見出し画像

篠田桃紅からの諏訪未知を浴びる。

篠田桃紅の展覧会をオペラシティーに見に来た。初めてみる「書」をどう捉えていいのかわからないまま頭をグルグル回した話。

篠田桃紅チケット

書には確かに独特の骨格と体質がある。しかしこれは現行の文字というものにのみ当てはめて育てなければならぬというものではない筈である。
私はこの書の持つ独自のいわば全人間をいみじくも表出する底の端的さ、一瞬一瞬の生の堆積を物語るに最も適した材料と手法といったものを切ないほどまでに愛着している
また非常に大切にしたいとも思っている。だからこそこの特質を狭い関連の中に縛りたくない。

キャプションに書いてある文字をメモ帳に書き写してみる。書に対してどう鑑賞して良いのかわからない自分なりの抵抗ゆえにこうでもしないと入ってこない。書に対しての馴染みがないこともあり、どうやって見ればいいのか、どう感じるのがいいのか、歩きながら見ている。

来館者に衝撃的におしゃれな女性がいた。俺だけスーツ姿で会社をこっそり抜け出してきたみたいだ。場違い感丸出し。結局、ピンとこないのか、、見に来ている人を観察している。1枚1枚見て熱心にメモを取っている女性を見つけた。一体どんなインスピレーションを受けて何に感銘を受けているんだろうか、、どんな内容のメモとっているのだろうかと気になった。

「よかったらどんなこと書いてるのか見せていただけますか?」新手のナンパのようなことをしたい欲望が出てくる。結局そこまで至らず。

とりあえず大きな書と対峙。同時に何も出てこない自分と向き合ってみる。う〜ん。文字が書いてあるな〜。「判断できない」「いいのかどうかもわからない」が正直な感想だ。カレーを食べているが何が入ってるかわからない状態。いや、、カレーじゃなくて初めて食べる謎国の民族料理をどう判断すればいいのか。「うまいのか、不味いのか?」それ以前の問題だ。尺度がない。判断できない。とりあえず息遣いを感じてみよう。

諦めてソファーに座ったところで、さっきの女性がまだメモを真剣に書いている。感化されて、「せっかく来たんだから俺も試してみよう」となった。篠田さんは何か言いたいのか、人生を使って何をぶつけてたのか、、紐解いてみようじゃないか。「タイトルからヒントを頂戴してみよう」などと書とタイトルの関連性を見比べながら想像。う〜ん!

曇り空に文字が書いてあるような書、抽象画か、自分が親しんできた絵とは全然違う気がする。ルールも違うか。そりゃそうか。一体篠田さんは何を出現させようとしているんだろう?気になるけど、ギブアップのような。漂流しているようだ。

「分かんねぇ〜〜」っていう諦めた時に、「あ!そのまま分かんない状態で対面してみればいいんじゃないか」とか思った。そもそも、わかんないってどういうことやねん!わかるとか、わかんないとかじゃないやん。感じればええやんけ!なんて自分で納得したいのか無理矢理な理論でまとめようとする。どれだけ(入場料の)元を取ろうとしているのか。1200円払ったんだからタダではカエラねぇぞ!って貧乏根性がうねりを上げる。

結局、人間って自分で理解したがる動物なんだよな〜。これがいいとか、あれがいいとか、それが正解かどうかなんて関係ないのかもな〜。スッキリしたいだけか?とか、もっと感覚的に解りたいのか?

そもそもいいとか悪いとか解釈って誰が決める。自分が決めればいいのに、誰かの評を参考にする。そうだよね〜とか。どういう解釈をするか、わからないなりに考えたい。どこかに取り掛かりはないだろうか?

考えを止めてはいけない。ストップ メイク なんちゃらだ。自分で判断を放棄しちゃあいけない。白旗をあげるでない。もっと理解しようとするんだ!

なんて頭の中はよりグルグルしている。


「マジでわかんねえ。もうだめだ。わかるとかわからないの理論じゃない。わからねえ!」諦めてリトグラフも綺麗だなぁなんて見ていると、またキャプション発見。助け舟か!

その機、その折、その一緒に注ぎ傾ける気持ちだけが強く前のことは忘れている。リトグラフを20年もやってきて、トシもとり、それでも書くときは私はアガっていて忘我の状態なのである。またそういう状態でないと、仕事もできない。因果というほかない。

そうか、そうか、そうですか そうですかそうですか。人生をかけてぶつかってるんだよな〜と。別の要素で、キャプションで感銘を受けた。いや〜、文字って強いですね。伝えるの。文字って伝わるからすごいな〜!


