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言葉の制約

僕たち日本人には、言論の自由、表現の自由が認められている。 
だけど、僕はあまり喋りたくない。
それは言葉には責任が伴うからだ。
僕は頭が悪いから、
自分の思っている事を完璧に言語化することができない。
仮にできたとしても、受け取る側のフィルターを通ったそれは、同じ日本人であったとしても共通言語ではないと思っている。

僕が放った言葉を、受け取った人がどう解釈しようが、それはコントロールできるものではないし、僕が意図せず誰かを傷つけているかもしれない。意図せず誤解されているかもしれない。むしろ、そう云うものだとすら感じる。

思った事は言わないと伝わらない。なんて言う人もいるだろうけど、思った事は言っても伝わらない。が真実だと思う。

言葉には制約やバイアスが存在していて、文化や社会的な背景によって影響を受けるし、隠喩や言外の意味も含まれているけれど、それを理解しない場合には本来の意味が伝わらないこともある。

それに加えて、人々の認識や感情は言葉だけでは表現しきれない場合もある。感情や経験は非言語的な要素も含まれており、言葉だけでは伝え切ることが難しい。

一方で、言葉は人々が互いに意思疎通をし、関係を築くための手段として用いられており、その役割は非常に重要であることも理解している。僕は、言葉より行動こそが正義だと思っているけれど、言葉で民衆が動くこともある。言葉で誰かが救われる事もある。いわば、言葉は行動するための初期衝動になり得るものだ。だからこそ、僕は言葉に責任を感じている。

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