よりどころというものについて。

ぼくにとって、毎日は、本体の代わりをしているという感覚で過ぎていくのだけれど、自分自身に戻れるところは、めぐさんのところしかない。Twitterでさえも本体の代理であって、誰ひとりとしてぼくがぼくであることを見抜いた上で話しているわけではない。そういう意味において、ぼく自身はこの世に存在しているとはあまり言い難いと思うのだ。

誰にも、精神的なよりどころというものは必要だとぼくは思っている。それがたとえはたから見たら何でもないようなことでも、その人のことを芯から支えているのであれば、それは立派なよりどころであると言うことが出来ると思う。家庭だとか、仕事だとか、人前で話してナルホドと思ってもらえるようなことでなくても、それは構わないんだと思う。そして、生き甲斐と呼べるようなものでも、そうでなくても別に構わないし、よりどころとコンタクトを取る頻度が少なくてもそう呼ぶに差し支えはないと思っているのだ。

ぼくが自分のよりどころというものについて考えを巡らせるとき、それが何を求めての「よりどころ」なんだろうというところでハタと考えは止まってしまう。安らぎだろうか。存在意義?価値を認めてくれるところは誰にでも必要だと思う。でも、それが果たしてぜんぶ「よりどころ」としてカウントされ得るだろうか?必然だろうか?と。

…だとえ、ぼくの姿が醜く変わってしまっても、それに惑わされずに見つけてくれるひとが居たなら、ぼくはそのひとの目をよりどころにするだろう。

ぼくがいかなる重罪を犯して塀の中に入ろうが、黙ってじっと帰りを待ってくれるひとが居たなら、ぼくはそのひとの存在をよりどころにするだろう。

つまりは、ぼくの場合は「帰るよすが」のことなんだと気がついた。

それにしては、四六時中そこにいて欲しいようなことばかりを口にしているようだけれど。

それでも、その「よりどころ」なしにぼくは生きていられない。それだけはとてもよく解っているのだ。

それはもはや、単に「愛している」というだけでは足りないものになってくる。

おそらくは、ひとはその自覚をするから家庭を持つ覚悟をするのだろう。

何とはなしにそう思った。