できれば生きていたほうがいい、という話。
私は二十歳で実家を離れてしまったし、西日本に引っ越してしまったこともあって、昔の友達とはかなり疎遠になっていた。のだが、2022年に一時帰国したときに小・中・高の友達に会うことができた。
人によっては10年、いや20年ぶりに会えたんだと思う。
小学校の友達にいたっては、当時もちろんスマホもSNSもなかったから、連絡先がわからなかった。
しかたがないので実家に滞在していた私は、歩いて近所の友達の家に行った。みんな家を出ていたけど、友達の親はまだいたので、「えーっと、小学校のときの◯◯ちゃんの友達のすーこです」などと、友達の親の記憶の中の小学生がとつぜん40代のおばちゃんになって訪ねてくるイベント。タイムスリップか。いや不審者か。
ところがみなさんすぐに認識してくれまして、連絡先を教えてくれて、何人かと無事に会えたんですよ。
3週間くらいいたので、連絡と都合がついた友達とはみんな会ったんですよ。みんな一緒にではなく、それぞれ個別に。
その昔の友達に会った記憶たちが、カナダに戻ってからも、不思議と私に幸福感を与え続けてくれています。
その記憶を取り出しては、ふふっと楽しい温かい気持ちになるのです。
生きていればまた会えるな、って話です。
そうは言っても抗えない病気や事故はあるし、死んでしまうこともある。
5年前、友達が病気で死んでしまいました。そのとき私はカナダにいて、お葬式に行けず、共通の思い出を持つ友人たちはみんな日本で悲しみを共有できず、ひどく落ち込みました。
以下の記事はそのときに書いたものです。
毎年毎年アップしようと思ってはできずに5年たちましたが、ついに、供養します。
オリジナルタイトルは『ブルーハーツはまだ聴けない。』でした。ちなみに、今はもう悲しみの中にはいません。
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いったい、私たちは、あの時間は、何だったんだろう。
みたいに感じるような過去がありませんか。
自分にとっての「普通」はつねに変わっていて、過去のその時にいた私にとって「普通」だったはずなのに、振り返ってみると「あの奇妙な、名前のつけられない日々はなんだったんだろう」って。
そう思うのは、私がいまそのときとまったく別の日常を送っているからで、今の「普通」だって数年後には奇妙に思いながら振り返るのかもしれないけど。
その時間を振り返って言葉にしてみたい、と思ったので、思いのままに書いてみます。
2011年3月に東日本大震災が起きて、さらに原発事故が起きて、私の住んでいた町はガイガーカウンターと呼ばれる放射線量を測る機械のアラートが止まらなくなった。
当時の日本の一般市民で、そんな突然の原発事故に対し、誰が放射能の危険性を知っていただろう。
でも当時7歳の子を持つ親にとって、もともと子どもの口に入る食べ物の農薬や、水や空気のきれいさなんかを普段から気にした親にとって、そんな目に見えないいかにも”身体に悪そうな存在”がとても怖かった。
2011年5月、私は娘と”よりまし”であろう、西日本に移住した。(ちなみに今はカナダである。)
娘が産まれ3人家族になって7年目の私たちが、はじめて家族が離れて住むことになった。
結婚して、子どもが生まれて、家族は一緒に住むと疑わずにきた7年。旅行だってなんだって、いつでも3人一緒だった。
テレビも偉い人も「影響はありません」を繰り返す。(ただし、その前に”ただちに”がつく)
まあしかし、行かねばなるまい。
そしてダーツが刺さったのは、岡山だった。
まだまだスマホよりガラケーの時代だったけど、SNSはある程度浸透していた時代。そのSNSも大いに活用され、2011年から2012年にかけて、徐々に、同じように原発事故の影響を気にして西日本に移住する母子が増えてきた。
なぜか特に、福岡と岡山がその行き先に多いと言われていた。一時、岡山の移住者支援の会には1000人近く登録されていたとも聞いた。
私には縁もゆかりもなかった岡山!
