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私を構成する3つのゲーム

私には5歳上の兄がいる。私たち兄弟は小学生の頃からゲームが好きだった。当時はスーパーファミコンが全盛期で、我が家にはいろんなカセットがあった。最初は兄のプレイを横で眺めているだけで満足だった。プレイ内容に合わせて喜んだり、驚いたり、悲しんだり、共に感動を共有していた。

「お前も やってみろ」

突然の兄からの言葉。
ここで、人生初のゲームを体験したのである。

その時、初めてプレイしたカセットはスーパーマリオだった。強烈なインパクトがあり、私をゲーマーに導くきっかけとなった。その後たくさんの作品をプレイしていくなかで、ゲームは私の「思考様式」や「人格形成」に大きく影響を与えた。特に影響の大きかったものを3つ紹介しようと思う。




クロノ

まずはクロノトリガー
時代を代表する名作。主人公と幼馴染みたちは偶然の事故から時間を移動する手段を発見し、様々な時代を行き来する。その中で【自分たちの未来は滅亡する】ことを知る。そんな未来を変えるため過去と現代に戻り地球を救う旅にでる、というストーリーだ。当時、小学生だったときの記憶が今でも鮮明によみがえる。

私(12歳)「なあなあ、クロノトリガーどこまで進んだ?」

友達(12歳)「おれは魔王と戦う直前までいったで」

私「えー!もうそんなに進んだんか!」

友達「主人公が新しい技も覚えたし。くらえ『全力斬り!!』デュクシ!!」

私「なにおう!こっちこそ『マシンガンパンチ!!』デュクシ!!」

友達「ーーー!!デュクシ デュクシ!!」

私「っっっ!!デュクシ デュクシ!!」

あの頃はただ デュクシ(殴打した時の効果音)とさえ言っていれば全てが成立する時代だった。まあいい。
私はこのゲームで「生きるとは何か」という事を学んだ。
それは、あるキャラクターの こんなセリフがきっかけだった。

お前たち生きてない。死んでないだけ。

原始の時代。原始人は対立する別の種族に支配されていた。その恐怖に耐えかねたひとりが村の仲間に戦うことを呼びかける。しかし更なる理不尽な支配になるのではと危惧し、戦いを拒む仲間たち。そんな仲間たちに向けたセリフだ。

最初のうちは特に響かなかったが、社会人になってから言葉の本質を探るようになった。当時は「贅沢な暮らしがしたい」という思いで仕事に励んでいたが思うようには稼げず生活するのに精一杯だった。とても贅沢ができるような環境ではない。何のために働いているのか?その自問自答の繰り返し。


ただ生活を維持するために働いているのか
死なないために働いているのか
働くために生きているのか
生きるために働くのは どんな時でも本当に正しいのか
生きるとは何なのか


果たして今の環境は本当に生きていると胸を張って言えるのか。
あのキャラクターが言うようにただ死んでないだけではないのか。
変化を恐れ、挑戦することを放棄し「みんなこうだから」「ずっとこうだったから」と現状の見直しもしようとしない思考停止状態。あの原始人の仲間たちと同じではないのか。

この考えは今でも常に頭の中にある。自分を見つめ直すときは
【とりあえず死んではないけど…】という環境になってないか。
【”生きる”に全体重を乗せる】という環境にできているか。
クロノトリガーから生きるとは何かという概念を学んだのである。



ボンバー

次はボンバーマン
爆弾を使って相手を倒していくシンプルなゲームだ。友達同士で対戦をするバトルモードがあり、友達と力を合わせて共通の敵を倒していくストーリーモードもある。これもずいぶんとプレイしたものだ。当時、中学生だった時の記憶が今でも鮮明によみがえる。

