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パラレル君、どう選択する?

12月31日今年最後の日。 5時30分自転車を走らせて駅まで行く。月がかなりシャープで鋭利。グリベルのピッケルのよう。寒い中、動いている人はいないだろうと思いきや、いるのよ。走ってる人何人か。見かけた。みんな朝早く走ってるの。すごいな~。やるなー。と思いながら自転車を走らせる。サミ~。そういえばこの前「知ってる人なんすけど、54歳を超えて100キロマラソンとか挑戦してる鉄人みたいな人いるんです」と言う話を聞いた。「すごいっすね~」と私。1日で100キロすか。そりゃ凄い。


寒いぜ。益々の寒さだ。息も白い。こんな寒かったっけか12月。信号の向こうに散歩してる人。なかなかのデカさの白い犬、2匹を散歩しているおじさん。おじさんは、黒いダウン、帽子、手袋、かなり防寒している。人間たちは寒さに耐えれないから防寒だ。ただ犬達は何も着ていないっすね。当たり前か。いやこんなに寒いのに、寒くないのだろうか。凛々しいお姿だから寒くないって感じに見える。さすが犬たち。凄いですな。ま。これは生き物が違うから凄いとかじゃないってのか。さてさて100キロマラソンの話だ。「私は全然走れないが、例えば、来年走ろう!って決めて、そこを目標にして走れる体にしてなることも可能じゃないっすか?」と私答えた。「うわ〜いけますかね?」と言われた。私「もちろんタイム的には無理かもしれないが、完走することを目標にすれば、○○さんなら可能なんじゃないっすか」という類ない話をした。100キロって、とてつもないでしょう。私は全然走らないので想像もできないけど、少しづつやればできそうな気がする。「変態がやることでしょう無理ですよ」と不可能と決め打ちするにはもったいない。それじゃ何もできないでしょう。できると思う。もしやる気があれば。って言う話をした。変態のやることか、、世の中にはいっぱいありますね。それをその人は普通でやってるんでしょうけど。それが才能だと思ったりする今日この頃です。


そうそう「そんなに可能性を無駄に放り出すものではございません」と言う話でして、小さな選択、小さな決断、粘り強い継続をこの先続けていけばもしかして想像もできなかったことも可能になるんじゃないか?ただそれをちゃんと思えるかどうか、粘り強く続けるには「努力」とかじゃなくて「もう好きか嫌いかか」もしくは「闇雲に考えることなくずっと穴を掘り続けれるか」どうかか。なんて思うわけです。

私はたまに人生をあみだくじの無数の線のように感じることがある。あみだくじ。あみだくじ。どの道を通るあみだくじ。


いきなり100本も200本も飛び越えて大谷翔平(のよう)になろうなんてことは、ハナから無謀というものだが、そこに近づこうと思うことはできるはず。まずは、腹筋を30回できるようになるとか。有名な人で変態というかスーパープレーヤーはたくさんいる。とんでもないところまで行くのは無理だとしても少しずつ少しずつ近づくことは可能なのではないか?そんなふうに思う。ジワジワと。できることを最小限で良いので、ちょっとづつちょっとづつ増やしていく。自分の命がどこまで続いていくか分かりませんが、、あ。そうだ。命は縦軸としよう。限られた命の間に。

どれくらい右に左に行けるか。横軸は「選択」か。「挑戦」か。「チャンス」か。「準備」か。何度かクリアしていけばもしかして変態的に大それたことも可能になっていくと言うか普通になっていくと言うか。何もしなければストンと下に落ちるだけだが、何かを少しづつ重ねていけば、次のステージにまた次のステージに行けるのではとか。何もしないでストン、もうそれは退化とかただの老化だな。


うおー。さみー。自転車を降りる。あ。板ガムが落ちてる。これ食べれるのかなぁ。アホなことを考える。何年か前、どついたるねんのウーちゃんが渋谷に置いてあった飲みかけのCCレモンを飲んで腹を壊したツイートを見た。「すげ~」と思ったもんだ。若い時しかできないな。あの生命エネルギーというか馬鹿なことも平然とやってのけるエネルギー。大好きです。酔っぱらった衝動とも言うのか。

板ガムをそのままスルーしてLAWSONに入る。ここのLAWSONは狭い。よくこんな 狭いところに商品を陳列できるなあと思うくらいビッシリだ。駅前だから家賃が高いのか?あ。もともとミニストップだったな。ミニストップも今やLAWSONになった。そしてサンクスは、サークルKとくっついて、ファミマになったな。コンビニ業界も戦国時代ですな。朝から店員さんが 商品を棚に並べている。いつもの風景だ。「すいませ~ん」パンを買う。そうだ。私たちの、いや少なくとも私の人生は選択だらけだ。選択をすることによって縦の棒から別の縦の棒に、別の人生が待っている。

朝のパンひとつで変わらないが、変わることもあるかもしれない。いやいや、ちょっと朝ご飯のパンでは大袈裟だ。いや、そう言う話でもなかろう。いやいや腹いっぱいになって気持ち良くなって満足して電車に乗るのも違うだろう。これは言い過ぎか。誰と会い、誰と話して、どんな顔をするか、どんな表現で物事を捉えるか、どんな伝え方をするか、にこやかにするか、シュールにするか、丁寧にするか、横暴にするか、そんなひとつ一つの所作で変わってくるものもあるだろうて。自分も変われば、それによって世界に対する接し方も変わる。ついでに言えば横柄な態度を取ればちゃんとしっぺ返しも来る。それは自分の甘えか、甘さか。丁寧にいけば丁寧に返ってくるのだ!え?本当?それはどうかわからないし、なんとも言えないが、雑にしていたら雑な世界しか待っていないのは事実だ。

どの線に乗るか?いや、どの線に乗りたいのか?どの線に乗らないか?何を選択して、何を省いていくか。どこを意識して、どこをシカトするか。何を納得して、何に抗うか。中学生のようなことを考える。できれば自分が納得できるように生きていきたい。納得?自分が納得?何をそんなに生き急いでいる。何を寂しがっている。どこで不満をぶつけているんだ?満足してない自分を発見する。ま。それはそれで良いか。テンションも乱れ乱れだ。


遠くの誰かが歩いてる線を羨ましがったり妬んだりするのではなく自分の歩いている線を右に左に選択して歩く。意識しながら予想して。少しずつ少しずつしか動けない。予想していないところには行けない。ありえないことは起こらない。命令して動いてくれるのは自分自身。なんでもできるさ。なんでも命令してみよ。ほら。ダメダメ!頭の中で葛藤がある。ついついやって反省すること多数。何も変わっちゃいない。とか言いながら命令をサボるのも自分に与えられた特権だ。当たり前のことを毎年凝ってはトライしている。馬鹿の一つ覚えのように。グルグルまわっておる。


来年はどこを歩いている。想像しよう。がんばーです。


と言うわけで今回は「パラレル」がお題でした。1年間、お題に促したりそくさなかったりと12カ月分やらせていただきました。ここに御礼を。楽しかったです。皆様に幸あれ。

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