見出し画像

虫 in the Sky with Diamonds

先日の事だ。
寝る前に寝室で娘とぶつかり稽古をしていたら(寝る前に何やってんだ)
「わあ」
という嫁の声が聞こえた。
それは例えるならば感嘆と悲鳴の中間くらいの声音だった。
そしてその直後、
「パパ、ちょっと来て」
という声。
これもまた、けして取り乱しているわけではないが、でも少しばかりの緊張感を纏っている。

夫婦というものは不思議なもので、
長い間一緒に生活をしていると、最低限の情報だけで今相手に何が起こっているのかを理解できてしまう瞬間がある。
今回もまさにそうで、僕は嫁が今どういう状況に陥っているかを即座に理解できてしまった。

重い腰を上げ、洗面所まで行くと嫁が直立不動で固まっている。

「…出たの?」
「うん、そこ」

短いやり取りの後、嫁が指さす先。
そこに奴はいた。

名前を言ってはいけないあの虫である。

この夏は一度も姿を見なかったので、
「もしかしたら僕が知らないうちに絶滅してくれたのかも」
と淡い期待をしていたのだが、それはこの瞬間に儚くも崩れ去った。

何故、僕なのだろう。
何故、僕がこんな目に合わなければいけないのだろう。
僕はなんて不幸なのだ。
きっと世界で一番かわいそうな人だ。ギネスブックに載ってもいいくらいだ。
こんなことなら産まれてこなければ良かった。

しかし、この後。
絶望に打ちひしがれている僕に向かって嫁が放った一言が更に追い打ちをかける。

「じゃあ…、よろしく」

え?

いやいやいやいや。

何をよろしく?自己紹介か?こちらこそよろしく。佐藤です。どうも。

よしんば僕が、名前を言ってはいけないあの虫だけを即座に殺せるビームを指先から出せる超能力者であったり、
「牛殺し」の異名を持つ空手バカ一代でお馴染みの大山倍達のように
「ゴキブリ殺し」の異名を持っているのならば話はわかる。あ、名前言っちゃった。
そりゃ素人は下手に手を出さずにスペシャリストに任せた方が遥かに効率はいい。
しかし残念ながら僕はそのどちらでもない。
条件は嫁と同じ、それどころか、むしろ嫁の方がよほど善戦するだろう。
嫁よりも僕の方が何倍も虫が苦手なのだから。

しかし、反論する隙すら与えられず、
あれよあれよのうちに僕は嫁に殺虫剤を渡され、
なんだかんだで今年初の白星を挙げてしまった。よっしゃ。いや、全然よっしゃじゃない。

何故人は虫を嫌うのか。
僕だけではなく虫が苦手だという話はよく聞く。
その理由として
「なんか無理」
「ただただキモい」
と問答無用で切り捨てられがちだが、
僕が思うに虫という存在は具現化された本能そのものだ。
捕まえれば生存本能から体にある力、いや、もしかしたらそれ以上の力で奴らは抵抗してくる。
自衛の為に持てる能力全てを駆使して抵抗し、攻撃する。
そのリアルガチさに我々人類は圧倒されるのだ。
早い話、引いちゃうのだ。ドン引きだ。

以前、「夏が嫌いだ」という記事を書いたが、
この虫という存在もまた僕の夏嫌いの大きな要因の一つである。
まぁいい。とりあえず危機は去った。
幸い、僕が住んでいるこの家はひと夏に何度もそういう事があるワケではない。
少なくとも6年住んでいるがこういう事例は殆どない。
夏の締めくくりのちょっとしたイベントだ。
そういうことにしておこう。

そう思っていた。
しかしその希望も虚しく、今年はこれだけでは終わらなかった。

翌日。
嫁は仕事に、娘は保育園に行き、
僕は家族の誰とも被らない休日を持て余しながら家で一人ダラダラと過ごしていた。
夕方頃、突然降り出した雨に気づき
「そういえば寝室の窓が開けっ放しだったな」
と、ゴロゴロし過ぎてぼんやりした頭のまま寝室へ行き、窓を閉め一息吐いたところで、
ふと視界の隅に違和感を感じた。

なんだろう。
何かがおかしい。
本来この部屋にない色を僕の視覚が探知している。
違和感の正体は一体…?

ん?


「本当に恐怖を感じたり、驚いたときは声なんか出ない」と聞いたことがある。
その通りなのかもしれない。現にこの瞬間の僕はそうだった。
そして疑問に思う。
いつからここに居たのだろう。
ずっと僕はこいつと一つ屋根の下で過ごしていたのだろうか。
というか、なんだその態度は。あり得ない。
何故ここまで威風堂々としていられるのだ。
図々しいにも程がある。まるで僕の方が不法侵入したかのような立ち振る舞いだ。
家賃も払わないくせにどうしてそこまで我が物顔で居られるのだ。理解に苦しむ。
しかも聞くところによると、こいつはカマを持っているとの事。
凶器を持ち、危害を加える意志を持った上で他人の家に押し入る。
これはおそらく強盗罪が成立するだろう。
アメリカだったら即訴訟の案件だ。
そうそう、アメリカと言えば。
こいつは海外では「マンティス(mantis)」と呼ばれているらしい。
少しだけ丁寧に言うと「おマンティス」だ。
なんて下品な。品性の欠片もない奴だ。
こんな奴は大嫌いだ。虫唾が走る。虫だけに。

どうにかしなくてはならない。
時刻は18時前。
嫁と娘が帰宅するまであと約3時間。
本当は「昨日は僕だったから今日は君の番ね」と嫁に全投げしたいところではあるが、3時間もこのまま膠着状態を続けるのも正直しんどい。
かと言って無視するわけにもいかない。虫だけに。

僕が一人でやるしかない。

しかしどうする。
おそらく昨日の殺虫剤は効かないだろう。あれはあいつ専用だ。
何かしらの武器で物理的に叩くか?
いや、それもどうかと思う。
元々僕は無益な殺生を好まないし、
そもそも、こいつもただ此処に居るというだけでまだ何もしていない。
流石にそれはあんまりだ。
「昨晩何もしてない奴に殺虫剤を噴射しまくったじゃねーか」という皆様のお気持ちもわかるが、
いつまでも過去に囚われているようではダメだ。大切なのは“今”この瞬間なのだから。

問題はもう一つある。
過去の経験上、こいつは一定のダメージを食らうとハリガネムシという、本体の800倍くらいキモい生物を召喚する。
それをされたら最後だ。
僕は嫁が帰ってくるまでの3時間、ひたすら泣く事しかできない。
涙も枯れ果て脱水症状を起こす可能性もある。そうなると命が危ない。

いろいろ考えあぐねたのだが結局、
「あるものでどうにかする」という非常にシンプルな方法に頼るしかなく。
玄関に置いてあった傘の先に掴まらせて、窓の外へポイっと放り出し、光の速さで窓を閉めた事によってこの件は一件落着となった。
時間にして約2分ほどの出来事ではあったが、この文字数が物語っているように僕の中では物凄く長い時間のように感じられた。
もうこの夏は二度と出てこないで欲しい。
というか、出てこないでください。お願いします。虫さん。もう勘弁してください。マジでもういいっす。
今後はお互いまったく関わらないで生きていこう。それがお互いの幸せの為だ。

思い出を、そしてネタをありがとう。

さようなら。虫。

あっちいけ。虫。

お金は好きです。