大切な記憶

Twitterに書き留めたものを少しずつまとめるところから始めて、一区切りつきました。

2022.8/14


20歳の頃、夏休みに実家に帰省したある日のこと。
玄関に「里枝」と大きな文字で書かれた、小学校の上履きの大人サイズのものが、玄関に置いてあった。

家に入ると、会ったことのない年配の女性が静かに部屋に座っていた。
顔を見た瞬間、母にそっくりで驚いた。母の親戚なのかなと思った。

呆然としている私に、里枝さんは「こんにちは」と、ふっくらした笑顔で、でも少し緊張した感じで挨拶してくれて、私は、こんにちはと言った。

ゆったりした優しそうな人、という印象。

ゆったりと何かを取り出して、これどうぞ、と、キティちゃん柄のハンカチを私に差し出した。

まだ、呆然としている私にいつの間にか隣りにきていた母に「もらってあげて、ありがとうって言って。」と静かに言われて、ハッとして、私はハンカチを受け取りながら、ありがとうと言った。


2022.8/17追記


その晩は家で、里枝さんと両親と4人でご飯を食べた。
静かな時間。父が場を和ませようと何かを話し始めた時だった。随分昔に父が里枝さんと会った時の話だったように思う。
ずっとピリピリとしていた母は、父が話し始めてすぐに、会話の流れを遮って「やめて!うちの姉さんをバカにせんといて!」と怒鳴った。

父はすぐに黙って、里枝さんは静かに表情も変えずに座っていた。
怒鳴った母も黙って、しばらく沈黙の時間が流れた。

しばらくして父が話し始めた。

もっと早く、お義姉さん(里枝さん)に、小浜に帰ってきてもらいたかった。今回、家に来てくれて、小浜に帰ってきてくれて、ほんとに嬉しいんです。
長い間何もできなくて、申し訳なかったと思っています。

里枝さんは終始、ふんわりとした表情で、母は何とも言えない表情で、父の話を聞いていた。

再びの沈黙の後、食べよ食べよ〜、父の声で、みんな静かに食べ始めて、父だけが、これがおいしいとか、お義姉さんは(食べ物)何が好きなんですか?とか、少し雑談をして、里枝さんは少し答えてニコッと笑い、母は、何とも言えない表情だけど、険しさはなくなって脱力したような感じで。

私は、何だかよくわからないけど、なんか良かったみたいかな?とホッとして、父と里枝さんの会話を聞きながら、ご飯を食べた。

母の言った「うちの姉さんを、バカにせんといて」という言葉が、今でも鮮明に記憶に残っている。本当は誰に向かって言いたかった言葉だったのか。

翌朝起きたら、里枝さんはおらず、玄関の里枝と書かれた靴も無くなっていた。

遅い朝ごはんを一人で食べている時に、母が隣りに来て、ごめんねと言った。
私 何が?
母 びっくりしたやろ?
私 まあね

2022.9/13追記

母はゆっくりと話し始めた。
内容はこんな感じ。

里枝さんは、母の姉であり、私にとっては叔母にあたる。若い頃に事情があって精神科の病院に入院した。一回精神科の病院に入ると、地元に戻ってくるのは難しく、ずっと入院が続いていた。
高齢になって、老人ホームに入れる年齢になって、それなら地元に帰ってくることができるということで、今回は見学のために里枝さんが小浜に来た。

里枝さんの見学の日と、私(kuroko)の帰省が偶然被ったらしい。

母 日程が被ってどうしよっかなと思たんやけど、kurokoなら、まあいっかと思って。前もって何も言わんでごめんな。

私 それ(日が被ったのは)はいいんやけど。ずっと精神科の病院におったって?優しそうな人やったけど。なんで?

疑問に思ったことをおもいきって聞いてみた。

母は、ちょっと首を傾げて考えて、私ではなく遠くを見ながら、誰にともなく言った。

「20歳の子にキティちゃんのハンカチは、、おかしいんかな?」

私は、その言葉を聞いた瞬間に、幼い頃から母が私にかけてきた言葉(人が信用できないと決めつけるようで嫌だった言葉)の背景と真意が、少しわかったように思った。

・人に変と思われたら人生が台無しになるから、変と思われんようにせなあかんよ。
・家では何をしてもいいし好きなことをしたらいいけど、一歩家の外出たら大人しく余計なこと言わんと黙っとく方がいい。
・大きくなったら小浜(地元)から出たほうがいい。親族のことで、影でいろいろ言われて結婚できんようになるかもしれんから。

母自身も納得のできない、でもどうにもならないことの中で、なんとか折り合いをつけて地元を出ずに暮らす方法を編み出してきたのかもしれない。
そして、それを娘に伝えようとしていたのかもしれない。

里枝さんと出会った数年後に、新卒で働いた職業が、精神科の病院のソーシャルワーカーだったのは偶然だった。
そこで、里枝さんと同じような境遇の人にたくさん出会った。
その時にはじめて、叔母である里枝さんは、その時代の犠牲者になっていたのかもしれないと思った。

1950年代に、精神科の病院が儲かる時代があったそうで、その頃に精神科の病院がたくさん作られて、それは今もたくさん残っている。

本当に苦しい時に助けになるのか、病院経営の犠牲にされてしまうのか、そこを自分で考えて選択できたらよいと思う。

少なくとも、選択肢のなかった叔母の里枝さんのような境遇に誰も陥らないことを願っています。
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