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『他者評価』だけを求め続けると、息苦しくなってしまう。という話。

現代を生きる私たちにとって、
正しく扱えば「喜び」を、
しかし誤って用いると「不幸」を、もたらすモノがある。
それって、なーんだ?
 
 
・・・私は『評価』なのではないか、と思う。

人間の社会はとても複雑に絡み合っていて、自分一人だけで完結することは極めて少ない。
だから、他者からの『評価』を大切にして営みを続けてきた。
つまり、他者から『(良い)評価』をされることは正しくて、自分に利益をもたらす行為、だと言える。そして、このことは概ね正しい。

しかし、同時に『行き過ぎた他者評価は逆効果をも生み出す』んじゃないか、と最近強く思うようになった。

なぜならば、『評価されるから、やる』を裏返しに表現すると、
評価されないなら、やらない』にすり替わってしまうから。

・・・これの何が悪いことなのだろうか?
 
 
たとえば、会社に勤めるビジネスパーソンを想定して、一般的な彼(あるいは彼女)の価値観を表現してみよう。

『案件の売上規模が大きい=利益も残りやすい=とっても評価される仕事だから、その仕事を頑張る。』
  ↓
『案件の売上規模が小さい=利益も残りにくい=あんまり評価されない仕事だから、その仕事はやらない。』

一見すると正しそうである。でも、本当にそうだろうか?


私は過去に、案件の売上規模は小さいけれど、大きな裁量をもって取り組める仕事に出会えて自分のプロデュース能力が高まる経験をしたり、
やはり案件の売上規模はとても小さいけれど、未体験領域に携われて視野が大きく広がったりする経験を得たことがある。

こういった仕事は、数字上のインパクトは大きくないから、会社の評価(成績表)には好影響は期待できない。でも、後から振り返ると、

「あの仕事やれて、ほんとうに良かったなー」

と思える貴重な経験を積むことができて、お金なんかじゃ買えない(代えれない)宝物になったと実感している。

つまり、
『たとえ評価されなくても、やる。自分にとって価値を感じるなら。』

こういう新しい常識が自分の中に芽生えると、仕事の意味が変わってくると思うんだ。


ここで、エーリヒ・フロムという哲学者の言葉を引用したい。

権威主義的道徳には、本来ただ一つの罪があるだけである--すなわち不服従である。そしてただ一つの美徳がある--すなわち服従である。
そのことは--たぶん反動的な人びとを除いては--あからさまには認められていないかもしれないが、根本的には教育の背後、あらゆる価値形成の背後に、この確信が潜んでいる。不服従は極悪だという確信が。

一例として、旧約聖書を読んでみよう。
アダムとイヴのしたことは、それ自体何の悪いことでもなかった。むしろ反対である。彼らは知恵の実を食べ、まさにその事実によって、人間となる道を初めて開くのである。
しかし彼らは服従しなかった。この不服従が伝統に従って彼らの原罪とされたのである。

自分の信じた道を歩むことが、他者からの評価と相反するとき、人は岐路に立たされる。

もし、他者評価にがんじがらめに縛られて、窮屈な思いをしているならば、
どうか自分の精神の奥底にこだまする、内なる声に耳を傾けて欲しい。

「『意味』は他人が与えるだけのものじゃないよ、自分で育むこともできるんだよ。」ということを。

自分の価値観を持って生きるってことは嫌われても当たり前なんだ。
岡本太郎/画家


以上、最後まで読んでくださってありがとうございました。

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