私(15歳)「今日もボンバーマンやろうや」

友達(15歳)「ええよー!昨日の続きからやな」

私「パスワード覚えとる?」

友達「当たり前や!物覚えだけは得意やからな」

私「へー、達者なことで」

友達「何事も覚え方にはコツがあるからな。鎌倉幕府は”良い国 1192年”やし、千尋の”尋”ていう漢字は『ヨッ! エロ   寸』て覚えとるしな」

私「よ えろ すん!!」

あの頃は、ほんの少しでも『エロ』という文字があれば絶対に見逃さない時代だった。まあいい。私はこのゲームで「目的と手段を正しく捉えて分ける」という事を学んだ。

きっかけはストーリーモードでの出来事だ。他のゲームでも友達と協力して進めるものは多くあるのだが、このボンバーマンだけは他とは違う。それは味方同士で殺し合いができてしまうのだ。共通のボスという目的がありながら、あろうことか味方を殺しにかかる輩が一定数存在するのだ。

考えられない。通常の思考力をもっていれば目的を達成するために一番遠い行為であることはわかるはず。どういう思考回路でその判断になったのか気になってずっと考えていた。すると、ひとつの気になる現象をみつけた。

味方殺しがあると決まってみんなが笑っていたのだ。
なるほど、と思った。それまでの私の解釈が浅かったのだ。

【目的】ボスを倒す【手段】味方と協力する。ではなく
【目的】みんなで楽しむ【手段】たまにハプニングを作りながらボスを倒す。だったのだ。

そもそもゲームとは楽しむモノ。それが前提であり、ボスを倒すのは あくまで手段に過ぎないという事に気づいた。それ以降はどんな時でも「目的と手段の本質は何か」を考え、キチンと分けて取り組むようになった。ボンバーマンからは、的を得た行動をするための考え方を学んだのである。



ときめき

最後はときめきメモリアル
ゲームの主人公(プレイヤー)は架空の私立高校に入学した男子生徒である。その高校には「卒業式の日に校庭裏にある樹木(伝説の樹)の下で女の子からの告白で生まれたカップルは永遠に幸せになる」という噂がある。勉強、スポーツ、部活動などに取り組み主人公の能力値を高め、ヒロインの理想に近付け、卒業式の日に伝説の樹の下で彼女からの告白を受けることが目的である。友達とよく遊んだモノだ。当時、高校生だった頃の記憶が今でも鮮明によみがえる。

私(17歳)「なあなあ、相談があるんやけど」

友達(17歳)「なに?」

私「”ときメモ”の事なんやけど、ヒロインからの質問の回答、どのセリフを選んで答えるのがええかなって。候補はAとBとCの3パターンから選べるんやけど…」

友達「そんなもん B で決まりや!」

私「えぇ!そうなん…?」

友達「当たり前やろ!こういう場合はガツンと言った方がドキドキするんやから!女ってのはそういうもんやから」

私「そ、そうか…」

友達「絶対にそうや!今まで何人もの女子に『勘違い野郎』と言われてきた おれが言うんやから間違いない!!」

私「1番ダメなやつやないか」

危うく私も勘違い野郎になるところだったではないか。まあいい。このゲームからは「コアファンは重要」という事を学んだ。
(ファンの中でも特に熱く支持してくれるファンの事)

この『ときメモ』から派生した作品は数多い。とても全部を追いかけれる量ではないのだが、なんと私の友人は全部、制覇していたのだ。とてもにわかには真似できない事だった。『心の奥まで魅力が突き刺さればコアファンとなり、そうなればその後のどんなアクションも前向きに応援してくれる』という事を目の当たりにしたのだった。

私は長くサービス業をしてきたのだが、この事はどの業界でも転用できることだなと感じ、コアファンと共に創造する仕組みを常に意識している。そのきっかけをときメモから学んだのである。



以上、3つの作品が大きく影響を受けたモノだ。他にも勉強になる作品は多いし、マンガや遊びからも学ぶことはある。と言うよりも、『何か新しい発見はないかな』というアンテナを常に張っていれば何をしていても勉強にはなるだろう。

自分の人生の目的を正確に定めて
それを実現させるための手段を正しく行い
たくさんの人に支えてもらいながら進む

という事を、私は日々 心がけている。

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