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新約聖剣伝説が後のシリーズに与えた大きな影響を読み解く記事


🌳はじめに

この記事は、スクウェア・エニックスより発売されている「聖剣伝説」シリーズのうち「ビミョー」「がっかリメイク」として語り継がれている『新約 聖剣伝説』(Sword of Mana)について、ゲームデザイナー、ゲームプランナーとして働く身から「どうして聖剣伝説はこうなってしまったのか」とその裏側を考える記事です。

前回、「聖剣伝説4はなぜ残念な結果になったのか」という旨の記事をかかせてもらった後、そのルーツが新約聖剣伝説にあることがわかり、気になって最後までプレイすることにした次第。今回はシリーズファンの抱えるモヤっとした感情や、スクウェアが好きだった人々のわだかまりを解きほぐすつもりでここに筆を執ります。
以前にはスクウェアについて語るつもりはないとの意思を示していましたが、聖剣伝説かルドラの秘宝が関わる場合は私は言霊師団のひとりとして物語を語らなくてはならない。

昨今のスクウェア・エニックスは嘆かわしくもかなりデリケートな存在となっており消費者としても業界人としても下手なことが言えないのが大変むず痒いわけですが、とりあえず私の青春を彩ってくれた作品群に対する恩返しというか、お世話になった人々へのお別れの言葉というか。
『聖剣伝説Legend of Mana』を人生のバイブルとしている私にここはひとつ語らせてやってください。

今回もクリア後前提で物語の核心に触れつつお話しするため、ネタバレが気になる方はプレイ後に読むことをお勧めします。

なお、聖剣伝説4のレビュー記事についてはこちらをご覧ください。

🌱新たな芽吹き

2023年12月8日、スクウェア・エニックスより完全新作『聖剣伝説 VISIONS of MANA』の発表がありました。期待と疑念がない交ぜになった往年のファン達の心が今度こそ満たされることを、ここに祈りましょう。

(とりあえず原神を遊びたいわけではない事は解っといてほしいなあ…)

🌳新約はどういった位置づけの作品だったか

新約聖剣伝説は、世間の評価としては「イマイチ」で終わらされており、そこまで炎上もしていない作品である。だが、経緯を辿ると聖剣伝説シリーズを生み出してきたチームの脱退や再構成といったセンシティブな話題がつきまとう一作で、実を言うとその後の聖剣伝説の行く末を左右した作品であることがわかった。

世間の評判を聞いてプレイを後回しにしていた新約であるが、シリーズファンであるからこそこれはもっと早くに遊ぶべきだったなと。ここには人の気持ちが残されていると。遅ればせながら離愁の念を語ろうと思う。

新約聖剣伝説、私達とマナの樹との別れはここから始まった。

🌳元・聖剣伝説制作チームの『ブラウニーブラウン』の影響

🌱「存在の愛」を具現化できる奇跡のアーティスト、亀岡慎一氏

新約聖剣伝説の制作に関わったブラウニーブラウンという会社は、当時のスクウェアから離脱したメンバーが任天堂の出資を受けて設立した(有り体に言えばアルファドリームと共に救助してもらった)会社である。
聖剣伝説2やレジェンドオブマナのデザインを手掛けた亀岡慎一氏が中心になって活動していたチームであり、当時の情報や設定資料集を読む限り、聖剣伝説3以降のメンバーが多く含まれていたようだ。2024年現在ではブラウニーブラウンは「1-UPスタジオ株式会社」となって任天堂のパートナーとして活動中、亀岡氏は「ブラウニーズ」という別の会社を立ち上げて活動しており、現在でもその独特な暖かみのあるグラフィックで異彩を放っている。

レジェマナで亀岡氏のデザイン、世界観に惚れた人は『マジカルバケーション』シリーズや『エグリア』にも注目してほしい。「なるほど聖剣伝説じゃないけど聖剣伝説だ」と思うはずである。

当時のブラウニーブラウンはその生まれの経緯ゆえ、聖剣伝説の制作を引き受ける権利を持つと言えどスクウェアのメンバーと連携を行うことが難しかったようで、世界観としては魅力的なものの、ゲームシステムとしては「イケてるようで惜しい」というものが多かった。
また、亀岡氏の画風を引き継ぎつつも可憐な人物を描く才能があった池田奈緒さんとはスクウェア残留組とブラウニー組とで分かれてしまい、貴重なパートナーシップを失っていたように感じられる。

🌱「行動の愛」を示す情熱のヒーロー、石井浩一氏との表現のズレ

ブラウニーブラウンやブラウニーズは今でこそ「聖剣伝説シリーズの会社だ」という認識のファンが多いが、初代の『Final Fantasy Adventure』こと、旧約聖剣伝説を担当したのは彼らではない。旧約の味のあるキャラクターデザインとチョコボやモーグリを含むモンスターデザインはシリーズの父である石井浩一氏、ベタだが感情移入がしやすい完成形のシナリオは「スター・ウォーズ」のファンである北瀬佳範氏により書かれたものだ。聖剣伝説は別に独特な世界観で売れたわけでも奇をてらったシステムで売れたわけでもなく「大手が王道を壮大に贅沢に描く」ことでヒットしている。
聖剣伝説とはロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)やハリー・ポッターのような「みんなが見たかったハイ・ファンタジーのアレ」なのである。それがファイナルファンタジー・アドベンチャーの名が示すところだ。

