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愛情がないトークは独り言よりも劣る

 昨日、いや3日前になるか。 オッサンZOOの4作目をYouTubeにアップロードした。

 内容はモンキーのポジティブシンキング。 多重債務者であるモンキーが「なぜ悲壮感を抱かないか?」の考えを語ったものだ。 ネガティブな人が少しでもポジティブになれれれば、と思っての動画だが、撮影自体はテイク3までかかった。

 その理由は、モンキーのトーク内容にあった。 テイク2までボクは黙っており、モンキーが1人で話していた。 その内容は声が震え、内容が整理されておらず、感情が乗ってない話しぶりだった。 有体に言えば、書いてきた台本をなぞっている印象だった。

 それがなぜ動画のように生き生きと話せるようになったのか? 今回は動画におけるトーク術と、コミュニケーションにおいて考えてみようと思う。

・コミュニケーションとプレゼンの違い。

 まずコミュニケーションとプレゼンテーションの違いについて述べさせていただこう。 コミュニケーションは対話。 相手が必要になる。 一方でプレゼンは講話、主張、講義、説得と言ったもので、相手が聴く気で臨んでくれることが前提となる。 

 何を当たり前のことをと思われると思うが、これが案外分かっていない人が多い。 特にセールスマンだ。 セールストーク=プレゼンだと思っている人が多いのだ。 

 とんでもない話だ。 商品を買う人は顧客。 セールスマンは他者が購買行動を起こさせるためにコミュニケーションをするべきなのだ。 相手に自分のニーズを明かさせたり、そもそもウォンツがあるのかを整理させたりするために、相手が心を開く話し方を顧客によって使い分ける必要がある。

 今回、モンキーが1人で話したときにNGを出したのは、彼の話が視聴者相手のプレゼンと捉えていたように見えたからだ。 顔も声も知らぬ相手に理解してもらうのに必要なのはプレゼンじゃない。 コミュニケーションだ。

 ボクは彼に「視聴者とのコミュニケーション」を求めた。 参考例として話し方を見せ、視聴者のペルソナとして相手役を務めた。  そうしたらモンキーは生き生きと話せたため、ボクはOKテイクを出した。 

・話芸とはコミュニケーションの極みである。

 お笑い芸人を見てみよう。 彼らは練り上げられたネタを演じて、観客に笑いを誘っているが、必ず観客の心の声を代弁するツッコミや設定が入っている。 それはコントにも漫談にも必ずある。 というかドラマでも映画でも必ずある。 だから観客が彼らの話に自己投影が出来て、ネタの世界観に没入できるのだ。 恋愛、仕事、家族……普遍的な設定の中に観客が理解できて通ずるセリフや反応がある。

 それがあるからこそ、突飛なボケがあってもストーリーの世界観が掴めるのだ。 つまり、芸人やストーリーテラーは誰よりも常識人であり狂人である必要がある。 ネタを通じて観客の反応を見て、話の展開を試行錯誤し、一つでも多くの笑いを追求している。 ボクはそう考えている。

・人はストーリーに関心や感動を抱く。 

 ポジティブシンキングは抽象的なネタだ。 だからこそ具体例が必要になる。 3作目でボクは彼がネタを決めたとき「不安でしかない」と繰り返した。 モンキーのトーク術で、視聴者が理解できるのか確証がなかったからだ。 撮影当日になって、その疑惑は確証になった。 書いてきた台本を暗記してきて話しているだけなのだ。

 人はストーリーに関心や感動を抱く。 ストーリーを語ったり、作ったりするには熱量が必要だ。 構成、展開、熱量、感情……それらすべてをひっくるめてストーリーを語るということだ。 

 和牛がM-1で好評だった服屋の店員や旅館のネタは、彼らじゃないとできないと言われているのはそういうことだ。 同じ設定やネタでほかの芸人がやっても、観客の反応は変わっていただろう。 それは彼らが劇場に立ち、笑いの目が肥えた観客の前で、何度もスベリながら練り上げてきたからだ。

モンキーが元芸人だと言ってもブランクがある。 いきなりそれを求めるのは酷な話だ。 だからこそ、彼にはYouTubeを通じて話芸を磨いてほしい。 自分の話がダイレクトに数字やコメントとして反応するのは、劇場でネタを披露しているのと等しい。 大事なのは「何がいけなかったのか?」「もっと反応が返ってくるためには、話の中に何が必要なのか?」だ。

・愛情がないコミュニ―ケーションは独り言よりも劣る。

 コミュニケーションについて長々と書いてしまったから、少しまとめてみよう。

1、コミュニケーションとプレゼンは違う。
2、話芸とはコミュニケーションの極み。
3、人はストーリーに関心や感動を抱く。

4つ目に語りたいことは、愛情こそが原動力であるということだ。

テレビやラジオ、YouTubeなどで「なるほど!」と思う考え方や方法を目にしたことはないだろうか? 