話は変わって感じたこと、篠田さんの色の使い方は特別にシンプル。黒、白、灰色、赤色、ほぼこの色で統一されている。たまに差し色みたいなの入るけど、極端に色数が少ない。

ふと一枚の書の前に立ち止まる。「ん?」これ面白い。「井筒」と言う作品がクレイジーだな〜と。見えてきた。学芸員の人に「すいません、写真撮っていいですか?」と聞くとニッコリと笑顔で「すいません。この展覧会は全て撮影はご遠慮させていただいています」と断られる。しょうがないのでノートにメモ。下の写真は、さっきネットで拾ってきました。

メモ
ネットから拝借、、「世々」「時間」「井筒」

しかし何故ここだけ色が違うんだろう?何でここだけかすれているんだろう?この色にこだわったのは?そういう作家の拘りとかディティールを見ていると、作家の独自な意味とか意図とかを勝手ではあるものの読み取ってしまう。「勝手に読み取る」それが、今の私の醍醐味なんだから、いいじゃないですか!そうだよな。向こうから来るものに対して、こっちも飛ばさないとな〜。受けるだけじゃなくて、こっちで能動的に見ないと。見ているとなんか面白くなってきた。

てか、書って一瞬っすよね。書く瞬間に煩悩とかに邪魔されたら、書こうとするものが書けなそう。書ける自分にセットしてから書く。書けるようになるまで書く。心が整うというか。となると、自分を整わせること自体が「書」なんじゃないだろうか。なんて思ってきた。

そうなってくると生き方とか精神的な話になっていく。煩悩とか消し去ってウリャって書き出す最極なるプリミティブなものなのではないだろうか、、、それは息遣いか、それは人生か。それは生きた証か。「その一瞬一瞬でぶつけること、ぶつかること」とか考えていると、篠田さんとチューニングがあってきたような気もしてきた。篠田さんの声が聞こえたような、、勝手にそんな気になってしまった。

先ほどまで「わからん!わからん!」なセリフ言ってたやつが「面白いかも」なんて気もしてくるから人間の頭なんて不思議だ。不思議だし信用ならんもんだ。どうにでも騙せるよね。自分の心なんて。


「よし。ま〜いいやっ!満足」と思って上のフロアに行く。「1960─80年代の抽象」。白髪一雄に、山口長男、吉原治良、李禹煥、坂本善三、斎藤義重に、超有名どころの作家たちの、the抽象作品が並んでいた。「もう抽象はいいよ〜。頭使いすぎたからいいわ〜〜!」ってなった。抽象画を捉える頭をフルに使いすぎた。

私の集中力はここまでです!って白旗。

ずらっと並んだ抽象画をポポポ〜と早足でみる。一瞬目を惹かれた内間安瑆さんの木版画(下)、綺麗だった。あとはもうお腹いっぱいで、軽く見て飛ばした。今日のところは。

内間安瑆 Forest Byobu (森の屏風・秋)

と言うわけで、、オペラシティ〜行ってきました!!

最後の最後、project Nのコーナー。このコーナーは若手紹介って意味合いもあるのか、初めてみる人が展示されていることが多い(スペース)。まだ名の知れてない若手を扱う場所ってとこだろうか。オペラシティに来るたびに通るけど、「いいっすね!」となったことはそこまでない。記憶に残っているものがない。まだ若々しすぎるのか、作品数が少ないからか。

「はい、はい、この手の感じか〜」といつも最初の絵を見て速攻判断、結局駆け足の速さで通り過ぎていく。今回もそんな感じだろと、全然期待してなかったのです、、、が、、何枚か見て「あれ?これ、、すごく良くないか」と立ち止まってしまった。諏訪未知さん??もう一度タイトルと絵を見る、、絵に張り付けられて、通り抜けられなくなってしまった。もう一回初めの絵に戻って、タイトルと共に絵を確認。「この絵たちユーモアも素晴らしいし、とてもいい!」と虜に。絵の前で鎖を巻き付けられたかの如く「こりゃ!最高に気持ちいい」と唸ってしまった。

「おもしろ〜」となった。篠田さんの書は見た回数が少ないからか、よくわからないと言う感想して持てなかったけど、諏訪さんの絵に関しては「これですよ、これ!」ってそれで説明とか解釈とかいらない。そんな風に思えた。説明なくてしっくりくる。こういう出会いがあると胸を撃たれてしまう。何も期待していなかったってのもどうかと思うが素晴らしかった。めちゃくちゃ良かった。

もらってきたリーフレットの中にこんな文章が。

諏訪によれば「ふとした瞬間に当たり前だと思っていた事に小さな亀裂が入る時の、足元に穴が空くような感覚」を意識して制作する事だと言う。

堀本彰さんの文章

いや〜。全て素晴らしい絵でした。気になったものを「右手と左手の分離」と「待つこと」を抜粋!

右手と左手の分離
待つこと

と言うわけでオペラシティ〜に行ってきたら最後に諏訪さんの素敵な絵に会えたって話でした。わかるとかわからないとか、もう少し経験値が上がれば味方も変わるかも知れない。「書」に対して自分なりに好き嫌いが出てくる時が来るかもしれない。そしたらまた書いてみよう。

諏訪未知さんのページ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?