石井氏のデザインした『聖剣伝説 ~ ファイナルファンタジー外伝』
聖剣伝説 25th Anniversary ART of MANA のサンプルより

この石井氏によって形作られた王道ファンタジーシリーズは北瀬氏のシナリオ、植松氏のサウンドを土台として育ち、亀岡氏だけでなくイトケン氏や菊田裕樹氏といった当時を代表する天才達によってより壮大に盛り上げられていった。(なお、聖剣伝説2のタイトルにはスクウェアの怪物ことナーシャ・ジベリのクレジットがある)

その点で言うとブラウニーブラウンはデザインやメッセージ性は強かったが開発力としては乏しく、周囲の助けがなければハイ・ファンタジーの王道としてのアクションRPGの完成度を高めることは難しかった。悪い物言いをすれば、企画や仕様の詰めの甘さをアート性でゴリ押ししていたと言える。石井氏の描くヒロイックな感性と亀岡氏のメルヘンチックな感性には大きなズレがあった。
そんなブラウニーズが今や「聖剣伝説はこの人たちがいないと!」というブランドイメージに繋がっているのは、ひとえに石井浩一氏の情熱がめぐり合わせた奇跡、仕合わせに他ならないだろう。

今、その糸が交差しない環境にあることは日本のゲーム業界において大きな損失だと私は思う。

🌳当時のスクウェアに期待されていたことと、当時のブラウニーブラウンが描けなかったこと

新約聖剣伝説においては、評価が高かった聖剣3やLoMのゲームシステムを踏襲しながらも、リメイク元となったゲームボーイ版(旧約)の聖剣伝説の評価点をほとんど考慮せず、古参ファンから不評を買う作品となってしまった。あまりに詳細に話すと反感を持たれても困るため、残念だったシステム、仕様を箇条書きで並べて雰囲気を察してもらうとすればこうである。

  • 2〜3で好評だったリングコマンドの何が快適とされたかを十分に理解できずに逆に煩雑なメニュー画面(買う/売る2項目だけのリングコマンド等)を作ってしまう

  • およそ10種類近い武器を採用し、様々なモーションで旧約や2の雰囲気を演出するも、武器の攻撃属性およびバトルの攻略要素を「斬、突、叩」の3種類に落とし込んでしまったため、それぞれのユニーク性が失われる

  • 旧約にはなかった8精霊の要素を追加してプレイヤー側に多彩なプレイスタイルや謎解き要素を期待させるも、逆に旧約よりマップギミックが単調でほとんどの精霊が不要になる。特にブリザドで敵を雪だるまにしてクリアするスイッチがなくなった影響はでかい

  • 装備中の武器種に応じて魔法の軌道が変化する仕様のため、武器の欠点を魔法で補う、属性ごとの優劣を覚えて戦局に応じて使い分けるといった戦略に繋がらない。例えば前方1キャラ分ぐらいが攻撃範囲の剣で炎の魔法を放つと目の前に火柱が1本上がるのみで遠くに飛ばない

  • フィールドで頻繁にアイテムが獲得できるにもかかわらず獲得のたびに1〜2秒の操作不能演出が入る。草むらを刈ると消耗品が手に入るがそのたびにゲームが一時停止するためストレスが大きい

  • マップ移動で地名が出るたびに1〜2秒の操作不能演出が入る。基本的に街から街へは走って移動しなくてはならないため上記と合わせてストレスが大きい

  • ジャンプ要素が追加されたがバトルには何も影響がなく、「通れないと思っていた場所が実はジャンプで抜けられる」といった分かりにくさのみが悪目立ちする。また登場人物の設定にも悪影響がありストーリーの改変を余儀なくされている

  • 最終ダンジョンの難易度を出すために「最大HPの50%のダメージを受ける石化攻撃」の敵キャラを多数配置する。レベル99でも即死する

  • 最終ダンジョンの難易度を出すために唐突なループダンジョン(迷いの森)をけしかける。難しいというより嫌がらせになっている

現在の亀岡氏が率いる開発チームの実力の高さは「エグリア」の完成度を見てもらえればたちどころに把握できるが、それでも「素敵なキャラクターをコントローラーで操作する心地よさ」については理解が難しいらしく、彼らにとって弱いところだ。つまりアクションゲームを作るにあたってスクウェア在籍時は当時の他メンバーに相当支えられていたと思われる。

しかし人材流出や離反も多くみられたらしい合併前後のスクエニは新しく立ち上げるブランドごとにゲームシステムを構築するスタミナを持てるはずもなく、「ベースになる何か」(今風に言うとゲームエンジン)を1つ作って毛色の違う別作品を大量生産する仕組みに溺れており(※)、ブラウニーブラウンと協力して作った「イマイチな聖剣伝説」はイマイチなまま、派生作品のベースとしてスクエニの資産となってしまった。

