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月うさぎは僕らの中に(掌握小説)【キナリ杯】

 外は眩しいくらいに日の光が反射している。
 そのくせ、私はこの暗いカフェの中でひっそりとコーヒーがくるのを待っていた。
 カバンに入っているPCやスケジュール帳なども開こうとせず、ただ窓から外の光を伺い、そして店内へと視線を移してはまた窓の光に視線を戻す。
 私の目には、その光は眩しかった。
 さらに、店内に目を戻すこともまた私の目には眩しかった。
 今年の春に目指していた大学を卒業するも、世間は私に冷たかった。今も仕事先を探しているが、なかなか仕事は見つからない。
 そのうちに私の中で何かが崩れていくような音がしていた。
 でもここ数週間、私がこのカフェに通うことが心の雪崩を唯一、食い止めてくれている。
 私はカフェに通う理由が近づいてくるのをそっと気がつかないフリをした。
 「お待たせしました」
 私よりも少し歳上のウェイターの声が響く。
 私は恥ずかしげにありがとうございますと小さく会釈をした。
 そしてそのコーヒーカップをゆっくりと落ち着いて持ち上げた。
 黒い液体が微かにゆらゆらと揺らめく。
 ゆっくりと時間をまずは味わうようにコーヒーカップを傾けていった。
 コーヒーは口元からゆっくりと体に染み込むように入っていく。
 私の人生は決して冴えることもなかったけれども、心は冴え渡っていくような感覚を覚えた。
 そんな私のコーヒーを飲む姿を少し眺めたあと、我に返ったようにウェイターは会釈をした。
 「失礼します」
 ウェイターは立ち去ろうとする。
 きびきびと動くその動作と身なりに私は少なからず、かっこよさを感じていた。
 せっかく近づいた彼は私の元をまた離れて行ってしまう。
 私は、どうしようかと躊躇したが、意を決して背中に向かって声を出した。
 「あの……」
 ウェイターは私が呼び止めたことに驚き、ピンと背筋を伸ばすと、振り返った。顔は少し何か粗相があったのだろうかという困惑が見られる。
 「どうかされましたか?」
 急に引き戻されてきた彼の視線に逆に私は何を答えていいのか戸惑った。
 「あのー、今日は、あんまり混んでいないんですね」
 私は、取り止めのない話をする。
 違う。話したいことはそんなことではない。
 ウェイターは明らかに戸惑った顔で私を見ながらそれでも、優しい声で答えてくれた。
 「ええ、今日は平日の昼間ですから。逆にお客様はラッキーです。今はこんなにがらんとしてますが、夜になると混みますから」
 チラッとウエイターは背後のカウンターの方を見た。私も釣られてみると、きれいに並べてあるお酒が目に入る。
 この人もお酒が好きなのだろうかと私はふと思った。
 しかしこれ以上、私は彼を引き止める術を知らない。
 私は無口になる。
 特に忙しそうにない店内と店主の方をちらりと見たウェイターは、意外にも私の席から離れることはしなかった。
 「あの、失礼ですがよくここの席に座っていらっしゃいますよね」
 ウェイターは私にそう尋ねてきた。
 たしかに私はこの席によく座っている。
 その理由はどこよりもこの店内の見晴らしがいいからであるが、私はその真実を話すことはできなかった。
 「ええっと……その、窓が近いからです」
 私は少し頬が熱くなるのを感じる。
 そんな私の気も知らずに、ウェイターはなおも話を返してくれる。しかし、その答えは私の予想を斜め上に行くものだった。
 「外の景色を見たいならあちらの方がより見えますよ!」
 ウェイターはそういうとさらに大きな庭園が見える窓を指さした。
しまった。私は、戸惑う。
 しかし、ウエイターは笑って答えた。悪戯好きの少年のような笑顔だ。
 「でもまあ、ここから見える窓の景色も格別ですよね。僕は、いつも見える月の景色が好きなんです」
 ふうっと胸を撫で下ろす。
 この席ではない場所に連れていかれるのはいろいろな理由でどこか落ち着かなかった。
 私はウェイターの言葉に窓の外を見る。そう言われてみれば、この窓は、晴れていると不思議と昼間の月がよく見えた。
 私は窓の方を見るとぼんやりと見える真昼の月は私たちを窓から覗き込むように空から見下ろしていた。
 「……月ですか?」
 私は首を傾げた。夜の月が好きならまだしも昼間のぼんやり見える月が好きなんだ。
 私は彼のロマンチストな一面を知った気がしてつい気持ちが浮き足立つ。
 「月は夜でも明るいけれども、いつだって明るい星だからこそ、昼間でも輝いてみえるんです。本来は、夜の外灯に群がる虫たちも電気の光がなければ、月の光を頼りに集まるらしいです。つまり月は道標なんです」
 「でも、それって虫は私たちのせいで道標を失っているってことですよね」
 「そうですね。そう考えると虫たちはちょっとかわいそうなのかもしれませんね」
 何気ない彼の言葉の中で私はつい、辛い過去を思い出していた。
 彼の言う虫という言葉を聞いて私は学生の頃の私を思い出した。
 私の鈍臭さから私は中学生の頃、グズムシと言われて馬鹿にされていた。
 今思えばとてつもなく変なネーミングセンスだ。
 どうせ自分たちと違って見劣りする何かに対して線引きをしたいだけなんだろうと思う。
 何をやっても下手な私を見て、いつも私のことを影でバカにしていた。相手は面白そうに言うけれど、私の耳や目にはあの声と顔が脳裏に焼き付いている。

