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脱げないヴェールのかぶりかた:遠藤麻衣ロングインタビュー


記事概要
今年4月に「日本発のクィア系アートZINE」と銘打たれた『Multiple Spirits(マルスピ)』の第2号が刊行された。遠藤麻衣はこの雑誌の共同編集であり、アーティスト、俳優でもある。
アーティストとして「アイ・アム・フェミニスト!」という個展を開催したかと思えば《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》という作品を発表し、編集者としてあくまで暫定的に「クィア系」という言葉を冠すると宣言する遠藤の活動は、どうしようもなくつかみどころがないように思われた。
インタビューは2週間ほどあいだを空けて2日間にわたっておこなわれた。そこからゆっくりと浮かび上がってきたのは、むしろそのつかみどころのなさを「そうは言っても本当は……」と、ミスティフィケーションとしてとらえてしまうことの危うさだった。
ここでは美術、ジェンダーやセクシャリティ、制度と生活、演じること、怒りといった話題を旋回しながら、つかみどころのなさこそが「本当」であること、その切実さ、その先の共同性が語られる。
連帯であれ分断であれ、自分が、他者が誰であるかということからしか話が始まらない現代において、彼女の実践にひとつの血路を見ることができるだろう。
(インタビュアー:福尾匠)


1日目(5月14日)

——『マルスピ』について。美術とジェンダーについて。

福尾:もうひとりの共同編集の丸山美佳さんと『マルスピ』を作ろうとなったきっかけはどんな感じだったんですか。

遠藤:美佳ちゃんとは前から知り合ってて、わたしが美佳ちゃんもいるウィーンに留学したのが、2018年の2月終わり。その前の2017年の10月に、じぶんの結婚式の作品をつくったんです。《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》っていう。で、それが終わって、しばらくして離婚して。

福尾:それもすごい話ですよね。(後述!)

遠藤:そうそう。それでもう、どうしよう!みたいな。ちょうど住む場所もなくなるっていうタイミングで留学し、とうぜん美佳ちゃんともその話になったんですけど。知人としてプライヴェートなことを話すっていうレベルと、作品として、わたしが《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》っていうタイトルで、アイロニーをもってじぶん自身の結婚を作品として扱うみたいな話と、両方のレベルで話してたんです。
むこうに行って、ふたりで飲んだ夜があって。そこで、いままで行儀良い感じで話していた話を、より深く話したときに、なんでもっとひとに話して相談とかしないの、みたいに言ってくれて。それと美佳ちゃんの、「わたしずっとZINEをつくってみたかった」っていう話が折り合って、じゃあふたりでなんかつくっていこうよってなったっていう。

福尾:なるほど。『マルスピ』は「日本発のクィア系アートZINE」っていうコンセプトを立ててやっておられますね。不思議だったのが、クィア系という言葉をあくまで暫定的に使ってるんだと最初に宣言されていたことです。この変な距離感みたいなのが一貫して気になってるところです。これは、クィアっていうものをじぶんたちが引き受けてやっていくのとはすくなくともちょっと違うわけですよね。それはえんまいさん(遠藤麻衣のこと)の作品でも、一貫して「フェミニズムを使う」とか、「フェミニストを演じる」っていう言いかたをされてると思うんですけど、フェミニストとして作品をつくるのと、フェミニズムを扱って作品をつくるのもやっぱり違う気がするんです。この違いとか距離感みたいなものって、雑誌をつくっているなかでとか、作品をつくっているなかで考えることってありますか。

遠藤:いま日本では、フェミニズムに対するイメージができあがっていて、話がそれ以上しづらいっていうところがあるので、まずそれは使わないって決めてて。フェミニズムにしろクィアにしろ、生活のなかから体験にもとづいてできあがってきた理論みたいなとこがあると思うんですけど。その理論が、じぶんたちの生活と離れてるというか、そういうところがけっこうあって、やっぱりなんか借り物の言葉というか、それ以外に言葉がない、みたいなところがあり、「借りてる」っていう意識でやってます

福尾:そこらへんは、日本がヨーロッパ由来の言葉を使ってなにかをするときに付いて回る問題ですね。フェミニズム美術の問題で言えば、日本でも97年から98年に「ジェンダー論争」と呼ばれる論争が起こって、その詳しい過程が『日本?女?美?』(慶應義塾大学出版会、1999年)という本の千野香織さんの論考なかで紹介されています。当時、ジェンダーを主眼にした展覧会をしたこと自体に対する批判が向けられて、そのときに、けっきょくフェミニズムというのはヨーロッパの言葉であって、それを借りてきて展覧会にするっていうこと自体が批判されたんです。それはフェミニズムだけの話だけじゃなくって、とくに僕なんか西洋の哲学をやってる人間だからいつも意識するんですけど、じぶんの生活のなかから出てきた言葉とか概念じゃないものを名乗ってなにかをするっていうことに対する違和感は、僕も共感できるところというか。

遠藤:わたしあんまり英語で読むの得意じゃないんですよ。だからフェミニズムを調べようとすると、日本語の文献を頼りにするしかないみたいな感じがあって。学びとして知りはじめたのって、留学がきっかけみたいなところもあるんです。そうなってくると、翻訳ってやっぱ大事なんだなっていうのをすごい痛感して。翻訳されてるフェミニズムを読むと、たぶんすごく偏ってる。ウィーンでは、マリーナ・グルジニッチ教授のゼミにいて。マリーナは南アフリカのアキーユ・ンベンベの「死の政治necropolitics」(ミシェル・フーコーの「生政治biopolitics」概念を批判的に継承するもの)という理論を扱ってる。ヨーロッパにとっての周辺の理論をどう吸いあげるかっていう意識を初めて肌で感じました。そのへんもあるから、翻訳はどんどんしてほしいな。いずれできるようにもなりたい。そういう意味もあって『マルスピ』をバイリンガルにしてるっていうか。美佳ちゃんが翻訳担当してます。

福尾:そうですよね、バイリンガルですもんね。でも、一方で変に舶来の言葉を使うことに対する気恥しさみたいなのって、すごく大事なことだと思ってて。たとえば、えんまいさんは、対談やvol. 2の「おしゃべり」のなかでも少女漫画の話をたくさんしてるじゃないですか。そういう、本当に身近な対象というか、サブカルチャーから語り起こしていくっていうのは、大事なことだなと思います。それこそフェミニズムが「理論」としてしか紹介されずに、しかもそれをやるのが大学の研究者のひとたちばっかりだったりすると、普通のひとたち、あえて言いますけど、普通のひとたちは、フェミニストっていうのは賢いひとたちなんだ、みたいな。頭のいいひとたちがやってることなんだなっていうことになっちゃう気がするんですよね。もちろんそういう理論とか研究は大事なんだけど、それをいろんなひとに広めるとか、いろんなひとに気付いてもらうっていうときに、あんまりそういうことばっかり言っててもしょうがないところはあって。だからこそ、言ってみれば知的じゃない対象みたいなものから考えをはじめていくっていうのはすごい大事なことだと思いましたね。

(Multiple Spirits(マルスピ)vol.2)

遠藤:『マルスピ』のvol. 2の表紙は、見た感じでわかるかもしれないんですけど、90年代のマンガの要素を参照しながらやっています。『りぼん』や『なかよし』をはじめとした、いわゆる大衆的なマンガ、たとえばCLAMPとか、あと、さいとうちほさんとか武内直子さんとか『セーラームーン』、『レイアース』、『ウテナ』などをぜんぶ混ぜたような感じで。で、それともうひとつ、ウィーン分離派など世紀末美術的な意匠も参照しています。『りぼん』や『なかよし』の付録のデザイン、とくに『レイアース』に、すごくミュシャ的なデザインが多かったので。