(※ベースシステムの流用に関しては筆者が見る限りでも、「光の四戦士」→「ブレイブリーデフォルト」→DS版「FF3」の系譜や「SaGa2GOD」→「ミンサガ」の系譜などから読み取れる。ゲームボーイやファミコンの頃であれば同シリーズでシステムが流用されていることはむしろ好ましかったが、違うブランドとして売り出すつもりのタイトルにシステムが流用されていると影響が露骨すぎてプレイするのが辛い。)

後に『Adventures of Mana』として初代が再リメイク(リリメイク?)される運びとなってはいるものの、スクエニが屋台骨を建て直そうと奔走していた2000年~2010年当時は「わかってても今更作り直せない」とそのまま突き通した事情があったことだろう。

ちなみに上記の再リメイクも、HACCAN氏のイラストをフル3Dで再現し原作のシナリオを再解釈してくれているとはいえゲームとしての操作性やテンポは悪くUI/UXの品質は低め。学生がUnityで作ったファンメイドみたいな出来がプレイしていて辛い。個人的にはカラーでリメイクされたフィーチャーフォン版聖剣伝説1の復刻を願うばかり。

世間では「立て続けに失敗作を出して4でトドメをさされた」と揶揄されている聖剣伝説シリーズであるが、スクウェアの崩壊に伴って軸となるメンバーや結束力が失われた事が原因で『新約 聖剣伝説』の時点ではもう、かつてのクオリティを維持できなかったという事情が本作からは読み取れる。
スクウェアとしてはブランドを再構築をして立て直すはずがチームビルディングの点で失敗してしまい、情熱が引き継がれないまま両翼を失って「聖剣伝説とはそういうもの」で風化させてしまった。

『新約』とそれ以降の作品によって楔のように打ち付けられてしまった影響はシナリオ、サウンド、ゲームシステムそれぞれに今も色濃く残る。その遺されたものは忌み子のように見えるが、いつまでも大切に抱きしめておこうとする聖剣シリーズの系譜を眺めていると「芽吹いたものを守る意志」を体現してきたジェマの騎士、石井浩一氏の人柄がよくわかる。それがマナの女神の思し召しであると語り部がさえずるのであれば、それはきっと愛と哀の真言となろう。私たちは自らの決断で時を動かして、自由になる必要があるのかもしれない。

🌳伊藤賢治さんではないと思われる謎の編曲者がシリーズの楽曲に与えた影響

これだけはどうしても裏が取れずに歯がゆい思いをしているのだが、2000年代~2010年代のスクエニ作品における「原曲を改悪する編曲者」の存在が新約からも感じ取れている。
新約のスタッフロールでは伊藤賢治さんの名前しか出てきていないが、収録されているBGMの大半は原曲との音階のズレが見受けられる上、イトケン氏の曲で見られる特徴が壊されており本人の編曲ではないと思われる。本人だとするなら高熱でもあったんじゃないかってぐらい曲の品質がおかしい。

例えばDSの『サガ2秘宝伝説GOD』においては、「もえるちしお」というクライマックスシーンの悲愴感と使命感が表現された名曲がクラブハウスの軽いダンスミュージックのようにアレンジされ、「萎える血潮」などと評判になった。聖剣伝説においてはこの新約と聖剣伝説2のリメイク版「Secret of Mana」で恐らく同じ編曲者が私たちの耳と脳を破壊しにいらっしゃっている。このシンセサイザーを持った悪魔は一体誰なんだ。

その、存在をひた隠しにされている謎の編曲者の特徴としては次のようなものが挙げられる。これらは聖剣伝説2リメイク、サガ2秘宝伝説GOD、サガ3時空の覇者SoLにおいても共通の傾向である。

  • イトケン節の特徴の1つである「イントロからクライマックス」に否定的で、原曲のフレーズを切り出したパートを何度も繰り返す単調なイントロを多用するばかりか収拾がつかなくなり適当な終わらせ方でAメロに入る(果てしなき戦場、戦闘2など)

  • Aメロのメイン旋律を伴奏に作り替えて曲の展開を破壊してしまう(聖剣を求めて、戦闘1など)

  • イトケン節の特徴の1つである「管弦楽による伴奏でのハーモニーの深み」を聞き取れずに無くしてしまうか一部だけ踏襲する(ほぼ全曲)

  • イトケン節の特徴の1つである「小刻みな階段状のメロディ」に否定的でそれを無視するか改変して曲調を変えてしまう、または音が歯抜けした状態で踏襲する(戦闘2、最後の決戦など)

  • 単に音階が違う、前の音との差=音程を気にしない、和音に対する理解がなく不協和音を度々入れてくる(マナの神殿など)

  • 原曲と異なるどころか、書き下ろしの呪いのBGM(宿屋宿泊時、サボテンハウス)

  • 曲の使いどころが違う、プレイヤーの心の動きにシンクロできない(想いは調べに乗せて、マナの使命、聖剣を求めてなど)

  • OPテーマ、EDテーマにあたる大事な部分には手をつけさせてもらえないため改悪の影響が1つもない(Rising Sun、伝説よ永遠に)

