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ピアノにまつわる思い出

久しぶりにピアノを弾いたら、そういえばこれまでの人生、いつもピアノがあったな、などと振り返ってしまった。ひまにまかせて書いてみようと思った。

五つ年上の姉がピアノを習っていたので、物心ついた頃には家にピアノがあった。住んでた公営団地の一室に、最初はオルガンみたいなものだったけど、どこかのタイミングで親がアップライトピアノを買った。ピアノ屋さんに家族で行った記憶がなんとなくある。

小学一年生のときに姉と同じピアノ教室に通い始めた。私の実家は裕福ではなかったけれど、そのピアノ教室は月謝が500円だったので通えた。月額500円である。ワンコイン月謝。当時にしたって破格である。

私が習い始めたとき、子どもの私から見て、先生はすでにおばあちゃんだった。いつも着物を着ていたような気がする。1980年代後半の話だ。

先生の家は、洋館という感じだった。門をくぐると庭に大きな木がいくつもあって、夏にはドアを開けるとキンキンに冷えた冷房の空気があった。私の家にはもちろん冷房なんてなかった。

庭に池もあった気がする。ドラマに出るような応接間にピアノがあって、子どもたちは着いたら番号札をひいて自分の番を待った。部屋が順番を待つ子どもでいっぱいになって、部屋の外の廊下や階段でも待っていた。
平日の放課後に何日かと、土曜の午後にレッスンがあった。当時まだ土曜は午前中に学校があった。その家の応接間を使っていたのに、先生以外の他の家族を見たことがなかった。

赤いバイエルからはじめて、黄色いバイエル、チェルニー、ブルグミュラー、みたいに進んでいく教室。
宿題が出て、家で練習して、先生の前で弾いて、うまく弾けたら丸、弾けなかったらもう一回、という感じで進んでいった。

先生は厳しかったし、私は例にもれず、ピアノ教室に行くのが嫌で嫌で、家でおさらいをするのも嫌で嫌で、姉にもっと練習しろとか言われながら通っていた。

その教室は毎年9月の祝日に市民会館を借りて発表会をやっていた。私も小学2年生の9月から人前でピアノを弾き始めた。

五年生のときにほかの町に引っ越してしまったので、その教室とはそれきり、かと思われたが、なぜか翌年も私はそのピアノ教室のピアノの発表会に出ていた。姉は辞めていた。
経緯はちょっとわからない。出たらいいじゃない、みたいな話があったのだろうか。

イヤイヤ習っていたわりには、引っ越しても近所のピアノ教室を見つけて通っていた。
当時、ピアノは女子の間でもっともメジャーな習い事だった。私は自分のピアノがうまいと思ったことはないが、音楽の授業で伴奏が必要なときなどは先生に言われて弾いていた。もっとうまい子は他にもいた。

中学校に上がると合唱コンクールというのがはじまり、クラスごとに課題曲と自由曲を歌う。そこでも伴奏を弾いていた。

そういう生活と並行して、夏になると一曲を選び、練習して暗譜して、電車に乗って以前住んでいた町のピアノの先生を訪ねて何度か曲を見てもらい、9月に発表会で弾く、というのは続いていた。

私はそれを26歳まで一度も欠かさず続けた。

中学で部活は吹奏楽部に入り、フルートを担当した。吹奏楽をやっている人にはおなじみだけど、こちらもコンクールというものがある。

私の中学はコンクールで金賞常連校だったけど、私が中一のときに顧問の先生が産休・育休にはいり、新卒の、指揮など降ったことない、みたいな先生が顧問になった。しかしそんなシロート先生でも指揮棒を振らねばならず、曲はひどいもんで、私のはじめての吹奏楽コンクールは銅賞に終わった。先輩たちが荒れに荒れた。先生も先輩たちもかわいそうだった。
部活とは顧問次第、恐ろしい話である。

先輩たちは先生のことを猿に似てるからとモンモンと呼んで、それはひどい扱いをしたが、夏が終わり3年生は引退した。

次の学年も部長を先頭に一部の先輩たちはがんばったが、前年度の感じから抜け出せない生徒も多く、銀賞にとどまった。

ひとつ上が引退し、ついに私たちの代になった。フルートには同じ学年が私を入れて3人いて、そのうちのひとりが音楽的にとても才能のある子だった。
絶対音感を持っていて、適当にじゃーんをピアノの鍵盤を複数おさえても、それを当てちゃうような子だった。音大とかに行くんだろうなというような難解なピアノ曲をひいていた。
彼女が部長になり、私が副部長になった。まず私たちがやったのは、先生をモンモンと呼ぶことを禁止することだった。