福尾:なるほど。それこそ批評家の大塚英志の近刊書ではそのあたりのことが扱われるようですね(『ミュシャから少女まんがへ』角川新書、2019年7月10日刊行予定)。

遠藤:去年出したvol. 1では明治時代に平塚らいてうが始めた『青鞜』の表紙のデザインを転用するってことをやって。当時も、高村智恵子がこの『青鞜』の表紙を描くために、ウィーンの世紀末美術の意匠をそのまま転写してた。90年代の漫画でも明治大正期の文芸でも、西洋美術が表象してきた女性のイメージを転用するかたちで、しかもそれを直接的に文脈もぜんぶ翻訳するってよりは、じぶんたちの物語に当てはめて読みかえるかたちで、その意匠を使ってて。そういうやり方を、『マルスピ』も意識している。そういうところからこのデザインが来てるんです。
『マルスピ』では、いまのフェミニズムや、クィアのアートの潮流はこうですみたいな紹介として翻訳をやってるかっていうと、まったくそうではなくて。むしろ、翻訳された言葉も使いつつ、どうやってじぶん達の言葉を積み重ねていこうかって意識しています

(Multiple Spirits(マルスピ)vol.1)

福尾:ジェンダーを主題にした展覧会をやったときに、もうひとつ、美術というのは現実の社会的・政治的な世界とは、とりあえずは切り離された領域であって、芸術は芸術の自律性を追い求めるべきなのだから、そういうところに、容易に生活実感にもとづいたじぶんの政治的な意識みたいなのを持ち込むのはどうなのかっていう批判があったんですね、当時。もちろんそれは今となっては言語道断なんですけど、そういう批判があったっていうのは事実だし、それがある種、業界全体のゆがみみたいなものを象徴しているのもたしかなんですよね。批判したのはもちろん男性で、いわゆるフォーマリスティックでモダンな美術に対してすごく愛着があるひと。で、芸術とはそういうものだと思っているひとから批判があったんです。
それって、構造的にはいまもそんなに変わってないのかなっていう気もするんです。というのは、フォーマリスティックな作品、展覧会のなかや美術史のなかだけで完結するような作品をつくるという、近代以降の美術の「本流」をやっていくことと、それとはべつに、それを政治的な方向にひらいていく美術のありかたがあるとして、やっぱり前者の方法を、女性はとりづらいと思います。あくまで傾向としては。だからこそ、vol. 2の巻頭の「おしゃべり」で百瀬文さんが、最初じぶんがフォーマリスティックな作品をつくっていたのは、「肩パッド」を入れてやってたんだっていう話をしてるんだろうなと思うんです。そういう構造のかたよりみたいなのは20年前もいまも、そんなに変わってない気はしますね。だから、女性がある種ちょっと、なんというか、ダサさとか気恥ずかしさみたいなものを、どうしても背負ったうえでの仕事をしなきゃいけないようなことはあるんじゃないのかと思います。

遠藤:しかも、それがある種批評として機能するというか、フォーマルな美術史がつみあげてきた美に対して批判しようとすると、女性が美しくないということとか、まずは言わないといけない、みたいな。そういうところで、けっきょくじぶん自身を用いないといけなくなったりはしますよね。

福尾:そうなんですよね。一方ではいじわるな批判として女性作家だから、じぶんの女性性みたいなものを売りにして、フェミニズムを商売道具にしながら美術をやってるんだっていう批判はありえると思うんですね。でもそれは見当違いな批判で、そうせざるをえないようなかたよりがもとからあるわけですよね。

遠藤:でも、そういう見かたでけっこういろんなもの見てる気がする、じぶんが。これ誰がつくったんだろうって、女性か男性かとかけっこう気にしながら見ちゃいますね。

福尾:そうですね。それはまさにそうで。かりにさっき言ったようなかたよりがあるんだとしたらそれはよくないことなんですけど、かといって、本当にジェンダーみたいなのをなしに、フラットな目であらゆるものを見れるかどうかっていったら、それは難しい。その折り合いをどっかしらでつけなきゃいけないんだけど、すくなくとも、構造的に根付いてしまっている不均衡は正したほうがいいですよねっていう考えかたはあると思う。

遠藤:それはその通りですね。


——フェミニストを「演じる」こと

福尾:さっき言った、フェミニズムが知的なものとして見られすぎてしまうと困ったことになるっていう話なんですけど、さいきんポリアモリーのひとで、ポリアモリーについての本を書いてたりするひとのインタビューを読んで、すごい知的だなと思ったんですよ。とても知的ないとなみなんですよね、ポリアモリーって。これは、正直なところ、多くのひとはついていけないだろうと思ったんです。というのは、彼らは、じぶんたちはマイノリティではないし、ポリアモリーは性欲の問題ではないって言ってるんですよ。マイノリティじゃなくって、論理的に考えた結果、この方がいいからこういうことをやってるんだっていうプレゼンテーションのしかたなんですよね。その点で、ほかのセクシャルマイノリティのひとたちとは、たぶん違う。とはいえそういう、ある種のクィア性だとか、マイノリティ性に付いて回る、「頭のよさ」みたいなものはあると思っていて、だからこそ、容易に反動的なことが言えてしまうわけですよね。いや、普通のひとたちっていうのは、そんなこと言われたって、そこまで頭は回らないんだから、普通にいままでどおり、男女で一対一のカップルをつくって、結婚して子どもを産んでっていう話になっちゃう。
実際、一方にそういうマイノリティをめぐる「知的な」言説があって、他方で反動主義的な傾向は、いま男性の側で目立ってきています。それこそ、「おしゃべり」のなかにも、KKOっていう、「キモくて金のないオッサン」の話題が出てきてましたね。彼らはそういう知的な流行としてのフェミニズムみたいなものに対する反抗心をもってるわけですよね。この対立自体を壊した方がいいなと僕は思っています。だからこそ、えんまいさんがサブカルチャーの文脈から、いろいろ引っぱてきてるっていうのがおもしろいなと思ったんです。
どうですか、身近にフェミニストのひととか、そういう研究をしてるひとがたくさんいて、それに対する、先ほど、じぶんはあとから勉強したんだとおっしゃってましたけど、勉強する対象としてのフェミニズムっていうものと、じぶんが普段生活しているなかで感じる違和感というものの関係についてはどう感じますか。

遠藤:フェミニズム的にいいから漫画やファッション雑誌を読んでたわけじゃなくて、とにかく夢中になって読んでいました。
『マルスピ』vol.1で対談したパト・ヴィザウアー(この対談記事はウェブで公開されている)っていう、オーストリアに住んでるアーティストが、セーラームーンを、じぶんを勇気づけてくれるフェミニズム的、クィア的なアイコンとして見てたみたいな話を聞いて、そういうふうに見るひともいるんだ!って知った。じぶんはそういう理屈では見てなかったけれども、経験してた質はちょっと近い、みたいなところがけっこうあって。じぶんの経験のなかで、言説的にはフェミニズムで言えそうな経験もあるけど、でも、それを感じてても言葉にしてこなかったし。フェミニズムと似てる部分もあるけど、こんなに強い意志をもっているわけでもない、みたいなのとかもけっこうあって。

福尾:作品をつくるときに、「演じる」ってことを主題にしてたり、「フェミニズムを扱う」っていう言いかたを一貫してしてたりすると思うんですけど、そのときに、いっかい客観視するわけじゃないですか。フェミニズムっていうものを対象化しようとするわけですよね。その過程によって得られるものってどういうものがありますか。

遠藤:演劇に出演することもあるので、そうすると、「当て書き」されることがあって。そのときに、外側から役割を張り付けられて、思ってもいなかった配役になったりすることもあるんだけど、意外とそれが、周りから見て、それっぽく見られてて。
そういう、じぶんらしさとはまったく関係のないところでじぶんができあがってくる、というところがけっこうおもしろくて。しかも軽いじゃないですか。演劇っていっかい終わったらその役を捨てれるっていうか。その軽さがいいなと思ったのともちょっと通じてて。やっぱり、ぜんぜん生きかた的にフェミニズムとかフェミニストを感じて生きてきたわけじゃないから、わたしの生きるスタイルじゃないし、生きざまとしてフェミニズムを体現するとか、ちょっと重くて無理です。でも、かといってそれはフェミニズムを否定しているわけではないし、みたいなところで、いつでも脱いだり着たりできる対象としておいておけるっていうのは、けっこういいなというか。