一言で説明すると「楽譜通りに演奏できない上に音痴」である。なんでこんな人がスクウェアのリメイク作品に多数かかわっているのか本当に理解に苦しむのだが、音楽ゆえに「別にいいんじゃないの、感性は人それぞれ、人生いろいろ」と取り合わない人が多く、音楽の品質によるゲーム体験への悪影響は理解されていない。あのね、心臓の鼓動っていうのは音楽だから。人のバイオリズムに合わない波形は心身にストレスを与える凶器なのよ。人が一番怖がるのは映像でも文字でもなく音だから。頼むから無知でも理解して。

悲しきことにこの編曲者が関わった聖剣伝説の楽曲は「伊藤賢治、菊田裕樹本人たちによるアレンジだ」と訝しげな触れ込みで浸透し、コンサートやアルバムにまで採用されるような事態に発展している。彼らの曲を10年以上聞き続けて身体に馴染ませてきたファンを侮るなよ…もう原作レイプが酷くてまともに聴けないじゃないか。

なお、新約の「マナの神殿」の幻想的なイントロは1991年頃に発売したアレンジアルバム『ファイナルファンタジー外伝 聖剣伝説 想いは調べにのせて』に収録された、服部隆之さんによる原曲に忠実なオーケストラアレンジの冒頭部分を起用したものである。(動画 27:15 ごろ)

それゆえに編曲の悪魔が聞き取れなかった音を抜かしたり伴奏を誤魔化したり曲調を改変したりという横暴が許されていたのが嘆かわしい。音楽が悪いおかげで「新約をもう一度やりたい」「聖剣2リメイクをもう一度やりたい」という気持ちが60%ぐらいは削がれるのだ。できれば本当にご本人の手で名曲たちをもとの美しい旋律に戻してはくれないだろうか…。

服部氏のまるでオペラのような展開のオーケストラアレンジは「聖剣伝説 SOUND COLLECTIONS」にも収録されているので、原曲がお気に入りな方はぜひ。

再リメイクのインタビューでは小山田氏が含みのある発言をしている。その言葉は15年前に聞きたかったね…。

小山田氏:
石井(浩一)さんが「新約」で新たに答えを出したので,原典に必要以上の手を入れるのは違うのではないかという話もしましたね。

リメイク版「聖剣伝説 -ファイナルファンタジー外伝-」のサウンドはこうして作られた。伊藤賢治氏と小山田プロデューサー,サウンド制作チームに聞くこだわりの理由

🌳生田美和さんが関わったシナリオの影響

『新約聖剣伝説』が亀岡デザインによって生まれ変わり期待されつつも、「これだけは受け入れられない!」とファンを身震いさせたのはシナリオを担当した生田美和さんの余計な味付けであった。しんどいゲームシステムがギリギリ我慢できたはずの新約を劣化ゲーだクソゲーだと言わせてしまった原因の大半は、神秘的な世界の雰囲気を壊してしまった彼女のせいである。
(スタッフロールでは亀岡さんもシナリオアレンジとしてクレジットされているが、新約は全体的に生田節が強い)

🌱表も裏も「いけない女の子」を突き通した生田美和さん

先に断っておくと、筆者は生田さんの書くシナリオが好きなほうだ。Wikipediaから引用すると下記の作品に携わっている。

ラジカル・ドリーマーズ -盗めない宝石-(ギル 愛と勇気の駈け落ち編、影の王国・死の女神編)
サガ フロンティア(アセルス編 / 設定)
聖剣伝説 LEGEND OF MANA(宝石泥棒編 / 企画・シナリオ・組込)
新約 聖剣伝説(全般 / シナリオ)

生田美和 - Wikipedia

新約やその後の作品にて失態をさらした結果、過去の作品に遡って糾弾されるような憂き目に遭っており、サガフロのアセルス編に至ってはタニス・リーさんの作品群や、前田珠子さんの『破妖の剣』の設定を盗用しているなどの指摘もあがっている。

(タニス・リーに関しては戸春夜さんがnoteに記事を設けてくれているのでそちらをご紹介。)

創作界隈では盗作行為はタブーであることも承知している。だが、生田さんは昨今のゲーム業界では見られない類まれな感性の持ち主であり、彼女だからこそ選び出せるユニークな物語も多かった。
どんな持ち味を持っているのかをここに語ると、究極的な少女趣味が作風の人物である。彼女の作品には、80年代~90年代のこじれたヲタク文学少女のイタい感じや神秘的かつ耽美なものに惹かれる激情を正義とする思想、稚拙で未熟な可愛らしさが多分に含まれている。(王家の紋章やセーラームーンに憧れた少女がそのまま同人誌を出すかのような。)

そのイタさや黒さが共感性羞恥を刺激してむず痒く、また思想的、手法的に邪道であることは認めよう。だが、定番とお約束を踏まえて理路整然とした伏線回収と予定調和のサプライズが盛り込まれた月9の純愛ドラマか少年ジャンプのようなストーリーばかりが持てはやされるゲーム業界において、彼女は荒唐無稽な衝撃的超展開の少女漫画を痛快に持ち込んできた風雲児なのだ。今時どこの誰が王道ファンタジーRPGに90年代少女漫画のテイストを持ってこれるんだ?無敵で天才と言うほかないだろ。