そう、元の先生は学校には戻ったが、産後だったし部活には戻ってこなかったので、私たちは引き続きこの旧モンモンとコンクールに出ないといけないわけである。

私と部長のAちゃんは、他校に見学に行ったり、外部から指揮のプロを呼んだりして、モンm…いや、先生を育てた。
そして金賞を取った。
元顧問もコンクールに来ていて、私とAちゃんに向かって「この金賞はあなたたち二人が取ったんだ」と言われ泣いた。この喜びは、私とAちゃんにしかわからないだろうな、と当時思った。

話がそれた。ピアノに戻る。

そのAちゃんが、あるとき、自分が通っているピアノ教室に私も通えばと言ってきたのである。
そして私はある日、母親と一緒にその教室に見学に行った。そこはどことも違っていた。近代的な家に入ると、部屋にどーんとグランドピアノがあった。

月謝は一万円を超えていただろうけど、私はそこに週に一度バスで通うことになった。

千葉の田舎で、田んぼに囲まれた場所で、その教室だけはなんか違って見えた。先生のパートナーは芸術家で、たまに庭でキュイーンと音を立てながら、芸術作品を作っていた。

その教室は、音大を目指すような子が行くところだったんだと思う。私の実力は、とてもそんなものではなかったけれど。
すべての指を強くするための練習がはじまり、私の左手の薬指と小指まで偉そうに独立して動き始めた。
辛かったのは月に一度の聴音の日。先生が鳴らした音を当てなきゃいけない。ぜんぜんわからない。その日はソルフェージュもやる。非常に苦手だった。

一年くらい通ったのだろうか、高校受験を理由にその教室をやめた。少しホッとした。ちなみに受験勉強はしていない。

あまり興味がなかったので「高校はいかなくてもいいかな」などと言っていたのでちょうどいいと思われたのか、隣の市の高校に新設された学科の推薦入試に、中学から偵察のために送られ1月に早々に受かってしまった(副部長だったからかもしれない)。

高校でも吹奏楽部に入ったけど、フルートがいっぱいで入れず、オーボエになり、右手の親指が左のそれより少し太くなった頃に辞めた。

バイトや学外活動で忙しかったのである。一言でいうと遊びたかったのである。ときは90年代、女子高生ブームとやらで、どこにいってもチヤホヤされ、勉強せずに遊んだ。とんでもない時代である。
しかししばらくすると、どういうわけかピアノを習いたくなり、学校帰りに駅前のヤマハでピアノのレッスンを受けるようになった。月謝はバイト代で払った。

あの、なんですか、白い、長い、ソックス、ルーズソックス?履いて生活してたけど、やはり私は夏になるとクラシックを一曲選び、練習して暗譜して、電車に乗ってピアノの先生を訪ねて何度か曲を見てもらい、9月に発表会で弾く、というのを続けていた。

ある年、ピアノの発表会が高校の文化祭とかぶったが、私は文化祭を早退し、発表会会場に行きピアノを弾いた。
普段の生活が不真面目だったので、変な冗談みたいだなと思っていた。

遊んでばかりいたので、高校卒業後、就職も進学もせずフラフラしていた。
音楽の専門学校に行く、というような選択肢もあがったけど、どう考えても私に音楽の才能がないことは、自分でよくわかっていた。ないものは、ない。

二十歳、運良く東京に就職した。アパートでの一人暮らしがはじまったので、ピアノがなくて、夏になると先生の家で練習させてもらった。そして9月に発表会に出ていた。

しばらくして私は10万円くらいの電子ピアノを買った。先生に、ピアノを買いました、家で練習できます、と報告の手紙を出した。

先生からハガキが返ってきた。そこにはこう書いてあった。

「これでいつでもお嫁にいけますね」

私はピアノと結婚がどうつながるのがさっぱりわからず、当時は何度か読み返して考えてみたりしたがわからず、しかしいま思い返すとおもしろい。先生にとってピアノは嫁入り道具なのだ。

23歳、私は妊娠した。結婚してなかったし、相手がかなり年上だったので、結婚しなくてもいいけど一緒に住もうよと言ったら、ちゃんと籍もいれなきゃダメだし、結婚式もしなきゃダメだと言われてそうした。

先生が「いつでもお嫁にいけますね」と言ったピアノと一緒に新居に引っ越した。

出産予定日は9月末だった。発表会と同じ頃。「ステージの上で産んじゃうかもなあ」などと冗談を言っていたら、その年に限って会場が取れなかったとかで9月上旬の発表会となり、私は臨月のお腹でまたピアノを弾いた。