福尾:そうですよね。それこそ、クィアとかフェミニズムっていう思想自体が、本当は、じぶんの属性、じぶんが誰であるかとかっていうのはどうでもいいじゃないかっていうことを、究極的には言っている思想のはずなのに、「私はフェミニストだから」とか「私は女性だから」と、私は、っていう言葉がつねに最初に入ってくるようになってきたのがおそらく2010年代とか、それぐらいだと思うんですよね。SNSが普及して、当事者性が発言権に直結するような流れになると、フェミニズムの理想みたいなものからは一見すると遠ざかってしまっているように見える局面があると思うんですね。それに対して、私はこうだからっていうのじゃなくて、ある種着脱できるものとしてフェミニズムとかフェミニストとかっていうものを扱うっていうのは、そういうゆるさとか軽さっていうのが、大事なものだと思いますね。

遠藤:そうなんです。「本当のあなたは……」みたいな話って、好きじゃないんです。そういう不変な本質を求められるみたいなところがあると、違うと思ってしまって。例えばセクシュアリティとかも、決まったら一生そのまんま、みたいなことはないと思うんです。いまのじぶんはこうだけど、10年たったら変わってる、みたいな、絶対ひとって変わるはずなのに、フェミニストであることは変わらん、みたいなのって変だし
さっきおっしゃった、ポリアモリーを実践してるかたたちのように、性質としてではなくて、こうなるべき理想の姿みたいなことで、毎日の行動を決めていく、みたいなことは、じぶんにはできないっていうか。たとえば、ダイエットとかもわたしできなくて。毎日これしか食べないって決めても、やっぱり全然違うものを食べたくなっちゃう。でもそれを許さなかったら、ちょっときついじゃないですか。食べてしまったじぶんにも、嫌悪感が激しいっていうか。ちょっと食べてもいいことにする、ぐらいの、ゆるい気持ちでいないと生活がしづらい……あ、お茶飲みますか。(スッ)

福尾:いただきます。(ズッ)

(遠藤さんによる「眼がクッキーになるとき」)

——脱げないヴェールのかぶりかた

福尾:李静和(リ・ジョンファ)っていう政治学者の、『つぶやきの政治思想』(青土社、1998年)っていう本があって、そこに美術作家の嶋田美子さんとの対談が載ってるんです。そのなかで著者は、当事者性っていうのは当事者自身にとっても暴力なんだっていう言いかたをしてるんですね。というのは、あるなにか、トラウマをかかえる経験をしたとする。それを語るかどうかっていうのが、まずひとつの大きな問題ですよね。語って、周りのひとや社会に対してちゃんとメッセージを発信するっていう選択肢もあるし、語ることはあまりにも、じぶんに対して厳しい状況を強いるから黙っておくっていうこともありえるわけです。語った瞬間に、じぶんの痛みみたいなものは、ある種カギカッコにくくられる。言葉のなかの痛みになる。でも語らないとそもそも当事者にはなれない。そこにジレンマみたいなものがあるはずだっていうふうに言ってて。
そのことについて彼女は、ヴェールをかぶることからは逃れられないっていう言いかたをするんです。言葉にすることは、ある種、じぶんが本当にリアルな体験した痛みを抽象化することだから、それはいったん、本当のじぶんから切り離されるんだけど、それがないと共感なんてありえないですよねっていう話もするわけです。言葉っていうのは、ある種ヴェールをかぶることなんだけど、ヴェールをかぶらないと共感なんてできるはずがないんだからっていう、すっごいアンビバレントな主張をそこでしていて。おもしろいなって思ったんです。
たとえばムスリムの女性がまさにヴェール(ヒジャブ)をかぶってますけど、あれって、典型的なヨーロッパ的な見かたからすると、女性の抑圧の象徴になっちゃう。女性が抑圧されている。でも、彼女たちにとっては、かならずしもそうではないかもしれない。それはじぶんのアイデンティティであるかもしれないし、むしろそれを引っぺがされると、どうやって生きていいかわからないっていうこともあると思うんですよね。だから、なにかを演じるとか、なにかヴェールをかぶるだとかっていうことが、当事者性っていうものをある種壊すんだけど、でも壊さないと対話ははじまらないし、そもそもそうしないと当事者は当事者になれないということ。このジレンマみたいなものはもしかしたら、遠藤さんの作品にもあるのかなと思ったんですけど、どうですか。

遠藤:じぶんの話じゃなくなっちゃうけど、ヴェールで思い出したのが、去年Kyoto Experimentで観た、ロラ・アリアスの『MINEFIELD——記憶の地雷原』っていう演劇です。それがイギリスとアルゼンチンの82年のフォークランド紛争(マルビス戦争)を扱ってて。その兵役に就いていた両国の軍人さんでいまは退役された方たちが出演者として出ていて、じぶんたちの経験を舞台上で語るっていう演劇だったんです。イギリスから3人、アルゼンチンから3人とか。舞台セットもしっかりしててそこで当時「腹筋、毎日何回やってた!」みたいなのもぜんぶ再現してくれてすごく見た目にも充実してて、見応えのある演劇だったんです。彼らが饒舌に語ってくれて、当時イギリスの方が有利で、アルゼンチンの方は不利な状況のなかでお互い一生懸命戦ってたっていうことがわかったり。彼らはまさかじぶんたちが退役して、演劇のツアーっていうかたちでイギリスの土を踏みしめるなんて思ってもみなかった、という今の状況も地続きに語られて。
ただ上演が進んでいくなかで、彼らがどうしても語りたくないことがあるっていうことを言い出したんです。そのときにはじめて、いままで語られてた戦争経験っていうのは、彼らが語れることを語ってたんだっていうことに気づいて。劇はそのまま進んでいくんだけど、語れないこともあることが、だんだんわかってくるの。

福尾:まさに踏んではならない「地雷」があるわけですね。

遠藤:そうそう。最終的には、アルゼンチンの退役軍人のひとりがビートルズのコピーバンドをやってて、ビートルズの演奏を全員でやって終わる、っていう感じでした。でもイギリスの退役軍人のなかにひとりだけネパール人の方がいて。イギリスの部隊のなかには、戦地の最前線に出てひとを、こう、卑怯なやり方で殺す、そういう技術に長けた、ネパールのある部族のひとたちだけで構成された特殊部隊みたいなものがあって、でも、彼だけ最終的にビートルズの歌に混じらなかったんです。彼だけぜんぜん離れたところで手紙を読んで、劇は終わったんですけど、その手紙はネパール語で書かれてるっぽくて、翻訳もされてないから。そこにいるほとんどのひとはなにを言ってるかまったくわかんない、それで劇は終わって。
わたしはこの劇すごいいいなって思ったんです。語れない、ぜんぜん表象することができないっていうことが、たくさん語ることによってあぶり出されてくる。とはいえネパール語がまあほとんどのひとはわかんないけど、もしかしたら誰かはわかるかもしれないみたいな、希望とともにそれは上演されていて。なんか、その、たくみくん(福尾匠のこと)が言ったヴェールをかぶるっていう話でこの作品のこと思い出したんですけど、演劇で、当事者のトラウマ的な経験を語らずに、でもなおかつ、それをなかったことにしないための語り方として、それ以外の、戦争経験のなかでも「美しい」出来事というか、語って表象しやすいものをたくさん並べることで、そこに登ってこない暗い部分を観客に想像させるように残してるっていうのは、すごくいいなって思いました。不可視にされている部分を、見える場所にもってくるっていうことは、なんていうかな、誰がヴェールを剥がしていいのかっていう問題がある。じぶんは絶対そういうことやりたくないし、ヴェールの部分について、どういうヴェールをどうかぶせるかっていうことをとことん話して、ヴェールのかぶり方について、かぶりかたを獲得していくっていう方向性はすごくいいなって思いました。

