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拝啓、後藤正文 様

はじめまして。
…とは言っても、貴方がこれを読むことはないでしょう。
いいのです。わかっております。

僕は貴方のいちファンです。
数十万人以上いる、貴方のフォロワーのうちの一人です。
これは、なんの肩書もなく何者でもない、
そんな取るに足らない数十万分の一の声だと思って頂いて構いません。
「読まれる当てもない手紙を書くなんて、馬鹿みたいだ」
自分でもそう思います。
でも、綴らずにはいられませんでした。思わず筆を執ってしまいました。
そして今、そんな日の募る言葉を貴方に宛てて僕は書いています。
その訳を、お話ししなくてはなりません。

僕の地元は山口県岩国市という、山口県と広島県のちょうど境目くらいに位置する田舎町です。
実家はその中でも更に田舎に在り、娯楽施設もろくにない環境で約十八年間生活しておりました。
インターネットも今ほど普及していなかったもので、同じ町に住む少年たちは埋まらない日々の隙間や退屈を凌ぐ為に、三つの選択肢を迫られるような状況にありました。
それは
「頭の良いガリ勉君になる」か
「とある町のヤンキーになる」か
「風変わりなバンドマンになる」か、です。
この三つの中から半強制的に一つのルートを選択しなくてはなりません。
しなくてはならない、って事もないのでしょうが。

中には「ヤンキーバンドマン」という驚異の合わせ技を実行するズルい輩も多数見受けられましたが、臆病で不器用な僕は純粋にバンドマンコースを選択しました。

しかし、学生時代の僕はクラスでも冴えない類のグループに属していまして。
とてもじゃないけど当時流行っていたGLAYやラルクアンシエルのような煌びやかな振る舞いなど出来ませんし、
当時流行っていたハイスタンダードやスネイルランプのような英語の歌なんて歌えませんし、
当時流行っていたドラゴンアッシュや山嵐のようなお不良にもなれませんでした。(ヤンキーバンドマン連中はこれをやっていました。ズルい)

ただただ、冴えない僕は部屋で一人、ひたすら楽器にかじりつき、ロックミュージックに傾倒していました。
自分では浴びることも叶いそうにないスポットライトを夢見て、ひたすら音楽を聴き、下手糞な楽器を奏で、風変わりなまま歌っていました。

時は流れて、十九歳の頃です。
僕はしがないバンドマンをやっており、髪の毛を金髪に染め、悪い視力を隠して裸眼で、チャラチャラした格好をし、曲りなりにもステージに立って人前に出る「バンドマン」を必死にやっていました。
そのくせ、「出来れば世界を僕は塗り替えたい」なんて大それたことも思っていたかもしれません。
そんなときです。貴方に出会ったのは。

広島のナミキジャンクションというライブハウスで、僕はその日初めてアジアンカンフージェネレーションの存在を知りました。
ライブを観たワケではないのですが、店内に貼られたポスターに僕は釘付けになってしまいました。
中村佑介氏の印象的なジャケットと「君繋ファイブエム」というタイトルに目と心を一気に奪われました。
すぐに音源を買い、CDが擦り切れるんじゃないかという勢いで(CDは擦り切れませんが)聴きました。
湧き上がる衝動をそのまま叫ぶような歌唱法も、声と楽器が共に成すアンサンブルも、匂いを感じるような文学的な歌詞も。
そのすべてが僕にとっては世紀の大発明のように感じられました。

それから暫くして、音楽雑誌で貴方を拝見しました。

今でも、まるでフラッシュバックのように鮮明に思い出せます。
ただ、衝撃でした。

あれを歌っていたのは。
あれを掻き鳴らしていたのは。

どう見ても“こちら側”の人間でした。(失礼ですよね、すみません…)

非常に素朴で、よれよれのTシャツを着た、ぼさぼさ頭のメガネをかけた青年。
それがあのアジアンカンフージェネレーションの楽曲を生みだしている後藤正文さん、貴方でした。

本当にあの頃、数々の音楽を表現する若者は貴方の存在によって救われたと思います。
勿論、僕もそうです。
こんな僕でも、クラスでも冴えないグループに属していたような僕でも、あんなにかっこよくロックができるんだ。
特別な才能を何ひとつ持たずとも、心は掻き鳴らせるんだ。
そう思わせてくれました。

