顔が本の猫ショート_001

顔が本の猫

以下、改行など適当ですが、元にしたものです。
細かいところが少し違ったりします。

顔が本の猫(ショートver.)

ここ塔山町には顔が本の猫がいる

文字通り彼らの顔は本である
表紙は何も書かれておらず真っ白で
ページも同様だ

顔の本は概ねいつも開かれているが
眠っているときは閉じられていることが多い
開いたまま眠っていることもあるみたいだけれど

私は子どもの頃
顔が本の猫には絶対に近づいてはいけないという
両親の言いつけを破り
好奇心を持って撫でてみようとした

すると
手は食べられてしまった

いやこの場合は食べられた というのは適切な表現ではないかもしれない

手はどこかへ行ってしまったのだ
出血せず痛みもなかった

顔が本の猫は一般的な意味での捕食と
このような なにかを喪失させてしまう捕食と
ふたつの捕食があるらしい

住民のやる餌などを
普通の猫たちと同じように食べているのは
この町のいつもの光景だ

以来 私は右手のない暮らしをしている
右利きだったため
左手で物を使うのに苦労した

私の右手がない事情を町の人は察してくれる

14歳の時
もう一度右手 というか右腕を少し
細心の注意を払いながら 顔が本の猫に食べさせてみたことがあった

どうしてそんなことを試みたのかというと
年月を経ても私はどこかに右手の存在を感じていたからだ

右手は完全に喪失――消滅してしまった訳ではなく
右手は右手でどこかで暮らしているだろう

私がそう話すと 無い手があるかのように錯覚する幻肢ではないかと言う人がいるが
違うと断言できる

元あったところではない遙か別の彼方に右手の存在を感覚するのだ

そうして
腕を食べさせてみたところ
やはり輪切りになった腕の存在も感じることができた

その場所は右手と連続した所ではないように思われた
それどころか
右手とはまったく全然違うどこかにある
もちろんこれらは概念などではなく物体としての話をしている

また 右手や輪切りの右腕からすれば 
私に対して私が右手や輪切りの右腕に感じているような認識を
持っているのかもしれない

私が三人になった と言うつもりはないけれど

自室のコーヒーテーブルの前や
公園のベンチや
駅のプラットフォームで

ふと時間や空間を意識してしまった時などに

私のかけらのようなものが
不可知の世界に存在しているという思いをいだく


書籍代にします。