福尾:演じる対象とかヴェールとかの側からその向こうにあるものとか、それでは覆いきれないものが見えてくるということですよね。

遠藤: #MeToo とかは、やっぱりどっちかというとヴェールを剥ごうとしてる運動じゃないですか。

福尾:剥ごうとしてるし、私はヴェールなんてかぶってませんっていう。

遠藤:うん。でもヴェールかぶってませんって言って、そのかぶってない部分を、しかもそれを一言で言いあらわそうとするっていうことをすると、かぶってる以上に狭い範囲のことしか言えなくなっちゃうっていうか。

福尾:じぶんが着てるヴェールみたいなものを脱ぐんじゃなくて、それをつくり変えるっていうやりかたもあるはずで。やっぱりえんまいさんの作品がやってるのはそういうことなのかなと思います。

遠藤:そうですね。《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》も、夫婦同姓だったりとか、結婚制度が女性を抑圧してるっていうのも、誰が見てもそうだと思うんですけど。そういうなかで、それそのものを壊す、みたいなことって、けっこう難しい。じぶんひとりの力じゃできないし。制度そのものの破壊をするっていうよりも、遊びに変えることはできるんじゃないかと思って。やっぱり言葉の力って強いですよね。抑圧って名前をつけるだけで、すべてが抑圧になるし。なんていうのかな。

福尾:《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》は、結婚をしないんじゃなくて、結婚をするっていうことが大事なんだろうなと思って。フェミニストとしては結婚しないっていうのが、もしかしたら模範解答なわけですよね。あるいは夫婦別姓になるべきだって言いつづける。それが達成されるまで私は結婚しませんっていうのが、フェミニスト的な模範解答なのかもしれないけど、あの作品ではそれとは違うことをやっているわけですよね。とりあえず結婚はする。でも、可能な限り、その制度を遊びの対象にするっていうことをやられたということですね。

遠藤:結婚をするっていうことを選んだっていうよりも、すでにあの当時結婚してたから。

福尾:あ、そうでしたね。

遠藤:結婚してたっていう状況を変えるために離婚するのは、まず夫は了解してもらわないといけないし、さらに言うと、家族に了解してもらわないといけない。すでに結婚してるものをわざわざふたりの関係のために離婚するっていうのは、じぶんはできなかったんです。絶対に関係が悪くなるっていうことで。それはよくないじゃないですか。フェミニズム的に正解かどうかではなくて、じぶんのよき状態をつくりたかったから。気持ちよさ寄りで考えていくとああなった、って感じですね。って言っても、もう離婚したんですけどね(笑)。

福尾:それがね、すごいですよね。えんまいさんのサイトでは離婚は作品の一部じゃないってただし書きがされてて。あ、そうか離婚は作品の一部じゃないのかと思って(笑)。難しいですよね。

遠藤:そのへんよく、ちょっとじぶんでもよくわかんないです(笑)。
だから、さっきの、芸術の自律性みたいな話あるじゃないですか。でもわたしの場合は、どこからが作品で、どこからが作品じゃないかってちょっとよくわかんなくて。
たとえば、作品をつくるときにアトリエを持つひともいるじゃないですか。じぶんの家とアトリエをパッキリ分けるとか。あれもあんまりよくわかんないというか。生活してるなかで急に作品をつくりたくなる瞬間とか、わざわざアトリエに行ってたらつくりたい瞬間が終ってしまうみたいなこととか考えると、そのふたつをはっきりわけてしまうみたいなことは、なかなかできなくて。とはいえ、結婚とかの話になってくると、そういう作品と生活がわけられないということもわたしひとりの話ではすまないので、ひとりでは決められないというか。そのへんがあり。離婚は作品じゃないって言ったのは、離婚を作品として包括してしまうと、今後、たとえば元夫に「あれも作品なの」みたいな話がいくのはあんまりよくないというか(笑)。

福尾:そうですね(笑)。だからこそ、そこで美術っていうパブリックな領域とじぶんのプライベートみたいなものの境界線でどういう力学が働いてるのかっていうのが見えてくる。どっからどこまでが作品たりうるのかっていうこと、やっぱり作品にならない部分がどうしても出てくるし、作品にするはずじゃなかったものが作品になっちゃうとか、そういうことがつねに起こってて、それはじぶんのふだんの生活とつねに地続きである場所で起こってる。

遠藤:やっぱりじぶんと切り離すって、フォーマルに作品やると安全ですよね。作者になにがあっても大丈夫っていうか。


——「批評」との距離

福尾:そうだな。こういうの、最初にこういう話しろよっていうことかもしれないんですけど。どうしても僕、『マルスピ』が掲げている「日本発のクィア系アートZINE」っていう言葉が、これはなんなんだろう?って思うんですよ。「日本発のクィア系アートZINE」。「日本発」で、ウィーンでも売っててバイリンガルで、「クィア」で、「アート」で、「ZINE」だっていう。でも、目次の組みかたとかコンテンツとかを見ると、とても「批評誌」っぽいつくりかただと思うんですよね。座談会があって、論考があって、インタビューがあって。
とはいえ、フォーマットとしては批評っぽいんだけど、批評っていう言葉を使ってないし、むしろ内容を読んでみると、批評に対する距離感すら感じるんです。とくに、vol.2の冒頭の「おしゃべり」のところでは、まず「座談会」ではなく「おしゃべり」っていうタイトルを使ってることも、そういうふうに感じた。実際「おしゃべり」のなかでも、百瀬文さんが批評言語みたいなものに対して距離を感じる、それとは別の語りかたみたいなものをじぶんはつくっていきたい、という発言をされてますね。たぶん百瀬さんだけじゃなくって、参加者のあいだでわりとそういう問題意識が共有されてるのかなって思うんですけど。それについてはどう思いますか。

遠藤:そうですね。美佳ちゃんが『マルスピ』をはじめたいって思ってたのも、百瀬さんが言ってるのと近くて。彼女は展覧会のキュレーションもするんだけど、周りのアーティストが、男性キュレーターの語り口に納得できないってもらすのをよく聞くって言ってて。かといって他に語る言葉がないことにフラストレーションを感じるって。美佳ちゃんは読み物がないんじゃないかって言ってて。彼女は研究者でもあるんだけど、でもそこで追いきれないことで直観的に興味をもったものを、じぶんの責任でやれる媒体がほしいって。あと、「おしゃべり」はその前に百瀬さんが地主麻衣子さんとOngoingで行ったトークイベント「くちびるから散弾銃(ニューヨーク・フェミニズム編)」の問題意識を引き継いだものだったんです。筋とか気にせず話したいことをとにかくぺちゃくちゃ話そうよ!っていう意識が共有されています。

福尾:いわゆる「批評言語」との距離の話で言うと、僕が批評を書いていて、じぶんなりに変えようと思ってることのひとつは、頭だけ使って書いてると見られなようにしようと思ってるんです。ひとことで言うと、批評を「メタ言説」じゃないものにするということです。批評言語、あるいは研究者が外に向けて書く言葉と言ってもいいと思うけど、そういう文体って、「考える」という行為を言葉でシミュレーションしたようなつくりかたなんですよね。「一方ではこうで、他方ではこうで」、「理論的にはこうで、具体的にはこうで」とか、どこでどう留保を置いてどこまで断言できるかとか。頭を使ってる感じで書くんですよ。一部の実作者や、純粋に作品を楽しみたいだけの「ファン」が批評そのものに嫌悪感を覚えるのはこれが一因ではないかと思います。
でも文章ってそれだけじゃなくて、日記とか、ツイッターとか、小説とか、川柳とか、詩とか、いろいろあるわけですよね。日記はべつに論理的思考のシミュレーションはしてないわけです。本当だったら言葉っていうのは、いろんな体験のモードをシミュレーションできるはずなのに、なぜか批評はじぶんの「考え」をシミュレーションする言葉しか発達させてこなかった。それは変えていきたいなと思ってることで、べつに平坦なエッセイとして書けばいいってわけじゃなくて、ちゃんと批評として機能させなきゃいけないんだけど、考えるだけじゃないしかたで書くことができる余地はいろんなところにある気はしますね。そういう意味でいうと、批評言語を変えるっていうのは、批評の内側からもできるし、美術の内側からもできることだなと思うんですよね。

遠藤: 次号の『マルスピ』のvol.3にむけて、京都市立芸術大学の@KCUAで開催された「House of Day, House of Night(昼の家、夜の家)」(2016)という展覧会について、取材を進めています。参加アーティストの丹羽良徳さんの活動がSNSで炎上して、「デリヘルアート事件」って名前がついて社会学者の方達が本までつくったことがあったじゃないですか。その特集をしようと思っていて。
それで、参加アーティストの方達や、京都市立芸術大学のところへ取材しに行って。当時の展覧会を企画した方々の話もお聞きしたんですけど、ギャラリーに苦情の問い合わせはいっさい来なかったし、大学にも、外部からの問い合わせがなかったそうで。SNSと現場が乖離していた、というお話もうかがって。メタ的な場所で判断してるみたいなひとが、たくさんいる構図になってるなっていうのを感じたんですよね。でもけっきょくそれが言説として、さもアート事件があったかのようになってるっていうのは、すごく不本意!