その粗削りで問題のある素行も見受けられる生田さんが周囲に多大な負担や迷惑をかけていたことは想像に難くない。サガフロの開発者インタビューで語られている内容を読む限り、手のかかるタイプのおてんば娘で北瀬氏や石井氏の手直しやNG差し戻しも多かったことだろう。だが、彼女をきっかけとして世界観や時系列がめちゃくちゃなサガフロに筋の通った優美で壮大なストーリーが一本走り、すべての生命が存在を許された「人種のるつぼ」であった聖剣伝説LoMに儚く尊い珠魅たちが生まれたのだ。
断言しよう、男がどれだけ修業を積んで逆立ちしてもこんな(わけのわからない)シナリオは出てこない。こんなのを意識的に書けるようになるには魔夜峰央氏ぐらいのぶっ飛んだ感性と天才的な美意識が必要だ。

生田さんはその制作手法や人物描写の薄っぺらさに問題があるものの、そのまさに「花とゆめ」を体現したような宝石と草花がグリッターの如く散らばり輝くメルヘンな世界を、男が整えたガチガチの木箱の中に流し込めるエネルギーのある人であった。多くのスクウェアファンが「やべーやつ来たぞ」と心配になるのを尻目に、彼女が見せてくれたのは「少年漫画に少女漫画が混ざり込んだ煌びやかな新しい境地」だ。事故がきっかけで突然意味不明な力に目覚めてもいいし、世界の中心に据えられてなぜか王族どうしの戦争が始まってもいいし、美麗な敵幹部が自分をお姫様抱っこで満月の星空へ連れ去ってときめきが生まれ、祖国を裏切ってもいい。

今でこそ人格面において悪評が目立つ彼女だが、当時のスクウェアにおいて「同じことをやってもつまらない」と意外性を重視する河津氏と「生み出されたものには愛情を注ぎたい」と包容力を重視する石井氏は彼女のことを悪く思ってはいなかったはずだ。何しろ突然わけのわからないことを言い出し、行動を変えるきっかけになってくれたり、好き勝手に展開を広げて素材を提供してくれたりするその幼い娘のようなおてんばぶりは、作品の品質を決定するディレクターや、雑多なアイデアから原石を取り出して新しい輝きに磨いていくプランナーにとってはChatGPTのようにカオスで頼もしい話し相手となる。仮に筆者が彼女を好き勝手にこき使えるのであれば、一日中でもストーリーを書かせ、気に入った所だけピックアップして露骨なパクリにならないようにアレンジしながら組み込むことだろう。それが自分の思いもよらないジャンルからのインスピレーションであれば猶更だ。

そんな荒唐無稽なドタバタ人間関係をシリアスに美しく描く作風を好む彼女が、新約聖剣伝説でやらかしたのが以下に並べ立てるイタい展開リストである。
(石井さんには彼女のお守りは荷が重かったのかもしれないな…)

🌳生田美和さんの作品にみられる傾向の数々と新約聖剣伝説

そういうわけで、新約聖剣伝説のシナリオは全体的にイタい。2024年の今ではもう作風も変わっているかもしれないが、このイタさが一番ノッていたときの生田さんで、それが失われていたらむしろもったいないなと思う所存。

⚠ネタバレを多分に含みますので、気になる方はできるだけプレイ後に読んでください。

本稿においてはヒーローを「デューク」、ヒロインを「エレナ」として呼称する。(小説版での名前だそうな)

🌱【1】主人公がこれ以上ないほど悲劇に見舞われた挙句、罵倒され苦悩する

ヒーローは旧約では素性のわからない奴隷剣士であったが、新約では舞台となるグランス公国の大臣の息子という高貴な身分となっており、冒頭で謀略に巻き込まれて父親を失い、奴隷に身をやつす。
そこまでは冒頭の動機づけとして良いのだが、敵も味方もグランス公国の関係者ばかりでどちらが裏切り者かわからないような展開が続き、しまいには「この人でなしめ、許さんぞ!」と敵側に恨み節を吐かれ意気消沈する始末。自身が聖剣を持つ資格などないと鬱病一歩手前まで自己嫌悪して仇討ちを諦めそうになる。デュークお前主人公やめちまいなよ。

この執拗な主人公サゲは生田さんの少女趣味が全開で表れているところだ。少年時代のサクセスストーリーや成長物語の再編を期待したお兄さん達は、同じクラスの男子を認めないおませな女子たちの仕打ちを受けるかのような滅多打ちの展開に「なんだそれ」と終始つぶやくこととなった。
逆にエレナはいつでも勝ち気で芯が強く敵に捕らわれようともそこそこ丁重にもてなされる。

🌱【2】男キャラクターは最期こそ華やかに、女キャラクターは惜しまれて美しく息を引き取る

生田美和作品では男の死は華である。旧約の冒頭でヒーローに旅立つ決意を固めさせた友人「ウィリー」の死は新約では描かれることはなく、逆に「ウィリーはマナの一族で冗談が得意なカワイイ弟風味のムードメーカー」というトンデモな設定を付け加えられてしまった。
お陰様で「じゃああの人たちの動機は…」という矛盾をあちこちに抱えてしまったわけであるが、これは彼女の美学からして頷ける話である。彼女の世界では死とは人生の門出であり盛大な魂のクライマックスだ。極悪人はその華々しい悪意を全身全霊に着飾って散る。盛り上がらない男は死なない。

