気まぐれ日記2022.6.13
【四神(白虎)~しっぺ~みつを】
まず始めに、これは去年12月に書いたもの。
すでに6ヶ月放置。
いつものごとく勢いで書き始めたが、結局何が言いたいのか自分でもよくわからなくなったのだろう。
内容は、会津について少しだけ触れたもの。
近々会津へ行く予定がありせっかくなので、この記事の最後に少しだけ書き足して締めようと思う。
▽▽▽
私の部屋は東側なので、毎朝太陽の光を浴びながら目覚める。
ある朝、太陽を拝みながら、四神でいうと東はなんだったかとふと気になり、寝ぼけながら調べたところ『青龍』だった。
私の家から東側には東地区(旧東村)、西側には西郷村がある。なんとなくだが、東地区には立派な龍の彫刻が施された神殿や灯籠など龍にまつわるものが多くある気がする。
寝ぼけていたとはいえ、なぜ急に気になったのかが気になり後から調べてみることにした。
続いての説明には『四神にちなむもの』として、下記のように書いてあった。
会津担当の私としては、会津についてもう少しだけ深掘りしなくてはと考えた。
(誰もそんなこと言ってない)
会津といえば、白虎隊。
上記にあるように、白虎隊に所属していた隊士は10歳から『会津藩校日新館』で厳しい教育を受ける。
日新館では剣術、砲術、水泳や中国古典、さらには天文学などさまざまな学問を学ぶ。これに加え、厳しい心得を叩き込まれ自刃の仕方もここで教わった。
会津藩の武士階級は、大きく分けて上士(士中)・中士(寄合)・下士(足軽)の3つに分けられている。
日新館への入学は主に上士の子弟が対象だった。
先述の説明にもあったように、白虎隊は16~17歳の隊士で構成されており、主に城内の警護にあたっていた。
主な役回りは場内の警護だったが、緊急時には戦闘にも参加した。
会津藩の敗色が濃くなる中での飯盛山での自刃はよく知られているが、自刃したのは上級武士(上士)の子供達である士中二番隊の隊員たちだった。
20名が自刃し、そのうちの19名が尊い命を落とした。
戦死や自刃をしなかった白虎隊士約290人は明治維新後を生きた。
自刃し命を助けられたのが飯沼貞吉氏。
この方が生き残ってくれたおかげで、白虎隊の話しが現在まで語り継がれている。
会津藩には什の掟がある。
会津の子供達が守る厳しい掟で、日新館の入学前に学ぶそうだ。大人たちから言われて作ったものではなく、自発的に励み合うことで生まれたとのこと。
この『什』というのは子供達のグループのことで、“10個の掟”ではなく、“子供達の掟”という意味である。
町内の区域を「辺」という単位に分け、辺を細分して「什」という藩士の子弟のグループに分けられた。
什では「什長」というリーダーが選ばれ、什長は毎日、什の構成員の家の座敷を輪番で借りて、什の構成員を集め「什の掟」を訓示した。
什長は訓示だけでなく反省会も行い、違反したとされる構成員は審問を受け、違反した事実があれば年長者との話し合いのもと「無念」「竹篦」「派切り」といった制裁が実施された。順に厳しく、「無念」は口頭謝罪、「竹篦」はしっぺ、「派切り」は什からの追放(父親や兄に付き添われての謝罪があるまで解かれない)である。
“しっぺ”は、こんなに昔からあったのか。
子供たちの話し合いの結果しっぺというのは、なんだか微笑ましい気もするが、本気のしっぺは勘弁だ。
小さい頃からしっかり躾を受けたおかげで、日新館での厳しい教育にも耐えられたのだろう。
今でも会津地方には『什の掟』がしっかり残っている。
もちろん内容は現代に合わせたもの。
ならぬことは ならぬものです
△△△
先月、主治医から「そろそろ体重を落としましょうか」と言われた。
最初の頃は「しっかり食べて体重増やしましょう」と言われていたのだが、どうやら増やしすぎたらしい。
間食がやめられない。
ならぬことは ならぬものです
頭ではわかっているつもりだが、実行できていない時点で全然わかっていないのだ。
わかっていないことはわかった。
にんげんだもの
我慢し過ぎも良くないので、楽しみながらほどよい努力を続けていきたい。
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