貴方がこの世代に、この世界にもたらしたこの影響こそが、貴方の最大の功績であり、
そして、最大の罪だったようにも思えます。

何故なら、多くの燻っていた若者を生かしたと同時に、多くの「勘違いをした無能」を殺したからです。

僕は残念ながら、殺された無能の方でした。

「諦めなければ夢は叶う」
よく聞く台詞です。
しかし、それは叶えた人が言っているだけ。
叶わなかった何者でもない人は発言も許されずただ消滅していく。
故に真実は「常に光が当たっている部分」だけなのです。

申し訳ございません。
謂れのない罪を押し付けれられても気分が悪いだけですよね。
当然ですが、だからと言って貴方を憎んでなどいません。そんな道理もございません。
今も、この瞬間も、初めて貴方を知ったあの頃と何も変わらず、僕は貴方に魅了され続けています。

楽器一本だけ持って上京し、やっとの思いでメンバーを集めて、初めてのスタジオリハで音を合わせたのも貴方の曲でした。
CDなど殆ど買わなくなり、ダウンロードだけで済ませるようになっても、アジカンだけはCDを買いました。
従来のそれとは違い、より文学を感じさせる縦書きの、右から開いていく歌詞のブックレットを読みながら音を追いました。
「こんな音楽がやりたい」そう思い、夢に燃えながら聴いていた時も、
「こんな音楽がやりたかった」とすべて諦めた後で聴いていた時も、ずっと貴方が紡ぐ言葉とメロディーに夢中でした。
結婚し、家庭を持ち、仕事に追われ、「音楽?最近聴いてる暇なんかないよ」なんて大人みたいな事を言う大人になっても、
それでも生活の一部に、いや、僕の魂の一部として貴方の音楽は常に在りました。
初めて貴方の作品と出会ったあの頃から約十五年経っても、まだ捨てられない僕が居ました。


娘が産まれてすぐの頃、育児ノイローゼになりかけた嫁が死んだような目をして座っている横で、
泣き止まない娘を抱きかかえながら、自然と口から子守歌代わりに出てきたのは「鎌倉グッドバイ」でした。
それを聴いた嫁は
「……それ、誰の曲?」
と僕に尋ねました。
「アジカンだよ」
そう答え、歌い続ける僕に
「そう」
とだけ言って、貴方の曲を聴きながら嫁も静かに涙を流していました。
守るべきものをもう一度再確認できた夜でした。そしてそれに寄り添うようにあったのは紛れもなく貴方の文学と音楽だったのです。

貴方の生みだした作品の数々が、肩ひじ張って生きるという事に凍え切った僕を乗せてベッドルームから一歩、別世界に連れ出してくれたのです。

ファンとして敬愛している、というよりも恩人に近い感情を抱いているのかもしれませんね。僕は。

おそらく、僕の人生が終わるその瞬間。
走り出したエンドロールに貴方の名前は確実に流れるでしょう。
あ。あと、すみません。甲本ヒロト氏の名前も多分。

…おっと。
気づけばもう三千字近くまで書いてしまいました。ヤバイ ヤメヤメ。
普段から、どんなに長くても二千字前後まで、と決めているのですが。ダメでしたね。やはり止まりませんでした。「こうなると思ってたんだよな、後悔してんだよ」って、そう思ってます。

これ以上書いても、この倍書いても、何万字書いても。
貴方に対する僕の、全ての想いを言葉にするのは無理でしょう。

伝うかな。
伝うわけはないよな。いいけどね。


――さて。
分かる人にだけ分かる。そんな言葉遊びは此処まで。
いい加減、終わらないとキリがないですしね。

非常に独りよがりのものにはなってしまったと自覚はしていますが、でも、伝えられて良かったです。
書いていくうちにどんどん感情的になってしまい、衝動のままに筆を走らせてしまいました。
おかげでまとまりのない文章になってしまって申し訳なく思っています。
乱筆乱文にて失礼しました。
これからもご活躍を心より応援しております。

間違いなく、貴方によって生かされた数十万分の一の無能より。愛と感謝を込めて。


敬具。

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