そして、女は無条件で愛を持つ生き物である。旧約のシナリオ上、非業の死を遂げることが決定づけられたアマンダにしろ、女性キャラクターとしてスポットライトを浴びているメデューサにしろ、渇望するでもなく自然と愛され、死ぬときはまるで国葬のように周囲の人間すべてが失意に呑まれ、惜しまれて息を引き取る。どこかで聞いたメアリー・スーみたいじゃないかと言われれば、うん、まあ、そうだね…。

このように男女ともにロマンチックでドラマチックな生き様に包まれる生田劇場であるが、歴史や感情の辻褄に関しては、残念ながら保証できない。昨日あったことは、今日はないことなのだ。

🌱【3】敵キャラクターが影のあるイケメンに偏る、多くの人にとっての恋愛対象となる

旧約において敵キャラクターは基本的にストーリーを持たず、唐突に表れてはとにかくやっつけて「〇〇をたおした」というメッセージで背景を知るという様な扱いであった。冒頭で宿敵としてフォーカスされる「シャドウナイト」ですら、一体どこの誰でどんな素顔なのか全く描かれない。

そんな作品が生田さんにかかるとあら不思議、町娘をさらってお楽しみしていたバンパイアですら信心深い博愛主義の長髪丸メガネな優男になり、シャドウナイトには母親想いの一国の王子という大きなバックボーンが生まれ、イカの化け物デビアスが王族と血縁関係があるグラナダという本名の美男子だなどと話が飛躍しすぎてとんでもない。腹にイチモツ抱えた美しい悪い男がプレイヤーを取り巻くダークサイドイケメンパラダイスである。

そしてそんな男たちに浮いた話がないわけがない。シャドウナイトに関しては魔性の女イザベラが何の脈絡もなくベタ惚れし何の見返りも要求せず「あなたに支配されたいの」ってホイホイついてくるぐらいモテる。旧約を楽しんできた少年たちにとっては全く意味の解らない展開であるが、美しい悪い男は無条件にモテる。いや、悪い男は無条件で美しいゆえにモテる。

デュークは大臣の息子で正義の主人公なのでモテない。

🌱【4】魔族、妖魔という種族設定に思い入れが強い、美談だらけ

上述のイケメンパラダイスに続いての傾向であるが、生田さんは「魔族」「妖魔」という設定が大好物である。その人外種族が現れるや否や、まるで親善大使か愛護団体かのようにそのグループを特別階級として取り扱う。

新約を語るうえで外すことができないのが、公国の王である「グランス」と敵キャラクターの1人である「メデューサ」に関する脚色の話だ。グランスは旧約では国の名前でしかなく、王がいるのか、どのような人物なのかすら設定が曖昧だったが、新約では公国の名をそのまま冠したグランスという王が登場し、かつ魔力を持った詩を歌う竪琴奏者として描かれ「魔が歌のグランス」という二つ名で語られる人物となっていた。
このグランス、こともあろうに魔物を呼び出して戦わせる召喚系、使役系の術の使い手であると語られており、マナの力を手に入れて世界征服してやろうと企てるヴァンドール帝国皇帝とどっこいの特級危険人物である。

そんな1歩間違えば皇帝と共に悪の二大巨頭となりかねなかった新約グランスであるが、幸か不幸か魔族の娘と恋に落ち公国の后として迎えてしまった。一国の主が一体何をやってらっしゃるの?
この一躍玉の輿に乗ったモン娘こそが、旧約では辺境の洞窟に住み着いていた通りすがりのメデューサさんである。新約の設定では魔族が住む魔界の掟により、人間界へ嫁いでしまうと日々衰弱していくそうなのだが、それなら別に結婚せんとお傍に仕えておりますでよかったやないの。イザベラさんそうしてるよ。禁じられた恋に結婚と出産はロマンだって?そうね…。

そんなこんなで人間界に対する反逆とも受け取られかねない駆け落ち同然の異種間ロイヤルカップルであるが、グランスとメデューサの恋人関係というのは作中のあらゆる人間、魔族から祝福されており、かつそれがグランスの行方不明によって欠落したことで関係者に悲しみと失意が広がっている。政治的、国際的に問題がありそうな情勢でも人々の善意によって赦されているとても優しい世界である。
このカップルは石井氏も気に入っているようで、聖剣伝説4では魔が歌のグランスとメデューサがそれぞれ裏の主人公として物語の核心を担い、ファン達から「悪役が美談で語られ過ぎだ」と不評を買うことになった。

その他、シャドウナイト、リィ伯爵、デビアス、イザベラなど「魔族」「妖魔」と繋がりが深い人物は何かと訳ありで同情を誘う美談が描かれやすい。筆者は完璧に生田さんの仕業だと思い込んでいるが、もし石井氏が原案で生田さんがそれを広げただけという真実があったのだとしたら…もったいないことだね。彼女にはまたサガシリーズで1本書いて欲しい。