何度か引っ越したけど、そのピアノはいつも連れて行った。降っても晴れても、熱が出てても、一度もかかさず9月の祝日に私はステージでピアノを弾いた。

ある年、姉と一緒に先生の家に遊びにいった。私の娘をみせる、という目的だったような気がする。
大人になるまで、先生とはピアノを通じてしかコミュニケーションを取ったことがなかったのが、はじめて普通に話をした。
先生はいろんな国を旅していて、いろんな国でアパートを借りて2、3ヶ月滞在する、みたいな話だった気がする。ぜんぜん違うかも。※子育て中なので記憶があいまい

先生の家に行ったのに、ピアノを弾かずに帰って、変な感じがした。

19回目になるんだろうか、26歳の発表会を終えて、しばらくして、先生の訃報を受け取った。
私が7歳のときすでにおばあちゃんで、年齢不詳で、もうなんか、妖怪みたいな感じで、死なないのかと思っていた。
しかしそうはいかなかった。その夜、私はお風呂でしくしくと泣いた。
後日、姉とお葬式に行った(気がする)。

先生が死んでも9月に発表会はやるんだろうな、などと呑気に考えていたけど、そんなことはなかった。

私はあまりピアノを弾かなくなった。

原発事故が起きて岡山に引っ越したときもそのピアノを持って行った。弾かないけど、もうその頃には、冷蔵庫とか洗濯機とか、そういった必要家電のひとつみたいなもので、ないと落ち着かないのである。

岡山の託児所でお手伝いをはじめた。託児所と言っても赤ちゃんから小6まで通う施設で、アップライトピアノがあった。

そこはとてもユニークなところで、子どもが「やりたい」と言ったことを全力でサポートするところだった。
あるとき「ピアノの発表会をやりたい」と言った子がいて開催することになり、誰でも出れるというので、じゃあ、とエントリーした。
私はまた練習して人前でピアノをひいた。久しぶりに。
それから音楽会は定着して年に2回くらいやっていた気がする。私も都合がつくときは参加した。

私はプロではないけども、せっかく施設にピアノもあるし、預かっている子たちが託児所にいる間にピアノを教えようか、という話になり『すーこのピアノ教室』がスタートした。

週に一度、ひとり15分。ピアノを習ったことがない幼稚園から小学校低学年の子たちがサインナップして、枠はすぐに埋まった。

バイエルこそがピアノ嫌いの元凶だと思っていたので、簡単な童謡やジブリの曲がたくさん載っている本を教材にして、いくつか弾いてみせて本人が「これを練習したい」と言った曲を練習していった。

以前の記事でも書いたけど、当時私は大学院に籍を置いていて、脳がどうだ、子どもの発達がどうだ、とかやっていたので、このピアノを教える過程は非常に興味深いものがあった。
視覚優位の子と聴覚優位の子にきれいにわかれて、それぞれのやりやすいやり方に合わせて教えた。

当日、時間だよ〜と声をかけたとき、ほかの遊びに夢中だったり、やりたくない、と言った子は無理にやらせず、じゃあ来週ね、とお休みにした。
ちょっとその子には難しめの曲でも本人がどうしてもやりたいと言った曲は取り組んだし、そういう子の成長はびっくりするほど早かった。
やっぱり子どもは、やりたいとか楽しい、好き、そういった気持ちが大事だなと思う。その気持ちを消さないように気をつけた。

私の場合、自分のピアノの日々を振り返って、好きだとか楽しいとか、そういう気持ちあっただろうかって思う。
ないとは言わないけど、そういう気持ちは早々になくなっていた気がする。ここまで長々と書いて、こんなこと言うのもなんだけど。

ピアノ教室はおもしろかったので続けたかったけれど、カナダに移住するにあたり、岡山を離れることになった。「いつでもお嫁にいけますね」と先生が言ったピアノは友達にゆずった。

地域にいくつかピアノ教室があったので、本格的に続けたい私の生徒たちは教室を移った。
一時帰国したときに、私のピアノ教室からピアノをはじめた子のお母さんから「新しい教室の先生が、すーこのピアノ教室から来た子たちは筋がいいと言ってた」と聞いた。
お世辞かもしれないけど、とても嬉しく思った。

さて、ピアノ教室をはじめるとき、働いていた施設長から「月謝はいくらにする?」と聞かれた。

月謝はもちろん500円でした。

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