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「日本美術院発祥之地」

美術学校退職後の天心の活動拠点

★ジャンル【文化】
★場所 台東区谷中5-7-10
★最寄駅 JR、京成日暮里駅もしくは東京メトロ千代田線千駄木駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
説明板の解説
「日本美術院は明治三十一年(一八九八)岡倉天心が中心になって『本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る』ことを目的として創設された民間団体で、当初院長は天心、主幹は橋本雅邦、評議員には横山大観,、下村観山らがいた。活動は絵画が主で、 従来の日本画の流派に反対し、洋画の 手法をとり入れ,、近代日本画に清新の気を与えた。この場所に建てられた美術院は明治三十一年九月に竣工し た木造二階建で、南館(絵画研究室)と北館(事務室・工芸研究室・書斎・集会室)からなり、附属建物も二、三あったといわれている。明治三十九年(一九〇六)十二月に美術院 が茨城県五浦(いづら)に移るまで、ここが活動の拠点となっていた。昭和四十一年(一九六六)岡倉天心史跡記念六角堂が建てられ、堂内には平櫛田中作の天心坐像が安置されている。」

★解説
 谷中銀座商店街の外れ、夕焼けだんだんの下を南北に通る江戸時代からの阿弥陀道を南に行き、左手にあります。旧敷地全体が岡倉天心記念公園になっています。六角堂は後で紹介する五浦に天心が築いた建物に似せており、天心が思索に耽った建物です。中にある黄金の天心像は見ものです。
 日本美術院岡倉天心(おかくら てんしん)が美校騒動東京美術学校(現在の芸大)校長を辞任せざるを得なくなった際に、天心に同調して美校教授を辞任した芸術家たちと作った団体です。
 美術史などは素人なのでさっぱりわかりません。天心自身は芸術家ではなく、将来錚々たる日本画の大御所となる画家たちが、何に惹かれて天心と行動を共にしたのかは私にはよく分かりません。とにかくカリスマ性のある人だったようです。
 ともあれ、天心の自宅も兼ねたこの場所で新たな日本画のあり方について日夜精進を重ねました。有名なのは「空気を描く工夫はないか」との天心の問いに対して、伝統的な輪郭線を描かずに大観や春草が描いた日本画が、「朦朧体」と言われたもので、当初は「幽霊画」などと酷評されますが、のちに確固たる評価を得ます。
 とはいえ官立の学校から民間へ飛び出したこともあり資金が不足し、内紛などもあって活動はやがて沈滞します。これを破ろうと、この谷中を飛び出して、1906年には茨城県の五浦に拠点を移します。横山大観(よこやま たいかん)・下村観山(しもむら かんざん)・菱田春草(ひしだ しゅんそう)らも五浦に移住します。
 しかしこのころには天心自身が美術院よりもボストン美術館の活動に関心を割いており、1910年には渡米して美術院は解散状態になってしまいます。

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