福尾:それはすごく楽しみです。読みたい。

遠藤:ぜひぜひ。

福尾:批評も、たとえば、今日はこうやってインタビューさせてもらってますけど、インタビューするならじぶんでなんか書けよっていうのが、批評家にふつう求められることです。僕も遠藤麻衣論を書くなり、『マルスピ』の書評書くなりすればいいじゃんって話なんですよ。でも、なんでか、それだけじゃ、もうあんまり意味がないんじゃないかなっていう気がしてて。このあいだくろそー(黒嵜想のこと)が、批評っていうのは、相手が受け取れる言語をこっちから投げて、相手の言葉とか、考えとかを変えることだって言ってたんです。だから、彼にとってはインタビューも批評でありうる。批評っていうのは、読者であれインタビューの相手であれ、対話可能な相手がいて、そのひとに対して新しい言葉を投げて、そのひとも新しい言葉をこっちに返して、お互いの使ってる言葉がどんどん変わっていく様子を見せることだと話していたんです。すごくいいなって思ったんですよ。だからこそインタビューでやる意味もあると思ったし。それはやっぱり、僕なりに言うとメタ言説としての批評っていうのを、ちょっといっかいやめてみるってことだと思うんですよね。だから、その点でも次号の話もおもしろいですね。

遠藤:そうですね。基本インタビューで構成して。そのために京都行って、会って、っていうふうにやってました。美佳ちゃんも、ポーランドまで行ったり。
日本の最初の批評と言われている、 滝沢馬琴が、手紙で批評をやりとりしてた、みたいなのもあるし。

福尾:そうなんですよね。本当は、批評だって哲学だって、いろいろやってたわけだから。あんなに、いわゆる学術論文みたいな、かしこまった書きかたばっかりなのも息苦しいですよ。そういう意味で言うと、男がじぶんで勝手に肩パッド入れてるっていうってのも、けっこうあるんですよ。そんなにしなくていいのに、っていうのはね、よく思います。男が楽になると思うんですよね、『マルスピ』を読むと。

遠藤:それは嬉しい言葉ですね。ぜひ読んでもらいたい。

福尾:もちろんじぶんのおこないをかえりみる部分もあるんですけど、基本的に、女性も楽にやりたいだけなんだなっていうのがね、わかればね。じゃあおたがい楽できるように頑張りましょうっていう話になるから。

遠藤:ぜんぜん、対立したいわけじゃないっていうか。

福尾:そのあたりが、とくに日本ではそうなのかもしれないけど、フェミニストって名乗ったとたんに、戦闘態勢のひとが来たって思われちゃうから。

遠藤:それはありますね。5月から、吉良智子さんのレクチャーに参加してるんですけど、ほとんど女性なんですよね、受講生が。「近現代日本美術史をジェンダーの視点からみる」っていう講座名だと、男性は参加しづらく感じるのかな、みたいな。

福尾:批評もどうやっていろんな読者の構えを解いていくか、変に偉そうで、知的なだけで、みたいな感じじゃないかたちで。だから、こっちが先に兜を脱がないといけないわけですよね。批評は批評で、読者に構えを解いてもらうような実践をしていかなきゃいけないし、フェミニストたちはフェミニストたちでそういう実践をしていかなきゃいけないような局面にあるような気がするんですよね。その両面から見て、『マルスピ』はおもしろい試みだと思います。

遠藤:ありがとうございます。そういう意味でも、たくみくんに、このインタビュー誘ってもらえて本当よかったです。読んでもらえてよかった。




2日目(6月1日)

——アイ・アム(・ノット)・フェミニスト!

福尾:じゃあなんとなく始めましょう。

遠藤:どうやって今日話しましょうか。

福尾:そうですね。今日は2日目で、そうだな、前回喋ってみてどうでした?

遠藤:そうですね。なんだろう。
けっこう印象的だったのが、批評についてのこれまでの文脈とか体系とか、わたしはそこに関してあんまり気にせずにやってきたのもあって。あ、そういうことで批評の枠組みみたいなものがあるのかとか。そういうことっていうのは、たくみくんが言ってた、批評っていうのは高次のところから対象を観察してそれを頭のなかの思考の組み立てによって言語化まで持っていくみたいな。で、それがいままでの批評でもあり、批評が批判される所以でもあるみたいな考え方は、そういうことか、と思いました。

福尾:うん、そうですね。
前回ちょっと反省したのは、すごくよかったんですけど、最終的な落とし所として、楽したいし楽できるのがいいですよねみたいな感じになって、それはそれですごい大事なことだと思うし、そこにウソはまったくないんですけど、とはいえなんというか、マジでフェミニストとしてやっていくのはしんどいから……っていうことだけになっちゃうとそれはもったいないかなって思って、それでもういちどお話をうかがいたいなと思ったんです。だから、その、なんというか、たんにしんどいからとか、肩肘張ってやるのがたいへんだからとかじゃなくって、やっぱり、そこになにかポジティブな意味みたいなものを見出そうとしたら、「変わる」ってことがひとつあるのかなと思います。
最初にそのことについて聞きながら始めたいんですけど、すごくわかりやすい点として、えんまいさんがかつていちど「アイ・アム・フェミニト!」っていう個展をやって、そのあとフェスティバル/トーキョー(以下「F/T」と省略)で《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》という作品をつくって、これはもうものすごく変わってるわけじゃないですか。変わってるというか、最初からアイロニーとして言ってたものをアイロニーとして受け取ってもらえなかったから「ノット」をわざとつけたということもあるのかもしれないですけど、その経緯から話してもらえますか?「変わる」ことについて。

遠藤:ちょっとそこからポジティブな意味が見いだせるかまったくいま想像つかないけど、でもそういうことをできるといいんだろうな。経緯……

福尾:うん、具体的な経緯でもいいし、真逆の名前がついたものをやってみて思ったことでもいいです。

遠藤:いろいろ話すんでいろいろ突っ込んでください。

福尾:うん。

遠藤:じゃあ最初から順を追いつつ話していくと、「アイ・アム・フェミニト!」のほうは、2015年にギャラリーバルコっていう亀有のギャラリーでやったものなんです。河口遥さんがわたしの個展をやらないかって誘ってくれて。彼女がかなりサポートしてくれてつくったものです。何をやるかっていうことも彼女によく相談に乗ってもらってたんだけど、わたしが「アイ・アム・フェミニスト!」ということでフェミニストをテーマに展示をしたいと決めて。
ちょうど、西尾佳織さんの「透明な隣人〜8-エイト-によせて〜」という演劇に出演してすぐのことだったんです。「8-エイト-」という、カリフォルニア州での、同性婚に関する裁判を描いた朗読劇から派生した作品で。当事者じゃないと語りにくいって感じてしまうのは、なんでだろうと思って。
あと、友達と話してると、わたしがフェミニストから嫌われそうだよねみたいなことをたまに言われることがあって、それはなんなんだろうって。

福尾:それは、どうして?男に媚びてるように見えるとかそういうことですか?