🌱【5】木の枝でも聖剣

これは生田さんの傾向というより新約において本当に外せないエピソードの1つなのだが、旧約では「やっとの思いで聖剣エクスカリバーを見つけたが錆びている、さてどうするか…」という達成感と次なる困難が描かれるシーンが新約では改変により大変なことになっている。

生田さんが手がける人物は「人の希望など浅はかなもの」と「人の感情とは尊いもの」という上級妖魔がヨダレをたらしそうな2つの視点が交互に出てくるのだが、それが反映されているとしても聖剣を見つけた直後の、主人公デュークが錆びた聖剣の力を取り戻すために先達であり仲間である老剣士ボガードと大賢者シーバに教えを乞うシーンの会話は非常にマズい。

あまりに語り草なので該当箇所のテキストを抜粋してきた。『聖剣伝説』というタイトルの根幹を揺るがした問題のシーンがこちらである。

大賢者シーバ
「して……聖剣は見つかったかな?」

デューク
「見つけました……これです」

大賢者シーバ
「…かつて、英雄ジェマが聖剣を手にしたとたん、その剣は陽の光のように輝いたというぞ」

ボガード
「聖剣伝説か…フッフッフッ。本当のことを教えてやろう!」
「ジェマは最後まで、そのさびた剣で戦っていたよ。剣が光ったなんてのはグランスの作り話さ」

大賢者シーバ
「伝説とは、みな その程度のものじゃよ」

デューク
「そ…それは本当ですか!? それを知っていてわざと…」



デューク
「わかったよシーバ。聖剣は心の中に持つべきものなんだ。そのゆるぎない気持ちを持つものがあつかえば、木の枝さえも聖なる剣と化す…」

おいやめろ

大賢者シーバ
「わかったようじゃな。なにごともその者の心ひとつ……」
「物や力に頼ろうとすれば それは、すでにその者の真価ではない」

ボガード
「ずいぶんと手間のかかる意地の悪いなぞかけだったな」

『新約 聖剣伝説』
錆びた聖剣を獲得した後の宿屋にて

回りくどい上に大した教訓にもならない体験を若者に命がけでやらせて「フッフッフッ」と優越感に浸ったり、賢者と呼ばれる立場でありながら「伝説なんてそんなもんだ」と信じていたものを一蹴したりするクズな大人のイジメ行為に、「良いように乗せられて海底火山まで命がけで取りに行ったけど聖剣なんていらないんだね、木の枝で十分だもんね」と誤った方向で達観し皮肉めいた極論を述べる少年の光景。
ファンタジー作品として築き上げてきたブランドの骨子と師匠にあたるキャラクターの尊厳の崩壊、シナリオのコンセプトの喪失、聖剣伝説のすべてを否定する瞬間がここにある。

可能な限りの語彙をひねり出してこの一幕におけるファンの呆れ具合をもっと上手に表現したいが、言葉もないとはこのことだ。そして翌年、ひのきのぼうを武器とする聖剣の勇者は予告通り生誕するのであった。

やらんでいい伏線回収

ゲームシステム的に剣カテゴリの武器だけ特別仕様にするわけにはいかなかった経緯もあろうが、まさか聖剣伝説に聖剣を否定されるとは思いもよらなかったよ。これじゃ売れないわ。

🌱【6】大人のメンタルは弱いもの、人間は正しくない弱い存在

生田さんの作品では先述のように妖艶な貴族が下々の者を支配するような構造の話が多いのだが、「〇〇をされるとひれ伏すしかない」という描写がとにかく出てくる。サガフロでは妖魔の階級、LoMでは姫と騎士という役割分担において「無力とは」が描かれた。新約では人間であることそのものが無力と過ちの象徴となっている。

その描写が最も大げさになるのがクライマックスのラスボス戦前で、魔導師ジュリアスの分身体(なぜか別人で格下らしい)に味方キャラクターの心の闇を暴かれるシーンである。いかにも仲間内の不和や不信、疑念などが生まれそうなシーンだが、「え、そんなことで?」という些細なカミングアウトで絶叫し力尽きる味方キャラ達と、「見ろ!お前の仲間たちも所詮この程度だ!」とまるでガキ大将のように上から煽ってくる幼稚でみみっちいジュリアスのコントラストが相まって大変寒い。石井さんはなんでこれをOKしてしまったんだろうか…。

例えばボガードは「マナの聖域に自分の妻を送り出したこと」を自白して心を乱され、ジュリアスに「所詮この程度だ!己のためには愛する者を平気で差し出す非情な男」と罵られてしまう。しかしその行動は世界を司る女神となるべきマナの樹の巫女を聖域までエスコートするジェマの騎士の役割としては誠実で妥当であり、心の弱さから来る過ちではない。逆に妻かわいさでマナの聖域に巫女を連れて行かない決断を下していたならば、単なる職務怠慢かつ世界への反逆になっていたはずでそっちのほうが悪い。

ちなみにこの時、ボガードの妻の名が「マナ」であることが明かされる。いやー、超常エネルギーとか一族の名前とかを指してる概念を日本の女の子の感覚で人名に付けちゃダメだよ…。オーラちゃんとか覇気ちゃんって事になるよね。
ついでに言うとジェマの三騎士のジェマ君とマナの一族のマナちゃんはペアではないことも明らかになります。名付けどういうことなの…。