いまは毎日岡山県民でも知らないような某町のゆるきゃらグッズをつけてカナダで生活しているくらいには岡山推しである。
そうなるまで5年。2016年まで住んだ。そしてそのままカナダに来た。
その5年の間、私たちは「避難者」とか「移住者」とか呼ばれだし、そのワードの前に「母子」がついたりもした。
もともとシングルだったり、移住を機に離婚したり、夫は関東に残ったり、2013年くらいまでは、むしろそういうケースのほうが家族そろって移住より多かったと思う。
私も岡山時代は母子であった。
もちろん、みんな違った。子どもの数、子どもの年齢、母親の年齢、そして性格。妊婦さんだっていた。新しい土地で突然の母子生活。
これめちゃ大変そうじゃないですか。
大変じゃないわけないですよ。
子どもが3人とか、ふたごとか、夫が仕送りしてこないとか、義/親にめちゃくちゃ文句を言われて連れ戻されそうとか、子どもが宇宙人とか。
家にほかの大人がいないから、怒りもエスカレート、止める人もいない、田舎だから大声出したって隣まで聞こえない(世の中にはそういう田舎が存在します)。
大変じゃないわけないですよ。(2回目)
でもそれを選択せずにはいられなかった。
たくさんの人がサポートしてくれました。その土地に住み続けるうちに、地元の人もたくさん助けてくれました。その感謝は言い尽くせません。
でも心の支えとして、一番助けになったのは、当事者同士のネットワークでした。
いくつかオフィシャルなサポートネットワークがある一方で、私が住んでいたエリアで、避難者限定のネットワークがありました。
サラダボウルっていうんですけどね。
私の記憶が正しければ、ある人が「個性的な人がいすぎるから、”人種のるつぼサラダボウル”って名前はどう? 学校でアメリカのことそう習わなかった?」みたいなことを言ってた気がします。
いろんなおかしなキョーレツな人がいました。
私たちはたくさんイベントをたてて遊びました。
週末に、公園で、焚き火して、ピザ焼いて、川行って、海行って、古民家に集まって、カラオケ行って、おやつ会して、ご飯会して、キャンプして、集まって何かしてたくさん遊びました。
ほとんど関東からの移住者で、岡山的近所付き合い文化も知らない中、その土地になじむまでの期間、とくにたくさん遊びました。
イベントのない日はツイッターでしゃべってました。
みんなそれぞれの不安や辛さがある生活の中で、どれだけその日々が救われたか。
そのキョーレツな個性が、ときにうっとおしく、ときにありがたく、でもただその存在に、くじけそうな気持ちを持ち直し、子を守るためだけの移住生活を続けていました。
しかしそんな日々は、家族を呼んだり、やっぱり地元に戻ったり、海外移住したり、自分の家を持って岡山県民として暮らしだしたり、仕事を始めたり、連絡先が変わって連絡がつかなくなったり、ひとり減り、またひとり減り、そんな日々は少しずつ姿を変えていきました。
それはいいことです。
自分の落ち着き先を見つけていったってことです。
たとえて言うなら、一時的なテント暮らしからちゃんとお湯の出る家に変わって感じですよ。いやみんな普通の家に住んでたけど。まあそうじゃない人もいたけど。
いいことです。
でも、なんかその助け合ってたテント生活が懐かしくなるというか、
思い出すといつも同じ顔があって、私たちはいつも毒づいてふざけてて、その辺で子どもがけがして泣いてて。
子どもが川で流されたり、無意味に大きな石を運んで落として足の骨折ったり、焚き火に吸い込まれていったり。
笑っちゃいけないけど、今となれば笑っちゃうことばかりで。思い出すとなんか夕方みたいな気持ちになるんですよ。
こんなに安心できる場所があるんだからもう夫なんかいらないんじゃないか、なんてね。
そういう日々は、たぶんあのメンバーではもう戻らない。
震災から8年。子どもも大きくなって生活スケジュールがまったく変わってしまった。私なんて太平洋の反対側にきてしまった。
でもあの記憶はいまも私を支えるうちのひとつだ。
みんなそれぞれの場所で、それぞれ進んでいくんだと思った。
ツイッターにログインしなくても、疎遠になっても、なんとなくみんなそれぞれ同じ思い出を持ちながら、ときどき取り出して眺めてにやっとして、それで新しい日々を積み重ねていくって。
それなのに。
そのうちの一人が死んでしまった。病気で。
最近みかけないな、とはみんな思っていただろう。
まあでも何とかやってるって思うじゃん。日々に追われながら、彼女も追われてるんだろう、って。
死ぬような病気だなんて、誰が想像するだろうか。
病気だと知っていた人もいた。でも誰が死んでしまうなんて思うだろう。まだ30代で。子どもを残して。そんなわけないって。
彼女を思い出させる何を見ても悲しい。
私を支えてきた思い出が、いまは悲しみをもたらす。
もしかしたら、私なんかすぐ会えるところにいるわけじゃないし、いつ帰国するのかも未定だし、みんなと会えるのもそもそも10年後だったかもしれないし、二度と会わない可能性だってある。
でも生きていればね、会おうと思えば会えるじゃないですか。
死んじゃうっていうのは、その機会が永遠に訪れないということ。
さっき、”あの日々はもう戻らない”なんてセンチメンタルに書きましたけど、子どもたちが巣立って、パートナーも先立って、自由になったころに集まって、好きなお酒呑みながら大騒ぎすることもできた、はず、なんだけど。
それはもう叶わないんだナ。
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