遠藤:媚びてるとかそういうあからさまな言い方じゃないけど、男のひととうまくやっていけそうなキャラクターだよねっていう意味だったんだと思う。

福尾:なるほど。

(《アイ・アム・フェミニスト!》2015, Gallery Barco)

遠藤:展覧会は、二部にわかれていて。表のギャラリーと、裏の楽屋的な事務所を使って、フェミニストとしての個展をやりながら、裏ではわたしと河口さんが待機して、そこではフェミニストとまったく真逆の人物像のセルフドキュメンタリーの映像も流していました。河口さんにも出演してもらって、いわゆる恋バナをする女子トークの映像なんです。そういう展示をすると、お客さんから「感想が言いづらい展示だね」って言われるんです。「感想言おうとすれば言おうとするほどある種のステレオタイプに陥りそうな展示だね」って、なかなか言いづらそうな、そういう感想もらったり。
でも、とうぜんだけどそれを見に来てないひともけっこういて、展覧会としては、「アイ・アム・フェミニスト!」をやりますってことが、いろんな情報のサイトに出てるから。それだけ見ると、わたしはフェミニストですって言ってるひとの展示だな、ってことが広く伝わるみたいなことがあって。で、そうなると、どっちが多数かっていうと、見てないひとのほうが多数だから、遠藤さんフェミニストなのね、みたいなことをぜんぜん知らないひとから言われたりするという状況がしばらく続いたりしたんです。

福尾:それって時期的には、パリでシャルリー・エブドっていう新聞社が銃撃にあって、「私はシャルリーだJe suis Charlie」っていう、プラカードを持ったデモがすごい流行ったじゃないですか。そのくらいの時期ですか。

遠藤:それは展示のあとだったと思います。わかんないけど、記憶のなかではそのことを見た覚えはないから。

福尾:なるほど。この話を出したのは、印象として僕はJe suis Charlieがあったから#MeTooが出てきたのかなって思ってるんです、なんとなく。一足とびになにか同一化してしまうような、それと「私」って言葉がいちばん先に出てくるっていうのは、つながるような気がしているんです。

遠藤:Je suis Charlieもいろんなひとが「私は」って言って掲げたんですもんね。わたしは、記憶ではどちらかというと、マララさんが平和賞を受賞したこととかのほうが、強い記憶として残ってるかな。(*実際はシャルリー・エブド襲撃事件は2015年1月7日で「アイ・アム・フェミニスト!」は同年3月22日〜3月31日に開催された)

福尾:それが2015年で、2017年のF/Tで《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》をやった。

遠藤:うん、まあ、じぶんのタイムライン的にはそのあいだに「キセイノセイキ」(2016年に東京都現代美術館でおこなわれた表現規制に焦点を当てた展覧会)が挟まるんですけど。「アイ・アム・フェミニスト!」やって、「キセイノセイキ」やって、でその次にF/Tがあるっていう感じで。「キセイノセイキ」は「猥褻」をテーマにした作品を作ろうっていうのはあらかじめ決まってて、そこに増本泰斗さんに誘われて一緒につくったんです。
で、2017年にF/Tやろうってなったときに、「アイ・アム・フェミニスト!」のときの経験をけっこう引きずってて、タイトルだけで印象が決まってしまったことと、実際はそういう一元的な見方から逃げる方法として展示してたんだけど、それがタイトルのせいで逆効果になっちゃったので。それならタイトルを逆にしてしまおう!っていう動機がありました。あと、2017年になると、もう #MeToo のムーブメントも来てて、ちょうどその年は、ディオールが “WE SOULD ALL BE FEMINISTS” っていうメッセージTシャツを出したり、あとH&MとかGUとかがそれに対するアンサーTシャツを出したり、ファッションやカルチャーのムーブメントのなかでもフェミニズムがある意味「流行ってる」みたいな、そういうタイミングだったから。けっきょくそのTシャツも同化主義に近いというか、みんながTシャツ着てるから着ようよみたいな感じで、WE SOULD ALL BEとか言ってんじゃねえよ!みたいな気持ちになり、そこで、だから、ノットっていう逆の主張を出すことも考えてやったんですよね。で、あとは、その結婚してその時点で2年くらい経ってて、別居婚だったので結婚式も挙げてなくて、夫が帰ってくるタイミングも、ちょうどいいっていうか、いろんなタイミングが合ったから、ここで結婚式をしておこうということも重なってやりました。


——どこまでが作品なのか自分でもわからない

福尾:うん。前回は楽するとかゆるくみたいな話もしたけど、ふつうに考えるとけっこうなんていうか、怖いところに足突っ込みながらやられてるじゃないですか。

遠藤:そうですねえ。

福尾:だって、ね。「アイ・アム・フェミニスト!」っていう展示をやってるんだったら、フェミニストとしてちゃんとやれば誰も文句は言わないわけじゃないですか(笑)。でもなんか、裏の楽屋のところで変なことやっちゃうから「なんか言いづらい」とか。「キセイノセイキ」もね、規制を扱う展覧会でプラン通りにいかなくなるという皮肉なことになったし、《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》ももちろんそうだし。実際個別の批判や衝突はあったと思うんですよね。
だから、べつになんかこう、ゆるふわで適当にふわふわやってるっていうだけじゃなくて。もちろん、とうぜんのことだけど。なんていうかそこにも、あるていどやっぱり、なんていうのかな、強く言えばちゃんと闘っているわけで……

遠藤:

福尾:あえてじぶんの活動を、闘いとして見た場合にどんなことを感じますか。いままで出てきた批判だとか、あるいは何が変えたくってやってるのかとか。

遠藤:うーん、そうですね。だから、わたし、うーん、どうなんだろうな。なんか、でもそんなに、わりと、無防備にやってるところがあると思うんですよ。だから、闘いと思ってなくてやってたら、すごい無理ゲーやってたみたいな。やってから気づくみたいなことが多いので。なんだろうなあ。うーん。

福尾:一貫してなんかちょっとこう、茶化してる感じはあるじゃないですか。

遠藤:(笑)そんなつもりはないんですけど……

福尾:あ、そんなつもりはないんですか。(……!!)

遠藤:はい。

福尾:あ、楽しくってやってるっていう感じなんですか? どういう……

(ドローイング《あなたに生身の人間として愛されたいの》2016)

遠藤:いやでも、そう、だから、たとえば、「キセイノセイキ」の《あなたに生身の人間として愛されたいの》とかも、すごいあの、直球で、美術館でヌードのパフォーマンスとかできたら、ほんとにハッピーじゃないかと思ってプランを立ててやろうとしたんです。しかもすごい、こう……まさかできなくなるとは、思ってなかった。

福尾:あー、じゃあ、できなくなると思ってなかったんですね。

遠藤:ぜんぜん思ってなかったですね。

福尾:へえーー。

遠藤:展覧会始まる2日前くらいまでは。
だからほんとは、闘いにいくつもりなら、できなくなったときのこととかも考えてなきゃいけなかったし、ちゃんともうすこしできるような手順を踏まなきゃいけないんだなっていうのは、終わったあとに痛感しました。

福尾:うん、すごい不思議ですね。だって、ヌードでやってもいいじゃないかっていうのは、ヌードでやれていない現状があると思ったからそう思ったというわけではないっていうことですか。

遠藤:ヌードでやれていない現状……ヌードでやれてない現状に対して、やったわけじゃなかった気がする……すごいバカみたいな感じですけど、あれ、だって、肌の上からペインティングしてるじゃないですか。ウォーホルのマリリン・モンローが現美に収蔵されてて、ああいう無数に複製可能なイメージとしてのモンローがあって、他方には一度きりの人生しか送れない生身のモンローがいて、どうやってわたしがそのすきまに入ってパフォーマンスできるかみたいなところから興味は来ていました。だから、裸であるってことも、猥褻がテーマであったけれども、美術館の猥褻に直接応答するっていうよりは、それをもうちょっとべつの興味にスライドしたかたちで、その、パフォーマンスとして動機をつくって実現するっていうことであれはやりたかった。生の裸で出るっていうよりも、ペイントを施して、一個メディウムが挟まれた状態になってるし、色がつくとほんとに身体の感覚ってすごい変化するから、それを考えるとまったく問題ないじゃんみたいな気持ちだったんですよね。