 あいつ、鈍臭くてうざ
 こっち見ないで欲しい
 うわあ、気持ち悪


 彼らは口々にそういって私を蔑んだ。
 私にもきっと悪いところはあったと思う。けれども私はいつの間にか彼らの中で目下の存在になっていた。
 私は、彼らの心ない言葉がいつしか胸に刺さって刺さって抜けなくなっている自分に気づいている。
 気づいているけれども、その刺を未だに抜くことができない。
 いつしか眩しい灯りに近づきたくてもその灯りを這う虫のような存在でしか私はいられないのかもしれない。
 その思いはずっと私の中にあったものだ。
 「それじゃあ、私はその虫のような存在なのかもしれませんね」
つい、私はそんなふうに彼に言い放ってしまう。
 しまったと思った。
 彼は私のその言葉に何か迷惑なことを言ったと思ったのか慌てて右手を大きく振ると謝った。
 「いいえ、僕の方こそ、なんだか失礼なことを言っちゃってごめんなさい」
 「私こそ、なんだかすいません」
 私たち二人は沈黙した。
 彼はきっと私との話を打ち切って去ってしまうだろう。
 けれども彼は今までのその他大勢の人たちのように通りすぎる人では終わってくれなかった。
 「ああ、そういえば、せっかくなので君に教えておきたいことがもう一つ。月うさぎの話は知っていますか?」
 急に話を振り始めた彼に私は困惑した。
 「月うさぎですか?」
 「そうです。月にはうさぎが住んでいるっていう話があるでしょ?」
 「たしかに。でもうさぎのようには見えないです」
 「そうですよね。月に、うさぎがいるというのは中国や日本の考え方であって、外国はカエルに見えたり、女の人の横顔だと思っていたり、いろいろな見方があるんです」
 私は彼の予備知識になるほどと思った。
 月を一つ取っただけでもそれだけの見方があるのだ。
 「でも僕は月にはうさぎが見えるって信じてます」
 彼の真剣な眼差しに今度は私が戸惑った。
 「それは、どうしてですか?」
 「それは誰よりも鈍臭くて、バカ真面目で、不器用だったうさぎが、その身を投げ打って人の命を助けたから。だから僕は月に見えるうさぎを大事にしたいと思うんです」
 ウェイターはにこりと微笑んだ。
 私はその微笑みがとても愛らしいような気持ちになり、胸が締め付けられる。
 これは単なる彼に言葉がたまたま私の胸に響いただけかもしれない。
 けれども、私にとってうさぎに自分を重ねていけるような気がした。
 「私、あなたが好きなうさぎのようにもう一度、頑張ってまたここへきます。鈍臭くて、バカ真面目で、不器用だけど、もう一度、頑張ってみます」
 私は残っていたコーヒーを飲み干すと、お金を机の上に置いた。
 私がきっちりとお金を払ったことを確認すると彼はニコっとわらってぺこりとお辞儀をした。
私も彼に微笑み返す。
私は、カフェのドアをしっかりと握って開け放つと空を眺めた。
相変わらず、真昼の万丸い月にはうさぎと思われる模様がそっと私を見つめている。
いつか私もあのうさぎのように頑張ろうと足を踏み出した。

 ***

 ウェイターは彼女の残したお代とコーヒーカップを片付けながら、彼女の去ったドアを眺めていた。
 「僕も、彼女に負けないよう頑張ろう。僕らの心の中にはいつも月うさぎがいるから。それが一番、肝心なことさ」
 そう呟いた彼は静かにコーヒーカップを持ってカウンターへと去っていった。

<月うさぎは僕らの中に 完結>

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