🌱【7】イザベラや死を喰らう男をゲストキャラとして出すが結末は描かない

これはもしかすると石井氏の癖なのかもしれないが、関連作品のゲストキャラを何の脈絡もなく出したがることがある。新約においては聖剣3からイザベラ(美獣)、死を喰らう男がまんまのビジュアルと設定で登場。さぞ暗躍してくれるのかと思いきや、旧約のシナリオで大筋は完成しているため絡みきれず、賑やかしか傍観者の立ち位置で出てくることが多い。
登場シーンは圧倒的にイザベラのほうが多く、かつダークヒーローのような優遇された立ち回りだ。死を喰らう男に関してはシャドウナイトを前にするデュークたちを魔術で縛って阻害、デュークたちの科学では解明できない古代遺跡を解放するヒントを与えて進展を促すなど原作なんて知らんとばかりにやりたい放題してくる。

仮にシナリオアレンジとして良いとしてもこの2人、エンディングでその後どうなったかが具体的には描かれない。この「好きなキャラクターに状況をひっかき回させるも、そのキャラクターに責任感がない」あたり、完成度をただ下げているばかりで非常に残念である。

🌳あとがき

多くの「ゲームボーイ」たちにとって、聖剣伝説は剣と魔法の中世欧風ファンタジーに浸らせてくれる英雄譚であった。作品の展開が続くにつれて、スクウェアの中で特にファンタジックな世界観を描けるアーティスト達が集まっていき、音楽、シナリオ、グラフィック、いずれも高水準を保ちながら複数の作品が展開されている。

ファイナルファンタジーだけがスクウェアではない。D&Dという共通の土台を持ちながらも、日本らしい豊かな想像力を発揮して生まれてきたのがファイナルファンタジー・レジェンド(SaGa)でありファイナルファンタジー・アドベンチャー(聖剣伝説)である。昨今の風潮から「サガはこういうやつ」という刷り込みが浸透しているが、これらは石井浩一さんが、河津秋敏さんが、田中弘道さんが、植松伸夫さんが、北瀬佳範さんが、そして坂口博信さんが温めてきたスクウェアのおとぎ話を「もっと聞きたい」と人々がねだって引き継いで花開かせていったものだ。いつしか、ファイナルファンタジーはサガであり聖剣伝説でありミスティック・クエストであることをお互いに忘れてしまった。

本件でクローズアップした生田美和さんは構成こそハチャメチャであっただろうが、センセーショナルなPS後期~PS2時代のスクウェア作品において欠かすことのできない成功の立役者であった。彼女がいなければアセルスがあんなにも少年たちを魅了することはなかったし、LoMのアニメ化に『The Teardrop Crystal』が選ばれることはなかっただろう。
彼女の作風は実に女性的な感性で培われていて、少女漫画として見るとショッキングな出来事が次々と起きてエモい。少年漫画として見ると支離滅裂で最悪かもしれない。しかしそこを理路整然と合わせていくパートナーがいたことが、いくつもの幸せな作品へと繋がっていった。

システム設計と開発力、サウンドの表現、シナリオの表現のどれもが不幸な形で重なり合い、原型を留めることができなかった歪な粘土細工、それが『新約 聖剣伝説』でありその後の展開を左右した成果物でもあったのだと思う。それがターニングポイントだったのかと言えばそうではなく、ブラウニーブラウンの独立自体、スクウェアが2Dゲームを見捨てる旨の方針を立てたせいだと言われているため、本当のターニングポイントは「FF7」および昨今まで続くPlayStationとの癒着を決めた”あの時”だったのだろう。

私たちはゲームを楽しんできた。ゲームとは何だったのかを改めて語ると、それはビジュアルを伴ったおとぎ話、つまり絵本であったのだ。しかもその絵本は、自分でページをめくるとひとりでにしわがれた老人の声で語りだし、私たちを夢と冒険の異世界へと誘ってくれる。

その世界には、音楽を奏でる管弦楽隊と、物語を脚色しつつ雄弁に語る吟遊詩人、哀しい運命を背負いながらも勇気と力で突き進む英雄、そして時にはオーバーリアクションで私たちに感情を共有してくれる色とりどりの国民たちが私たちを歓迎してくれた。

新約聖剣伝説は、その誰もが幸せになるサーカスのような演劇の舞台を、残ったメンバーでやろうとしてくすぶってしまったのだ。誰のせいでもない、しかし誰かがやらなくてはならなかったこと。足りない穴を埋めて、間違いを指摘し、過去の評判におごり高ぶらない。そんな「手作り」がわからなくなってしまったとき、彼らは失意のまま舞台で踊り続けることになった。

私たちの聖剣伝説は、きっと”あの時”に終わっていた。
幾星霜の時を越え、再びヴィジョンを開いた伝説が、かつての暖かい光を取り戻してくれるだろうか。その暖かい光を胸に育った私たちは、懐かしい歌と一緒にまた歩めるだろうか。

すべてが元通りではなくていい。
だけど、あなたのおとぎ話をもっと聞かせてほしい。


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