福尾:うんうんうんうん、なるほどー。そしたらやっぱ問題あって……

遠藤:そう、そしたらとはいえ裸だよねみたいなことになって、まあそりゃあそうだってなったんですけど。そう、でもあれは、うーん、わかんないですけどね、ちょっといまでも引っかかってどうすればよかったのかまだわからないというか。《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》もわたし、まさか、婚姻関係を解消するなんて夢にも思ってなくて、そう、なので、なんていうか、作品として発表した段階では一生その、添い遂げる気持ちでやってたんですけど、そう、でもまさか、離婚して、作品として話すことが難しくなるみたいなことはぜんぜん考えてなかったから、なんというか、闘うならもうちょっとちゃんと計画すればよかったって、思いますね。

福尾:そうですね…… だから、《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》も、こないだもちらっとそういう話が出ましたけど、のちのち離婚したことはやっぱり作品のなかには含めることが難しいわけですよね。で、それとか、作品として計画してたけどやっぱり無理で、裸で出るのは無理だってことになっちゃうってこととか。だからつねに、作品っていうパッケージをつくるっていうことと、じぶんの生活と、あるいは美術っていう制度が、かなり鋭くぶつかり合ってるところでやられていると思うんですよ。で、それによって逆に、作品っていうもののもろさが明らかになっていておもしろいなと思いますね。
それに、じぶんでも分かってないっていうのがすごいおもしろいですよね。作品って、凡庸な例だけどデュシャンが便器が作品だって言って、それを美術館に送り付けたら、それはもう作品になるみたいな、そういう、作家の名づけ行為に強く依存してるところって実際あると思うんです。でもむしろ、作家が想定していないところで作品の枠が勝手に決まってしまったりとかするっていうことが起こっている。

遠藤:そうですね。最初はじぶん、作家の思惑で枠をつけようと思っていたら、結果的に、それが全然できなくなってた、みたいなパターンですよね。《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》で、やりたかったこととしては、結婚式って、すごくプライベートなものだけど、同時にすごく開かれてるっていうか。あんまりよく知らないひとまで、披露宴とかになると集まる、開かれた感じがあって。そういう見届けてくれるひとたちの親密度のグラデーションの延長線上で、演劇の観客も捉えて、上演したいなと思ってやったんです。しかもじぶんたちでつくった契約にもとづいた結婚で、契約を見届けてもらうという、お客さんにとっても、ある種の責任とまではいかないけど、なにか重さを分けるようなことをやろうと思ってたんです。お客さんのなかでは、今回はじめて出会ったけど、今後、ちょっと近い付き合いができるかもという期待をもってやってたっていうのもあって。たんに上演で終わらせるんじゃなくて、上演に来てくれたひとのなかから、今後、希望するひとには、夫婦でつくった共有の作物を定期的におすそ分けしますということをやったんです。それを希望するひとは、F/Tに住所を教えていただいて、今後届けます、みたいなのも、契約書の、婚姻契約のなかに含めていたのは、作品の枠をもうちょっと引き伸ばそうとしてたというか。今後の生活のなかに。
でも、離婚したことで、それができなくなったっていうことを、お客さんに上演のあとに伝えなくちゃいけなくなって。そうすると、なんでできなくなったかっていうことを言わなきゃいけないけど、でも、それは作品として想定してなかった、すごくプライベートなことだから。それはお客さんに言うのは、ちょっとちがうかも、ともおもって。F/Tの制作さんにも相談をしたりして、わりと意見が分かれたんです。で、けっきょく、ちょっとプライベートな理由も書いて送ったんですけど。それも、今、やってよかったのかみたいなことで言うと、ぜんぜんわかんないんです。

福尾:うーん、それは本当にわからないですね。生活と美術、家とアトリエを初めから分けてフォーマルにできれば楽だとこのあいだおっしゃってましたけど、そこでまさにそのふたつが切り離せなくなっているというか。

(《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》2017, Goethe-Institut Tokyo)

——怒り、親密でいる技術

福尾:ともあれ、結婚という制度やそれを取り囲む空気に乗っかるのでも、初手から反発して怒りとして表明するのでもなく、民法の読解というとても具体的なレベルから始めて、自分たちなりの結婚のありかたをまた具体的な契約に置きなおしていくというのはおもしろいですね。

遠藤:基本的に、怒るのは不毛だと思うんですよね。怒りの表明って、不毛な結果にしか終わらないんじゃないかと思って。どっちかっていうと、怒ってるひととか見ると引いてしまうというか。だから、《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》では、どうやったら怒らずに結婚式できるかって、けっこうシビアに考えました。夫と、すでに結婚して2年たってたわけだから、振り返ってみれば、なんでわたし、夫の苗字にしたんだろう、みたいなことに、じぶん自身にも疑問が生じるというか。そういうこととかがあって。とか、日々の生活のなかで、振り返ってみると、男女の、男尊女卑じゃないけど、そういうのが生活にしれっと存在してた、みたいなことに関して、じぶん自身に向かってもそうだけど、夫に対して怒って、相手の非を非難して正そうってする方向でやると、絶対にうまくいかないだろうなっていうのがあったから、なるべく怒りで表現せずに、そして相手に対して怒りをぶつけないしかたで、じぶんの実現したいことを実現するにはどうしたらいいか、みたいな。それはけっこう大事にしてた。

福尾:けっこう、あとから気付きがちですよね。いろいろ。

遠藤:そう、あとから気付きがちなんです。基本的に(笑)

福尾:でも、すごい大事なことだと思いますよ。あとから気付いて。

遠藤:そう、それしかないっていうくらい。

福尾:そっから変えようって思えるっていうのは、すごい大事なことだと思いますよ。怒るとかって、「今」じぶんは傷つけられた、とか、「ずっと」傷つけられてきたというかたちで表明されるもので、そのときはそう思ってなかったけど、思い出したらちがう、っていう時間のありかたとはちがうと思うんですよね、ひとが怒りを表明するしかたって。実際の感情の変化やそこにある屈託を無視しないと「怒り」として表明できないから。そういう意味で言っても、あとから気付くとか、気付いたら変わってた、とか、そのことが作品をつくるモチベーションになってるっていうのは、おもしろいですね。

遠藤:怒るって2種類あるじゃないですか。頭に来る、みたいな怒りかたと、腹が立つ、みたいな。わたし、瞬間的に頭に来ることはもちろんあるんですよ。でも、頭に来るっていうやりかたで怒って、それをそのまますぐアウトプットしたら、頭から血が引いた後に見ると、けっこう恥ずかしくなっちゃうことがあって。だから、頭に来て怒ってるように見えることって、SNSでも目につくんですけど、そういうこととは距離を取りたい、みたいなのはありますね。でも、どっちかっていうと腹が立つこととかに関しては、ちゃんと消化したいって思うかも。

福尾:おもしろいですね。頭に来る、と、腹が立つ。
#MeTooとかも 、似たような構造があるような気がしますね。もちろん、#MeTooはいちばん最初に告発があって、みんなが乗っかるかたちだと思うんだけど。

遠藤:訴訟したり、法的な手段で問題をどう解決するかっていうの当事者間の解決策があるけど、#MeTooっていうのは、それではどうにもならないような事柄を、法以外のやりかたで訴えるっていう、順序としては2番目にとられるような選択。当事者どうしじゃなくて、社会全体的に、問題を可視化してシェアしていくっていうような理念があると思うんですけど。法を介するという最初の選択を飛ばして#MeTooを通じて、誰かを罰することが目的になっていたりすることには、賛成できない。

