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境界線を引かずにはいられない僕ら

モノクロ写真は、白、黒、その間のグレーで表現される。
粒子の濃淡がグラデーションとなり、グレーの階調を生み出す。
そうして、白がいつしかグレーとなり、そして黒になる。
白から黒は一直線上でつながっているのだ。

しかし、そうした連続性の中にも、言葉で名づけをしようとする。
「白」「グレー」「黒」の連続の中で、「ここまでが白」「ここからは黒」といった線をどこかに引かなくてはならない。

でも、その境界線は、本当に「白」なんだろうか、「黒」なんだろうか。
あなたは、本当に自信を持って「ここから白だ」「黒だ」と言い切ることができるだろうか。

私には、できない。

実際のところは、私も「白です」「黒です」と言うことはある。
だけど、それを絶対定義だと言い切るつもりはないし、自信もない。

雨上がりの空にかかる虹が、文化圏によって5色、6色、7色、8色と色分けが違うと言われるように、
白、グレー、黒のグラデーションの切り方も民族や文化ごとに異なるはずである。

さらに言えば、同じコミュニティの中でも、ひとりひとりで区切りの位置が違うんだと思う。
(白って200色ある、という人もいますね)

そう考えると、「これは白です」「黒です」といった線引きは個人のものへと回帰する。
その人が育った文化、環境を下地に、辿った人生や味わった喜怒哀楽が価値観のペンになる。
自分だけの価値観のペンを握りながら、時には必要に駆られ、時には自発的に線を引いていく。

私たち人間は、白黒つけるための区切り線を引かずにはいられないんだ。
きっと。

そして、それは色だけに留まらない。

文化、民族、性別、年齢、生まれ月、血液型、髪の色、勤め先、乗っているクルマ、住んでいる路線、来ている服の色、文系・理系、ブルーカラー・ホワイトカラー、、

そんなあらゆることで境界線を引こうとしてしまう。
線を引いて、その内側外側で向き合う態度を変えることだってある。
差別、偏見、ガラスの天井、好き嫌い、身内・よそ者、関心・無関心、、

白から黒が一直線上でつながっているように、本来の自然状態であれば線引きは存在しない。
全てが白であり、黒であり、グレーであり得たはず。

線は、人間が引いていたんだ。

2024.2 Yoshiwara (Shizuoka)

そうした人間の性を前にしたとき、モノクロ写真が面白いと思った。
どんなに鮮やかで多様な姿かたちがあったとしても、モノクロにしてしまえば、そこに赤も青も緑もない。
全てが白から黒に至る階調の一直線上に収斂してしまう。

どんなに違いが目立とうと、根っこは同じ、粒子の階調の世界だ。
どこまでもグレーでありえたはずの世界に、線を引かずにいられない人間の所為が見えてくる。

「線を引くことをやめろ」とは言わないし、人間である以上やめられないと思う。
ただ、自分を含め、境界線を引いてしまう生き物なんだということは自覚しておきたい。

私がこれまでの人生の中でどんな線を引いてきたのか。引いてしまうのか。
モノクロ写真を撮ることで、もしかするとこれを可視化できるんじゃないか、とふと思いついたのです。

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