。

シェアハウスをすると、「自分の常識はみんなの非常識」みたいなことが起こる。必ず起こる。
何かのフタは閉めない方が効率的とか、そんなにこまめに電気を消すのは逆に煩わしいとか、キッチンの掃除頻度とか。
自分の育った環境では全員やっていたから当たり前だと思っていたら、共同生活したら自分の方が少数派だったりする。
いや、シェアハウスだけじゃなくて、一緒に住み始めた友人でも彼氏彼女でも家族でも、新しい共同生活ではこうした「常識のぶつかり合い」は必ず起こる。
でもそれは「できることなら起こらない方がいいこと」じゃなくて、世界を広げる絶好の機会だ。

共同生活をすると、タコツボにはまらず、自分の考えを相対化できるようになる。人は違うように考えるかもしれないことを知っていて、それと対峙する度量があるからこそ、みんなの意見も聴いてみたい。
もちろん多数決じゃなくて、それは考える材料で、最後は自分の頭で考える。
住人にも子育ての判断を訊いてみる生活の中で、常識を疑う足腰ができてくる。それは、大人にとっても子供にとっても、未来の可能性の扉を開くことになると思うんだ。

(続く)