福尾:セクハラって、たとえば、職場っていう制度が、まず先にあって、そのなかで、そのなかのメンバーの関係性がある。でも、セクハラが起こるときは、二者関係的なものが先走っちゃって、でも相手はそうだと思ってなくて、べつに職場が一緒だからあなたと一緒にいるだけであってそれ以上のことではない!ってことになって司法なりその職場の部署なりに訴えるわけですよね。それは全面的に正しいと思うんですよ。でも、そうは言っても、職場とか学校とか、なんらかの制度のなかで、ひとが二者関係的なものを取り結ぶってことは、ぜんぜんありえると思うんですよね。それが恋愛関係でも友達関係でも、なんでもいいと思うけど。制度があるから一緒にいるっていうだけじゃない関係になる瞬間はあると思うし、そういう余地がどんどんなくなっていくことになると思うんですよ。告発みたいなもの、まず制度があって私たちがいるんだ、みたいな話になって、しかもそれを法でも当の制度でもないSNSにアウトソーシングしてしまうと。
そういうことを考えるうえでも、《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》がまず、民法を読みまくって、じぶんなりの結婚式、じぶんたちなりの、結婚のありかたをつくるっていうことをやってるのは、すごいおもしろいなと思いますね。だってそれは、単純に、駆け落ちみたいにふたりきりで、どっかに逃げ出してしまうわけでもなくて、あるいは制度にぜんぶ乗っかって、「普通の結婚」をするわけでもなくって。むしろ、じぶんたちの二者関係を好ましいかたちにつくり直すために、制度のまっただなかで、変えられるところを変えてみようっていうことでやられたわけですよね。

遠藤:民法って、解釈の余地がすごい残ってるように書かれてあるから、いい、って言うと変ですけど。でも、多くのひとはそれに、すごい限定的なイデオロギーを乗っけて解釈してる。
制度的には限定してなかったりして、いくらでも個々人で振る舞えるようにしてるから。前回話したときは、楽してたい、みたいな結末になったじゃないですか。でも、楽したいって具体的に言うと、ひとと繋がっていたい、親密な関係性という意味で繋がっていたいとかになる。でもそういう関係を維持するってたいへんじゃないですか。頑張らないとそうなれない、楽ではないな、と思いました。

福尾:けっこうたいへんなんですよね。仲良くいるのって。たとえば恋愛関係でもそうだけど、ものすごい微妙な表情の変化で、なんでそんな顔するのってバレるじゃないですか。めっちゃたいへんじゃないですかそれって。なんか図星だし、でもほんとにちょっと気になっただけでそんなこと言わなくてもいいから黙ってただけなのに、なにその顔って言われることがあるのはなんかしんどいなってなる。僕も思っちゃうし言っちゃうこともあるし。ほんとに親密な関係って、すごく微妙な表情や声色の変化が伝わってしまうことの怖さがある。それでもその関係をちゃんと維持していくというのは、たんに好きなひとと楽しくやっていくのとはちがうと思うんですよね。だからルールをつくったり、お互いいろんなものを演じたりしないとうまくいかなくなる。

遠藤:怒ってるとかって一言で終わらせると楽じゃないですか。矛盾してたりするとすごくつらいから、楽な方向を選びがちになるんだと思う。

福尾:厚みのある時間みたいなものが扱いづらくなっているんですよね。本当は感情って厚みのある時間のなかでのじぶんの具体的な変化を指すものだと思うんですよ、悲しくなったとか楽しくなったとか。なのに怒りとか、エモとかって、なんの時間もないじゃないですかそこには。

遠藤:スパーク・ジョイ!もそうですよね、コンマリの。ときめき、とか。一瞬の、時間軸がまったくない感情。

福尾:もののその来歴とか、そこに込められている屈託とかどうでもよくて、今ときめくかどうかで捨てちゃうって。

遠藤:後悔とかしないんですかね、なんで捨てちゃったんだろう~って。

福尾:あんまり後悔しないからよけい怖いんじゃないんですか?なに捨てても後悔、しないだろうな、たぶん。

遠藤:「ときめき」は捨てたことと一緒に消えていきそうですもんね。
『マルスピ』も、怒る!みたいな記事は、意識的に避けています。なんで避けるかっていうと、怒ると、内輪感が出ちゃうみたいなこともある気がするんです。怒ってる連帯が、その連帯以外を排除してしまうみたいな読み物にはしないように努めたいと。

福尾:うん、うん。『マルスピ』はなんていうか、美術の側からこういうのが出るっていうのが現象としてすごいおもしろいなって思いました。っていうのは、それこそ2年くらい前に『早稲田文学』の女性号で、川上未映子さんが編集をやって女性しか寄稿しないというのがあったりましたね。でもどうしてもやっぱこう、なんというか、「戦闘的」になるか個人的なストーリーに引きこもるかという感じがしてしまう。その後そこから運動やコミュニティが立ち上がった感じもない。もちろんそれにはそれなりの意義があると思うんだけど、そうじゃなくて、それとはべつに、女性が集まってやりたいことをやってるところを見せてほしいっていう気持ちがあるんです。でも、女性が集まったらけっきょく男性への文句しか出てこずに、ばーっと集まってばーっと解散するんだってなったら、もうなんていうか、場当たり的に反省したり共感したりすることしかできないんですよね。『マルスピ』は女性だけがかかわってるわけじゃないけど、ほんとだったら批評や美術のなかで女性中心のコレクティブみたいなものが出てきて、彼女たちは彼女たちで楽しくじぶんたちのやりたいことをやってるところを見せてくれたら、いいなって思うし一緒に仕事できたらいいなって思うと思うんですけど、せっかく集まったのに、それこそ怒りとか告発とかにまみれたものしか出てこないんだったら、コミュニケーションの可能性がないなって思っちゃうんですよ。そういう意味でも『マルスピ』はいいなと思いました。
最後にまとめ的なことを言うと、2日に渡ってお話を聞いて、当事者性というものに対する「演じること」あるいは「ヴェールをかぶること」による距離の取り方、美術という制度と私的な生活に挟まれたある種受動的なものとしての作家性と「作品」のもろさ、そして「怒り」として表明することを避けることで時間のなかでの主体の具体的な変容が肯定されていること、この三つの点がそれぞれえんまいさんの活動のなかで緊密に結びついていることがわかってきて、たいへんおもしろかったです。

遠藤:批評っていう強いテーマをもってインタビューしてくれてたから、わかってもらうのが難しい話とかもできて、よかったなって思います。相手に対して、わかりにくいまま話をするのっていいなって思いました。わかるわかる!っていうことで話を進めていくと、やっぱりわかってくれないひとっているよねっていう、共感しない他者への批判に陥ってしまいがちだから。
わかりにくい話をするのって、相手に負荷をかけることだから、遠慮の気持ちが働くこともあるんです。わかりにくいことを伝えるには、相手が考えてくれるって信頼してないとなかなかできない。批評っていう言葉って、そういう点で便利だなって思いました。相手が考えてくれたことも、私にとってすごくわかりにくいことばになったりするから、私にも負荷だし。でも、そういうふうに話ができるって楽しいですね。みんなが知ってる共通の話題でコミュニケーションが終わってしまうときとか、なんていうか、切ない気持ちになるから。(了)

(《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》2017, Goethe-Institut Tokyo)


プロフィール
遠藤麻衣(えんどう・まい) 1984年生まれ。俳優、美術家。演劇、映像、写真などのメディアを複合的に組み合わせる。《アイ・アム・ノット・フェミニスト!》(2017)では、婚姻契約という形式をとり、彼女自身の結婚式を演劇化。最近の発表に《コンテンポラリーへびんぽじゃじゃりの引退》(18)、「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」(16)。また、最近の出演に指輪ホテル「バタイユのバスローブ」(19)、岸井大輔「始末をかく」(13~18)など。2018年より丸山美佳とクィア系アートジン『Multiple Spirits(マルスピ)』を創刊。
http://maiendo.net
ツイッターIDは @iewopua

福尾匠(ふくお・たくみ) 1992年生まれ。現代フランス哲学、批評。著書に『眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社、2018年)がある。
ツイッターIDは @tweetingtakumi

協力:藤村南帆、林美月

*「ひるにおきるさる」は読者からの投げ銭を次の記事の制作費にあてています。くわしくはこちらをご覧ください。応援くださる方はぜひ投げ銭もよろしくお願いいたします。

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