イチローの引退会見を振り返ってみよう。

「あくまで測りは自分の中にある。 それで自分なりにその測りを使いながら、自分の限界を見ながらちょっと超えていくということを繰り返していく。 そうすると、いつの間にかこんな自分になっているんだという状態になって」

「だから少しずつの積み重ねが、それでしか自分を超えていけないと思うんですよね。一気に高みに行こうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて、それは続けられないと僕は考えているので」

「地道に進むしかない。進むというか、進むだけではないですね。後退もしながら、あるときは後退しかしない時期もあると思うので。でも、自分がやると決めたことを信じてやっていく」

 上記を言っていた。 これを見て「さすがだな」と思ったが「到底マネできないな」とも思った。 その理由はシンプルで、イチローが偉人すぎるからだ。 偉人が簡単に言うことは常人にとっては困難だ。 その言葉は人生のベンチマークになっても模倣するまでには中々及ばない。

 しかしだ、家族の言葉や友人の言葉、自分が好きな人間からのお願いだったら簡単に行動できる。 相手からの愛情とこちらからの愛情が相互作用するからだ。 そして、愛情を交わした人の言葉は心の底までこびりついていて、ふとしたタイミングで蘇ってくる。 つまり、愛情がこもった言葉が自分になっていくんじゃないだろうか? それらの言葉を誰かに受け継ぐことが大事ではないだろうか? それは別に教訓じゃなくてよい。 

 ボクが行動の原点になっている例を挙げるとすると、幼き頃の母との夕食だ。 

 当時貧しかった小学3年生の頃の話を綴ろう。 食卓には、白米がよそわれた茶碗と具がない味噌汁、キャベツの千切りが添えられたコロッケが一つ。 対面する母の前には食事がない。 彼女の手にはストレートのホットティーが注がれたカップがある。 ボクは食事がない彼女に食べないのかと尋ねたが、彼女は笑って「職場でいっぱい食べた」と返した。 それならと食事をしたが、育ち盛りの体には正直足りない。 だからコロッケをソース浸しにして、米で腹を膨らませようと思った。

 
 ボクは米をかっ込み、母にお代わりを要求した。 一杯目を掻き込み、二杯目を要求した。 しかし、彼女は「コメがなくなった」と言う。 物分かりが良すぎた子供であるボクは、当時の家庭環境を良く知っていた。 彼女は職場で食事なんてしてない。 自分の分け前までボクにくれていたのだ。 ボクは母の食事を奪ってしまった罪悪感と、満たされない空腹感を抱えたまま真っ黒のコロッケを一気に口に放り込みお茶で飲み干した。 その様子を見て母が「ゴメンね」と泣いた。

 あのときの味なんて中濃ソースしか覚えていない。 しかし、あの時から「将来は腹一杯食べれるようになろう」「母を悲しませる生き方は止めよう」と誓った。 彼女の「ゴメンね」が二つの楔となったのだ。 守れてないじゃないかと言う友人も多いと思うが、ボクは誓いを果たす途上にある。 彼女が悲しんでいたとしても最後には必ず自慢の息子になると決めて生きている。

 いかがであろうか? 母の「ゴメンね」には、我が子に少しでもひもじい思いをさせまいといういじらしさと、それが子にバレた情けなさが含まれていると思う。 しかし、この言葉には確実に子を変えた。 母の愛情を確かに感じた。

 まとまりなく感情的に長々と書いてしまった。 つまりだ、誰かに向けて話すとき、それが笑い話であってもためになる話であっても、誰かを変えてしまう可能性があることを自覚しないといけない。 だからこそ、発する言葉は愛情と覚悟を込めて発しなければならないと思っている。 それがない対話なんて独り言だ。 

・最後に「動画のトーク」とは?

 長々と書いてきたが「動画のトークとは?」の考察を書いて終わりにしたい。 YouTubeやニコニコ動画には、さまざまな種類の動画がある。 レペゼン地球のような破天荒なものや、シバターのようなモノ申す系、気まぐれクックのようなクッキング系など枚挙にいとわない。


 それを見てみると、やはりどの動画にも愛情があると思うのだ。 レペゼン地球は言うまでもなくメンバー同士の愛情。 シバターは行き過ぎになりがちになるネット民への水準器。 気まぐれクックは魚やメンバーへの愛情などだ。 その愛情の熱量が高いからこそ数字になって表れるのだ。 

 動画でのトークで最も大事なのは“愛情”だ。 共演者やネタへの愛情、媒体への愛情、そして何より視聴者への愛情だ。 なぜなら、オッサンZOOの動画で人生を変えてしまう人がいるかもしれない。 だとしたら、ポジティブな方向に変わってもらいたい。

 視聴者への愛情とは何か? ネタ、話し方、見やすい編集……構成する要素は多岐に渡る。 それが一方通行にならないように反省と考察を続け、評価や批判を頂けるまで出し続けるしかない。

 今年、ボクは37歳、モンキーは46歳だ。 そんなオッサン二人が「悲壮感がない多重債務者の中年男性がYouTubeで借金返済を目指す」をコンセプトに始めたオッサンZOO。 まるで新雪の原野を歩くが如しだ。 一見誰も進んでいないように見える道は柔らかすぎる雪で覆われている。 進む度に深く沈み込み、やがて足元にまとわりついてきて、その深さは進まないと分からない。 腰まで埋まって進めなくなるかもしれない。 寒さで凍えて頓死するかもしれない。 しかし、進まなければ現状は変わらない。 戻ってもいずれ歩きださないと死ぬまで消耗するだけだ。 

 ボクが持っているものなんて、編集ソフトと映画を撮るためにそろえた機材、そして多重債務者のオッサンがゼロスタートに立てるまで応援したいというモンキーへの愛情だけだ。

 それがいつか視聴者に届き、何らかの反応を頂ける日を夢見てペンを置くことにする。

                                了

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